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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

五 村落共同体

 村落共同体規制

 近世の水田稲作を中心とする農業生産は、用水排水の設備と肥料の供給源である入会地にささえられておこなわれた。用水は、河川から幹線水路を通し、さらに小さな用水路に引き、最終的に一枚の田に灌水した。用水路の工事は、水掛りの規模によって、字・大字・村・数村の共同でおこなわれ、水の分配は、これらのそれぞれが話し合いで定めた番水によるのがふつうであった。これは溜池のばあいも同じであった。したがって農民個人が必要な時に必要な所に、必要なだけ水を勝手に引くことはできなかった。
 また、当時の農民は、主要肥料としての肥草を主に入会地から採取していたが、入会地は村々の共有地であった。したがってその利用は、字・大字・村・数村で決められたルールにしたがわなければならず、農民個人が必要な時に必要な量の草木を勝手に採取することはできなかった。このように近世の農民は、用水・入会地からつねに規制を受け(村落共同規制という)、その規制にしたがうことによってのみ、農業を営むことができたのである。
 さらに近世の村には、大小さまざまな共同体があった。いわば、村の中のムラである。そしてこれらの共同体もまたそれぞれの秩序をもち、日常の共同労働から冠婚葬祭にいたるまで農民を規制した。

 名の成立

 そうした共同体に、名、組、株などがあるが、組、株については第三節でのべ、ここでは、名について述べることとする。
 宇摩郡上山村は山間地域にある村だが、この村の名は、豊田氏の場合にみられるように、分家によって成立したようである。豊田氏は、永正八年(一五一一)将軍義稙より、宇摩郡を所領として恩給され、在地領主として同年上山村に住みついた。そして秀吉の四国征伐後の天正一五年(一五八七)福島氏の諸士格にとりたてられ、村内で二〇〇石の知行地が宛行れたが、寛永八年(一六三一)の検地で農民(庄屋)となり、その家来は被官百姓となった。
 豊田氏によって成立する名をみると、たとえば、貞享二年(一六八五)から宝暦七年(一七五七)までに、種治は高三〇石に家来(被官百姓)二八人をつけられて福田へ分家し、福田名が成立し、種継は高一六石に家来一三人をつけられて岡へ分家し、岡名が成立したように、分家によって五つの新名が成立している。このように名は、血縁と擬制的血縁(被官百姓など)をふくむ同族的結合を中心として成立したのであり、上山村における名数が、天正一五年頃一〇名(ただし豊田氏の名は不詳で、一名として)、寛永一八年(一六四一)一七名(うち、非豊田系統一二名、豊田系統五名)、宝暦七年(一七五七)三二名(うち非豊田系統一八名、豊田系統一四名)と漸次増加したのも、同様に分家によったものと考えられる。

 名と社寺

 つぎに上山村の名を信仰の側面からみよう。同村は、東之庄・中之庄・西之庄の三庄にわかれ、この三庄が寛政九年(一七九七)には三一名にわかれていた。村の総家数は三六九軒であったから、一名が平均一二軒程度の規模である。
 上山村には、東之庄に稲茎四社大明神、中之庄に牛頭天皇宮、西之庄に稲茎四社大明神があった。すなわち庄ごとにそれぞれの庄の農民を氏子とする氏神があり、さらに名ごとに、それぞれの名の農民を氏子とする氏宮(三氏神のそれぞれの末社)があった。また豊田周助家の氏宮である正八幡宮、蔵六名の内小屋之者を氏子とする小夜之神のように、家あるいは名内の小地域が氏宮をもつ場合もあった。このように、庄・名ごとに、本末関係の氏神・氏宮が重層的に存在していた。
 とくに名ごとにある氏宮は、名の成立によってつくられたのであるから、その成立時の氏子が血縁と擬制的血縁(被官百姓など)によって構成されていたことはいうまでもない。しかし東之庄・中之庄・西之庄のそれぞれの氏神の氏子として、豊田系統名・非豊田系統名の農民がふくまれていること、西之庄の場合は、他村の農民がふくまれていること、などをみると、氏宮の氏子構成に、地縁的要素があったことは否定できない。血縁的共同体として成立した名が、時代とともに、地縁的な要素を増していったと考えられるのである。
 このことは、名ごとにあった堂の檀家構成についてもいえる。上山村には真言宗安楽寺があった。安楽寺は天正一一年(一五八三)豊田種資が、父光広の菩提を弔うため栖雲寺内に建立したものであったが、江戸時代に上山村の全農民の檀那寺となった。中之庄には毘沙門堂があり、同庄の泉田名には阿弥陀堂があるなど、庄・名ごとに安楽寺の末堂があった。すなわち村に寺、庄・名ごとに堂が存在していた。そして、たとえば西之庄の大久保名(非豊田系統)にある十一面観音堂の檀家に、大久保名のほかに豊田系統の宮地名・光定名の者もいるように、これらの堂の檀家構成も、氏宮における氏子の場合と同様、血縁的集団を中心としながら、地縁的要素のあったことは否定できないのである。

