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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

二 名本層の分解と村

 戦国期伊予国の農村構造

 戦国期伊予国の農村構造はどうであったろうか。ごく大雑把にいえば、大小さまざまの在地領主が、兵農未分離の名本・一領具足層を擁し、農民を支配していたような状態であったといえよう。
 名本あるいは一領具足は、宇摩郡・新居郡・浮穴郡・宇和郡などで確認されるから、戦国期伊予国において、一般的に存在していたといえよう。彼らは在地領主から知行地が給され、名主百姓・庄官・里侍などともいわれ、兵農未分離の状態で村落に居住し、戦時ともなれば、「やせ馬なれとも引立、御陣の時は侍衆並に供を仕、……武士なみに手がら仕候」(『清良記』)の者であった。他方平時には、百姓の頭で一町歩以上の土地を所持し、下人をかかえ、牛馬を使用して農業経営にあたる農民でもあった。
 在地小領主および名本・一領具足層は、天正一三年秀吉の四国征伐後の諸領主のもとで、帰農して農民となった。例えば、宇和郡多田組内の在地小領主であった真土村沖之城主上甲氏、東多田村下祇城主古谷氏、多田城主宇郡宮氏、皆田村信田城主宇都宮氏、長谷村鈴賀城主上甲氏らおよびその配下にあった名本層。浮穴郡東明神村大除城主大野直昌およびその家来の一領具足層。宇摩郡上山村の日野氏〔種資(天正一五年~寛永四年)の時に豊田姓に改姓、以下豊田氏と記す〕新居郡氷見村高尾城主高橋氏、越智郡朝倉上村龍門山城主武田氏などもすべてそうであり、数えあげればきりがない。

 豊田氏の家来百姓

 このように戦国期伊予国における在地小領主および名本層は、大部分天正末帰農するのであるが、帰農の仕方はどのような方法でなされたのであろうか。豊田氏からみてみよう。
 豊田氏は、永正八年(一五一一)舟岡山合戦に武功をたて、将軍義植より宇摩郡を恩給せられ、同年大和国豊田村から上山村に移住した。天正一一年(一五八三)光広が家督をついだ頃から家運が衰退し、上山村一か村を維持するのみとなる。同一三年秀吉の四国征伐にいも早く降り、福島正則が国分城にはいると、光広は末弟光則を正則のもとに送り、上山村を安堵された(同村の地頭職として据えおかれる)。光広が死去し、子の種資か一五歳で家督をついだ天正一五年、正則の検地によって上山村は没収され、かろうじて福島家の諸士格として二〇〇石を宛行われた。次の種義は、寛永八年(一六三一)嘉明の検地によって、諸士格を停止され、ついに農民となり庄屋に任命された。以後豊田氏は、享保五年(一七二〇)まで庄屋を勤めたが(一時他村の庄屋の兼帯もある)、その後は一介の百姓として過ごした。このように豊田氏は、永正八年宇摩郡の領主となってから、天正一一年頃上山村の地頭、同一五年福島氏の諸士格(二〇〇石)、ついで寛永八年庄屋となり、享保五年まで勤めたが、そののち一介の百姓となるという経過をたどった。この経過の中で、豊田氏の一一三人の被官武士(家来)は、寛永八年豊田氏が農民となると被官百姓となり、以後被官百姓は、享保四年頃まで七五人、同六年頃まで四八人、宝暦七年(一七五七)頃まで三六人と減少しつつも、なお存在しつづけ、被官百姓を中心にして、豊田氏の農業経営が行われていた(西岡虎之助「近世庄屋の源流」)。

