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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

六 松山港建設と工場誘致

 三津浜港築港

 三津浜港は、江戸時代より商港として栄えていたが、明治三九年(一九〇六)九月、高浜港が開港したため、両港の利害は対立するようになった。ところが、昭和一二年(一九三七)六月、三津浜町(現松山市)と新浜村(現松山市)が合併し、三津浜港と高浜港が同一行政区域内におかれるようになった結果、昭和一三年一月より、高浜港は三津浜港に統一改称された。このような状況の下で、昭和一二年四月、当時の三津浜町長高橋惣太郎は、県知事の副書を添えて日本港湾協会長にあてて、高浜・三津浜両港を含めた大三津港の港湾計画の作成を依頼した。昭和一二年一〇月、港湾協会が提出した書類によると、工費約三六〇万円、六か年継続事業という大事業であった。
 このような尨大な港湾計画を実施するに当たって、もっとも困難な問題は、巨額の工費をいかにして調達するかということであった。松山市と合併し、松山市の財政力によって資金を調達してはどうかという考え方が三津浜町の理事者や有識者の間で生まれてきた。一方、当時の市長清水勇三郎や収入役黒田政一らの松山市の理事者は、松山市を商工業を基幹とする産業都市にし、臨海都市として大工場を臨海地域に誘致しようという展望をもっていた。そのためには良港が必要であり、港湾をもつ三津浜町との合併を進めようとしていた。こうして三津浜町出身の黒田政一が、隣接する臨海町村を誘って松山市に合併させるリーダーとしての使命を帯びて、昭和一四年二月、三津浜町役場に入り、同年三月、町長に選任されると、直ちに工場誘致と港湾建設事業に着手した。
         
 共同企業の誘致

 このころ戦略物資として重要視されていた石油の貯油所を、軍の要請によって全国一一か所に新設するという情報が入ってきた。そこで猛烈な誘致運動を行った結果、昭和一五年一月、石油輸入の国策会社共同企業の貯油所を誘致することに成功し、まず同年四月から大可賀新田の一角を埋め立てて、貯油タンクニ基と倉庫五棟の施設建設を急いだ。さらに昭和一七年には大可賀の第一貯油所の拡張と興居島村(現松山市)の二か所の貯油所を確保するために、松山市が用地買収を行った。これらの施設と同時に、大型タンカーの碇繋地を近接海面に構築することが必要であった。大可賀新田の北面端海岸と呼ばれる暗礁との間に幅四〇〇mの海面の所在がつきとめられたので、佐島の上に石積みをして長さ四〇〇mの防波堤とし、狭い水道に繋船柱四か所(後五か所となる)、桟橋四五m(後七五mとなる)、油送管などを設置した。この松山外港の先駆的施設は、太平洋戦争直前という時期のため、関係者以外には全く知らされないで極秘のうちにつくられた。こうして、昭和一六年の秋には、それまで三津浜港に入港したことがなかった六、〇〇〇トンの大型船が初めて入港した。
 共同企業の誘致成功を持参金として、昭和一五年八月一日、三津浜町は隣接味生などの六か村とともに松山市に合併した。以後、三津浜港は松山港と改称され、臨海都市松山市の港湾として、将来の発展が期待されることとなった。
         
 丸善石油の誘致

 松山市と隣接七か村を合併した後に再び松山市に入った黒田政一は、昭和一六年(一九四一)四月、市長代理として丸善石油株式会社におもむき、その石油精製工場を新市内大可賀新田地区に誘致することに成功した。この工場誘致は、共同企業に次いで第二番目のものであったが、共同石油とは比較にならないほど大規模な工場の誘致であった。丸善石油は、昭和一七年五月、戦争によって獲得した南方原油を処理することを目的として、当初の予定では、二〇〇万平方m、工員一万人を雇用する民間最大の製油所をつくるという構想のもとに土地買収に着手し、昭和一九年九月に設立された。
 丸善石油の誘致が成功した原因は、防衛上及び交通上有利な内海に面していること、工場の付近に港湾適地が広く存在していること、共同石油と隣接していることといった立地上の原因もあるが、松山市の受け入れ条件によるところも大きい。昭和二二年の『松山市長事務引継書』は、丸善株式会社石油松山製油所建設に関する事項の中で「本工場建設に対しては工場誘致以来市に於て全面的協力をなし用地の買収及海岸施設並に工業用水の供給は同社に於て経費の負担は求めたるも市に於て交渉施行をなしたり」とし、その主な内容として次のことを述べている。一、用地の買収については約一七万坪の用地買収関係の支払登記事務はほとんど完了したが、一部裏作物の補償費(約一万五、〇〇〇円)に未解決のものがあること。二、漁業権補償については、関係漁業権者今出・松前・三津浜の三漁業組合に対して補償費及び諸経費計三万八、九五〇円を松山市、共同企業及び丸善石油の三者が均等の負担を行ったこと。三、松山市上水道及び丸善石油工業用水供給のために上水道施設の内水源地(市内東垣生地内)を設置したが、そのための補償費その他関係諸費約一五万円のうち、松山市負担三分の一、丸善石油負担三分の二をそれぞれ負担し解決すること。
         
 松山港建設計画

 丸善石油の誘致に伴い、丸善石油松山工場で処理する原油を輸送する大型タンカーのための、安全で便利な大港湾を整備することが不可欠となった。そこで、昭和一七年一一月、松山市長越智孝平の代理として神戸土木出張所におもむいた助役黒田政一は、工場誘致という新しい事態に即応する松山港港湾計画の立案を依頼した。この依頼に応じて原口所長、羽賀技師が共同立案した計画によると、工事予算は一、八〇〇万円と日本港湾協会の港湾計画の約五倍であり、三、〇〇〇~六、〇〇〇トン級の船舶一二隻を同時に繋船し、年間一五〇万トンの荷役を可能にするという大規模なものであった。
 港湾建設を急いだ丸善石油は、昭和一八年一一月、松山港港湾建設計画に基づいて、工事予算四五〇万円、二か年継続事業で港湾建設に取りかかるとともに、大可賀地先北岸を埋め立て、荷場用地二三万四、〇〇〇平方mを造成するなどの工事に着手した。一方、丸善の単独工事と平行して、昭和一九年一二月には、工事予算四八〇万円、三か年継続工事として、国の直営施工による港湾建設の竣工式が行われた。しかし、戦局悪化のために、浚渫ならびに護岸工事の捨石を一部施工しただけで終戦となって、昭和二〇年(一九四五)八月、工事は中止されたことにより、本格的な松山港建設は、第二次大戦後を待たなければならなかった。