 名の変質・分解

 上山村は七〇〇~九〇〇mの山で囲まれ、これといった産業もなかった山間の村である。村高は四〇五石七斗二升(内田一一三石七斗五升七合)で、天正一五年から幕末まで増減がない。宝暦七年(一七五七)において、なお豊田氏(持高四九石余)は、被官百姓三九人をかかえているという、古い社会関係を残す村である。こうした山間地特有の社会背景があったせいであろうか、上山村の名は幕末まであまり分解しないまま存続した。
 ところが、瀬戸内海に面する新居郡松神子村の名の場合は、すでに享保のころから変質・分解をはじめている。この村の名の成立については不詳であるが、享保一六年(一七三一)、兵左衛門(組頭兼帯)は、名内年貢の滞納分五石一斗四升を納入したいと村役人に申し出た。このときの年貢の滞納者は、本郷(八人)、田野上(二人)、宮本(一人)にそれぞれ居住する一一人の農民であった(岡光夫『近世農業経営の展開』)。このように他の名に居住する農民が、兵左衛門名内の土地を所持していたということは、松神子村の兵左衛門名が分解していたことを示すものである。ちなみにこの時期、上山村ではつぎつぎと新名が成立しつつあった。
 一六年後の延享四年(一七四七)、西条藩は松神子村の名を一〇組に再編成して、一〇人の名頭に支配させた。つまり血縁に擬制的血縁をふくむ同族的結合としての名が分解し、行政区として再編成された結果、同族的結合の中核としての名頭は、庄屋の補佐役としての地方役人に変身したのである。安政五年(一八五八)久貢新田の開発について、名頭の会議で決定したことに小百姓は相談にあずからなかったとして反対していることは、名の同族結合が崩壊していることを示すものである。
 松神子村は、新居浜平野にあり、第四節で述べるように、商品作物の栽培および塩田経営が盛んで、農民層の分化がはげしく行われた村である。こうした山間村と平野海岸村との経済発展の相違が、両地域の名の分解の相違をもたらせたのである。
 名は同族的結合の共同体として成立し、①年貢・夫役など貢租提出の単位(名請)として、②田植え、灌漑設備の建設など農業生産の単位として、③茅合力・日待講など生活の単位として、それぞれに機能し、大きな役割をはたした。そして時代とともに地縁的結合の共同体としての性格を増し、行政区として支配の側が利用するようになり、貢租提出の単位としての色彩を強くしていった。
 こうした名共同体の中心者が名頭であるが、名の変質によって名頭は、同族的結合としての名頭から行政官的名頭へ、すなわち地方支配の組織である庄屋―組頭―名頭と位置づけられる者へと変質していった。
 名頭は、名内の①貢租提出の責任者、②共有財産・用水設備などの管理者、③土地売買・金銭貸借などの請人、④氏宮・氏堂の司祭者、⑤農民相互の救済・共同生活の中心者であったが、その変質過程のなかで、①を主とする行政官的色彩を強くしていった。もっとも、名頭は行政組織上の正式の職名としては位置づけられなかったから制度としての報酬はなかった。しかし、世話料が支給されたり(野田村年間米一斗八升)、夫役が支給されたり(小川山村年間名内より軒別一人宛)したように、それぞれの名において何らかのかたちで報酬が支給されたようである(『大名と領民』、西岡虎之助「近世庄屋の源流」)。

図1-4 旧松神子村付近(現 新居浜市松神子)

図1-4 旧松神子村付近(現 新居浜市松神子)