 高橋氏の家来百姓

 新居郡氷見村の高橋氏の場合は、その規模において豊田氏とは異なるが、同じ経過をたどっている。高橋氏が高尾城主として、どのくらいの家来を連れていたかについては不詳であるが、天正一三年秀吉の四国征伐後被官武士(家来)を連れて氷見村に帰農した。その結果、被官武士は被官百姓となって、高橋氏の農業経営を支えていた。などは、豊田氏の場合と全く同じである。
 慶長一五年(一六一〇)「新居郡氷見村田方帳」に、中田(丸田) 八畝 米六斗四升     (市兵衛内)彦兵衛というような記載かおる。この市兵衛は、氷見村に土着し庄屋となった高橋氏の後裔であり、このような高橋氏の「内」を肩書した名請人が、田方帳のみで(畑方帳欠)彦兵衛・孫右衛門・助兵衛・二郎兵衛・与左衛門・与三左衛門・藤右衛門・四郎左衛門・総右衛門の九人いた。寛永二年(一六二五)「与州新居郡氷見村畠方内検地帳」(田方帳欠)には、同じく高橋氏である市兵衛の「内」を肩書した名請人が、彦兵衛・二郎兵衛・給右衛門・与左衛門・源右衛門・伊右衛門・助兵衛・与三左衛門・次右衛門・甚右衛門・作蔵・養仙・勘左衛門・四郎左衛門・弥左衛門・善兵衛・源四郎・作兵衛・甚助・弥右衛門・久七の二一人いた。正保五年(一六四八)「氷見村畠方御検地帳」(田方帳欠)には、同じく高橋氏である五郎左衛門(五郎八ともいう)の「内」を肩書した名請人が、彦兵衛・作蔵・助九郎・伊兵衛・弥兵衛・為兵衛・清助・七左衛門・甚之助・□兵衛・又三郎・彦四郎・久三郎・重二郎・九兵衛・由右衛門・宗三郎・甚助・佐右衛門・太郎右衛門・甚右衛門・次右衛門・八兵衛・惣三郎の二四人いた。
 このような、高橋氏の「内」を肩書する名請人は、高橋氏とどのような関係にあることを示しているのだろうか。同じ氷見組の中野村の慶安元年(一六四八)「地寄帳」に、中野村庄屋伝左衛門の「内」を肩書する名請人が、庄三郎・又三郎・甚蔵・長吉・彦左衛門・源右衛門・長次郎の七人みられ、そのうちの庄三郎について、庄屋伝左衛門の子の「口上書」によると、①庄三郎は、中野村庄屋伝左衛門の家来で、その子作左衛門も同じく家来であった、②彼等家来は、家族を構成し、独立家屋に居住し、高持百姓であった、③しかし内主に奉公し、内主は家来が渡世できるように取り計らった、などのことがわかる。したがって、氷見村高橋氏の「内」と肩書した名請人は、かつて高橋氏が高尾城主時代の被官(家来)にその系譜をもつものであったと考えてよかろう。
 高橋氏の文政元年(一八一八)「開闡院様御死去により……諸事覚書」には、家来が五人記され、葬式には、草履・喜三兵衛、杖笠・半三郎、挾箱・百蔵と三人の家来に持物が割り当てらており、形見として、喜三兵衛・半三郎・百蔵・宇作らの家来に襦袢・帯などを与え、法事の時、長七・百蔵・喜三兵衛・半三郎・宇作の五人の家来が手伝いをしている。天保九年(一八三八)「常唱院様御死去二付諸事覚帳」によると、家来百蔵が、形見として古わた入を、「是ハ穴掘并御葬式迄夫婦共詰て世話いたし侯」ということでもらっている。天保一一年「政寛嫡女……死去之節諸事覚書」によると、大庄屋高橋氏の家来として、長七・百蔵・喜三兵衛・半三郎・宇作の五人が記されている。など、家来は内主の冠婚葬祭をはじめとして種々の労役に従事したこと、その数は、慶長一五年・寛永二年・正保五年の家来数と比較すると、文政・天保頃五人に減少しているから、家来は時代と共に解放されたこと、などがわかる。なお氷見組の寛延以後の村別家来家数は表1-1の通りである。
 其他若干の例をあげると、享保一七年(一七三二)新居郡大町組荒川山村の庄屋家来が百軒あり、享保六年に作成されたと推定される宇摩・新居両郡の幕領明細帳から家数・家来数を抜き出すと、表1-2のように、二九か村中家来のいない村が一三か村あるかと思うと、他方で平野山村・両上野村のように家来数の多い村があり、分布にかたよりが見られた。さらに寛永期今治藩領における内附・分附・下人の存在、正保四年(一六四七)宇和郡川内村の内附の存在、など、江戸時代初期伊予国の村々において、家来などのように隷属関係を持った農民が普遍的に存在していたのであり、このような農民が、ほとんど存在しなくなる時期こそ、実質的に近世村落の成立時であったといえよう。

図1-1 高尾城の位置

図1-1 高尾城の位置


表1-1 氷見組家来家数

表1-1 氷見組家来家数


表1-2 宇摩・新居両郡中幕領の家来家数

表1-2 宇摩・新居両郡中幕領の家来家数