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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

一 製紙業の勃興と工業用水事情

 伊予三島・川之江地域の製紙業の揺籃期やその後の発展経緯は『地方文化振興計画―伊予三島・川之江地域―』に詳述されているが、要約すると「慶応年間に農家の副業として抄紙業(和紙)が導入され、その後、抄紙技術の向上、原材料の移入供給、製品の販売にそれぞれ人材を得て紙の産地を形成する。下って明治末期、叩解機の導入などもあって、製造工程の機械化、機械漉などを通じて生産実績を増大させていく。戦後、わが国の製紙業は急激な需要に支えられて飛躍的発展を遂げたが、当地方の製紙業もこの時期、先見性を持った企業者に恵まれたこともあって、大きく規模拡大が図られた。」
 しかし製紙業は、工業用水を多量消費する業種であるため、工業用水の安定確保がこの地域製紙業の発展を左右する決定的要素となる。

 製紙用工業用水の供給不足

 伊予三島・川之江地域が製紙地帯を形成する以前、この地域の水利事情は、例えば大正年間には、川之江町井地(現川之江市)という地名が存在するほど地下水の湧泉が見られた。しかしその後、機械漉の導入などによって生産量が増加し、このため工業用水事情は急速に悪化して行くことになる。この間の事情は、例えば『銅山川疏水史』に、当時の製紙業者が、工業用水苦難の思い出として、

 「……宇摩地区は、山迫り海近く東西に長く、山は急傾斜地にて水を生むこと乏しく、ために工業地としての立地条件を欠いで、このため紙業にしても、家内工業的な極く小規模の機械による和紙の生産が行われていた程度でありました。ところが、戦後仙貨紙ブームを巻き起こし、各社が機械設備を増設した結果、生産能力に比して水の不足をみることとなり、いよいよバランスがとれなくなったのであります。その後仙貨紙ブームも下火となり、又和紙より洋紙への転換期が訪れ、……用水事情は極度に遑迫して……苦労の連続でありました。
 そもそも三島地区の用水源は、渓谷の自然流水と、井戸水ボーリング等に依る外、求めるところがなく、工場の維持経営のためには、貯水池を作って流水を貯えパイプをもって引水するなど、実に困難を極めたものでありました。
 また、井戸は概ね工場の周辺に掘られ……実に数十ヶ所という数に上り、しかも中には塩水のため使用不能のものもあり、また水量に乏しく揚水不能のものも相当数に上っていました。一つの会社が水脈を探し当て、湧水量の多い井戸を掘れば、各社がまたその近辺に井戸を作ると言う有様で、水の湧出量には限度があって、各社の揚水競争は昼夜の別なく行われ、工場の近くに存在する農家の灌漑期の外は競って工業用水として利用される状況で、製紙業者の水を求めての動きは全く真剣そのもので、実にその悩みは言語に絶するものがありました。
 殊に谷川の自然流水は概ね灌漑用水になっているが、それもまた灌漑期以外には各社が競争で関係各戸を訪問して使用権獲得に努力するのでありましたが、これも利用水利権(農民の)者の部落(上・下流部落)を一戸一戸訪問了解を得ると言う有様で、それは誠に涙ぐましい程の努力と苦労の伴うものでした。それも延長数粁の水路を巨費を投じて修理し、折角努力しても取水量は全くお話にならない程のものでありました。
 このように、宇摩郡農民が数十年水を求めて苦しんだと同じように製紙業界の人々もまた水を求めて悩み続けて来たのでありました……。」

 との懐古談に生々しくみることができ、当時より既に井戸の乱掘、地下水位の低下、海水の侵入、既存農業灌漑用水との競合などの問題が露呈している。
 当然、製紙業者は次に述べる銅山川疏水事業(柳瀬ダム)に熱いまなざしを送ることとなる。