データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

一 戦後工業立地政策の歩み

 第二次世界大戦は、日本経済に壊滅的な打撃を与えた。戦後の荒廃と混乱から復興し、本格的な経済再興過程に入ったのは、昭和二五年(一九五〇)から昭和二六年の朝鮮戦争以降である。
 昭和二五年五月には、総合的な国土計画として、国土総合開発法が成立した。『国土総合開発法』は、第一条において「国土の自然的条件を考慮して、経済・社会・文化等に関する施策の総合的見地から、国土を総合的に利用し、開発し、及び保全し、並びに産業立地の適正化を図り、あわせて社会福祉の向上に資することを目的とする」としており、第二条において、国または地方公共団体にとって総合的かつ基本的な計画(国土総合開発計画)として、「全国総合開発計画」、「都道府県総合開発計画」、「地方総合開発計画」及び「特定地域総合開発計画」の四つの計画をたてることが示された。しかし、実際に最初の全国総合開発計画が策定されたのは昭和三七年一〇月であり、この時期にまずとりかかったのは、特定地域総合開発計画であった。その内容は、経済再建のために食糧増産・電源開発・未利用資源の開発・治山治水を中心とする災害防除などを主要課題として、全国主要水系地域を中心とする開発を重点にとり挙げたものであった。
 工業立地という観点から特に注目されるのは、昭和二五年のシャウプ勧告に基づく税制改革によって、固定資産税が地方税とされたことである。このころから、地方公共団体の工場誘致運動が盛んになり、固定資産税の減免や用地の斡旋などの各種の優遇措置を含む工場誘致条例があい次いで制定された。昭和三一年一月現在で一道三二県二四三市がなんらかの工場誘致条例をもつに至っている。(この点については、米花稔『日本の産業立地政策』を参照。)
 国のレベルでは、昭和二七年に制定された企業合理化促進法によって、道路・港湾などの産業関連施設の整備について国の助成が与えられることとなった。次いで、昭和三一年には工業用水法及び工業用水道事業法が制定され、工業用水道の施設事業費に対して国庫補助金が与えられることとなった。戦後復興と産業基盤の強化期とは、具体的には、昭和二〇年から昭和三五・三六年ごろまでの時期をさす。この時期の工業立地は、国の工業立地政策よりは地方自治体の熱心な工場誘致運動のもとで、個別企業の経済合理性に基づいて行われていたと言える。