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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

一 八藩成立までの知行制と村

 近世知行制

 近世における武士の給料は、土地か米で支給されたから、近世の村を考える場合、藩の知行制について考えておく必要があろう。それは、藩の知行制が地方知行制(給人が知行地の農民から直接年貢などを徴収する制度)であったか、蔵米知行制(給人が知行地の農民から直接に年貢を徴収することをせずに、知行高に対する年貢米を藩庫から受け取る制度、俸禄制)であったか、地方知行制の場合、給人にどの程度の支配権があったか、一村一円給地であったか、相給地であったか、給地の割替が行われたか、などによって、農村支配のあり方が変わってくるからである。いうまでもなく、近世藩の知行制は、一般的には地方知行制から蔵米知行制へと変質するといわれているが、個別的には藩のなり立ち、藩の規模、藩領の地域性、などによって、必ずしも一様にそのように変質するとはかぎらなく、独自な形態を展開させる場合もあった。
 さて伊予国においてはどうであったろうか。秀吉の四国征伐後、伊予国には居付大名は全くいなく、領主の交代がはげしく、そのうえ伊予国の一円支配は小早川隆景時代のみで、他の時代は多くの大名に分割支配されたという歴史をもつ。隆景支配から八藩成立までの諸大名の中で、藤堂高虎・加藤嘉明・脇坂安治らの知行制を、八藩の知行制の前史としてまず見ることにする。

 藤堂高虎の知行制

 慶長五年(一六〇〇)関ヶ原役後、藤堂高虎・加藤嘉明は、伊予国において、それぞれ一四万石が加増され、伊予国は両氏によって折半領有された。今治城主高虎は、慶長六年一一月家臣渡辺勘兵衛に、二万石の知行地を与えた。「知行方之目録」によると知行地は、一村一円で与えられているが(喜多郡若宮村のみ相給)、今治城下周辺にはなく、城下から遠く離れた宇和郡・喜多郡・浮穴郡・桑村郡・周布郡・新居郡・宇摩郡の七か郡に分散していた。また同時に与えた知行地支配について記した「置目条々」には、①知行地の免(年貢率)は、藩の検見奉行が決定する、②年貢の徴収升を決定する、③口米は、年貢一石につき三升とする、役米の徴収は禁止する、④升取は、庄屋かおとな百姓に申付け、斗かきのかき方を指示する、⑤年貢の津出しは、五里まで百姓が負担し、それ以上の分については給人が負担する、⑥「百姓家付之帳」を作成して、戸口を把握し農民を管理せよ、もし一人でも逃亡農民を出せば「越度」とする、⑦「役儀之百姓」(役家百姓)より軒別年間入木を一〇荷徴収することを許可する、其の外、百姓から夫役を徴収することは一切禁止する、⑧村高百石について、こぬか五石とわら一〇束の徴収を許可する、⑨山林竹木小物成浦役については、高虎が奉行を通して申し付ける、ただし竹木が入用の時は、奉行へ申し出れば切手を遣す、と知行地支配のことが九か条にわたって詳細に指示されており、勘兵衛の独自な支配はできない様になっていた。つまり、家中最多の知行取であった勘兵衛は、高虎の決定した免で、知行地から年貢を徴収する権限、知行地の役家百姓から入木一〇荷と村高百石につき小糠五石と藁一〇束を徴収する権限、などを与えられたに過ぎなかった。勘兵衛の知行地の山林・竹木・小物成・浦役については、高虎が奉行に命じてすべて徴収した。一村一円で知行地が与えられたが、その知行地は伊予国全域に分散しており、知行地の行政権、裁判権はもちろん、免の決定権さえなかったから、地方知行であるといっても、その支配内容はきびしく制限されたものであった。にもかかわらず農民の管理については、一人の逃亡農民も出さないようにきびしく申し渡されているのである。万石未満の家臣の知行地支配については、勘兵衛の知行地支配から十分推察することができよう。

 藤堂高吉の知行制

 慶長一三年(一六〇八)高虎は、伊勢国に転じたが、今治二万石はもとのまま与えられたので、寛永一二年(一六三五)まで養子高吉を今治城におらせ支配させた。この間の高吉の知行制は、慶長一四年九月付、同一五年六月付矢倉兵右衛門宛高吉知行状、寛永五年一二月付小野作兵衛宛高吉知行状および元和六年(一六二〇)一一月「越智郡古谷村御検地帳」からみると、地方知行であったが、①知行地が分散相給で支給されていること、②高吉によって免が三ツ五分と決定され、給人には免の決定権がなかったこと、③小物成などは支給されていないこと、を内容としており、したがって給人は知行地から年貢を受け取るのみで、知行地に対する支配権は全くなく、事実上の蔵米知行であった、といってよかろう。

 加藤嘉明の知行制

 松山城主加藤嘉明の知行制はどうであったろうか。慶長六年(一六〇一)五月付服部清六宛嘉明知行状、同年木村六右衛門宛嘉明知行状からわかるように、地方知行であったが、知行地が相給で支給されていた。元和二年(一六一六)四月付肝煎百姓宛足立半左衛門(家老)の免状、「風早郡宮内村定土免之事」によると、知行地の免は藩が決定している。慶長二〇年四月付村々肝煎中宛足立半右衛門の「人足わり」状および慶長八年八月付肝煎百姓中宛足立半右衛門の「新居郡上島山村当請米事」によると藩が知行地の農民に人足などを割り付けている。など嘉明の知行制は、上級家臣の知行状がないから明確にはいえないが、高虎の知行制と同じであったようである。なお寛永四年(一六二七)松山に入封した蒲生忠知の知行制は、知行地が分散相給で支給され、知行地の物成が藩によって決定されているから、地方知行の形骸化は進んでいたようである。

 脇坂安治の知行制

 慶長一三年(一六〇八)大洲に入封した脇坂安治の知行制はどうでったろうか。同一五年八月一八日付喜多郡之内給人所きもいり中宛安治の触書(一一か条)には、①ロ米は年貢一石について三升とする、年貢徴収の斗升は、領主が焼印して渡した斗升に限り、これ以外の斗升の使用を禁止する、②年貢米の升取は、村々のきもいりに命じ、今後給人の指名した者による升取は禁止する、③給人がむたいなことを申す時は領主に直訴せよ、④年貢米が納入された時は、その都度領収書を出すこと、⑤給人およびその家来が、知行地で手作することを禁止する、その理由は、給人が農民から「能田畑」を取り上げ、夫役を徴収して耕作するから、⑥知行地へ給人の下代が行った時、まかないは一切してはならない、⑦詰夫の提出量は、村高によって決定し、それ以外に徴収してはならない、⑧給人が知行地の入木・樹木を採取することを禁止する、⑨知行地において決定されている小物成・長木などは百姓に申し付けること、⑩給人が農民に対し、いわれざることを申し付けた場合には何事によらず領主に申し出よ、⑪この外に領主が失念しているものがあれば、給人からでも百姓からでもよいから申し出よ、と記す。つまり安治は、給人およびその家臣すなわち武士が知行地で耕作することを禁じ、また知行地において、年貢の口米、年貢徴収の斗升、年貢の升取者、夫役の提出量、などを一律に決定し、知行地における給人の恣意性を排除した。にもかかわらず給人が知行地農民にむたいな要求をすれば直訴せよと命じた。このように安治は地方知行制をとりながら、知行地に対する支配を農民をまきこみながら強化しているのである。
 以上のように、八藩成立にいたるまでの諸大名の知行制は、その内容において若干の相違はあるにしても、すべて地方知行制であったが、諸大名は、知行地に対する給人の恣意性を排除し、農村支配の一元化をはかろうとしていた。したがって、知行地に対する支配は、どんどん制限されてゆき、給人の独自な支配はほとんどできなくなり、貢租の徴収権を持つに過ぎなくなった(ほとんどの藩では、給人の免の決定権もなくなっていた)。このあとをうけて、伊予国では八藩が成立し、大体世襲されてゆく。八藩には家門(松山・西条両藩)・譜代(今治藩)・外様(其の他の諸藩)、一万石・三万石・三万五千石・六万石・一〇万石・一五万石とその規模および幕府との関係においていろいろの大名がいたが、東伊予国・中伊予国に家門・譜代大名、南伊予国に外様大名という配置となった。以下八藩の知行制について、農村との関係に限定して順次みてゆくことにしよう。