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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

五 宇和島市と工場誘致

 近江帆布工場誘致の経過

 愛媛における大規模な工場誘致は、東予及び中予地方に偏っていたとはいえ、南予地方においても大規模工場誘致の実例が存在しないわけではなかった。ここでは、宇和島市が近江帆布工場の誘致に成功した事例を述べよう。
 明治末期から昭和初期に至る宇和島市の工業は、製糸業と織物業が中心であったが、いずれも小規模経営によるものであった。宇和島市は、交通条件の悪さを克服し、消費都市から商工都市の建設を目指すためには、大規模工場を誘致することが必要であるという立場から、工場誘致の努力を続けた結果、昭和九年(一九三四)八月、近江帆布宇和島工場の誘致に成功し、昭和一一年末から、一部操業が開始される運びとなった。なお、工場敷地として日振新田が埋め立てられた。この間の事情について、当時の新聞は次のように述べている。

 「宇和島市では百年の大計として港湾改修事業を遂行しつつあるが如何に築港を完備するともそれによって物資の集散が急激に増加するものではなく、後方経済地帯の開発および重要工業の吸収につとめぬ限り折角の改修事業もその価値を失い商工立市を目指す市の発展躍進は期し難い特に工場誘致問題は港湾計画の最大眼目であり各種企業にわたって盛んに工場増設が行なわれつつる今日既に具体化されているべき問題なるに拘らずこれに対する市当局の態度はその重大性を没却しているのか極めて冷淡でそのために機会を逸していることもあり漸く批難の的にならんとしつつある。港湾委員会で工場誘致が問題となったのもその表れでこれがため市当局では今後大いに積極的に運動することとなったがその矢先き我国紡績界有数の近江帆布によって宇和島工場設置の計画が着々と進められているという朗かなニュースがある。
 即ち近江帆布の計画は大要次の如きもので同社の各地における工場中最大のものを建設しようというのである。
 先づ敷地は二万坪乃至三万坪で三万錘乃至五万錘(紡機八〇―一二五)職工数千四五百名の大工場を目論んでをり同社の意向としては既に宇和島を選ぶことに決しているが然しこれも当局の熱意如何に依るものであって従来の如く待機主義をとっていては他の地方に奪はれるかも知れぬ、尚ほ会社では最初三瓶町に増設の方針であったが敷地狭隘のため宇和島に求めるに至ったものである。
 尚工場増設を計画している近江帆布は大阪市堂島に本社を有し資本金七百十万円、滋賀県八幡町、同草津町、同彦根市、岡山県琴浦町、同味野町、本県三瓶町等に工場を置いて居り錘数約八万、これら工場中三瓶工場が最も大きいが錘数万余であるから新工場は更にそれよりも大きいものといわれている。」(「南予時事新聞」昭和九年六月二日号)
         
 誘致成功の原因

 近江帆布宇和島工場の誘致には、初代宇和島市長山川豊次郎を中心とする一〇年越しの熱心な努力があった。山川市長は、大日本紡績・富士紡績・合同紡績及び伊藤忠商事会社との交渉を重ね、いずれも不成功に終わった後に、近江帆布の誘致に成功したのである。
 近江帆布が宇和島市に進出したのは、山川市長の熱意とともに、広大な工場敷地を宇和島市が会社側に極めて有利な条件で提供したことによるところが大きい。昭和九年(一九三四)に成立した宇和島市と近江帆布の間の契約では、市は工場敷地を無償で会社に提供することになっている。ただし、工場敷地の埋立については、「会社は埋立費として一平面坪につき一円を市に対し代償す」となっている。さらに契約は、「市が将来水面埋立をなし埋立地を売却するときは会社は優先権を有するものとす」と定めている。
 このようにして完成した近江帆布宇和島工場の内容は、敷地一七万一、六〇〇平方m(五万二、〇〇〇坪)、建坪(延)三万三、二六四平方m(一万〇、〇六〇坪)、使用人員九五〇名(男子一五〇名、女子八〇〇名)、工事費一二一万円、機械及び設備費二六〇万円であった。

 操業開始後の経過

 昭和一一年末から操業が開始された近江帆布宇和島工場は、宇和島市を商工都市として発展させるための原動力となることが期待された。しかし、昭和一二年七月の日中戦争以降、戦時統制経済が進行し、軍需生産部門が肥大するに従い、紡績業も大規模転換を余儀なくされた。昭和一六年(一九四一)八月、政府は全国の紡績工場を操業、休止及び閉鎖の三種類に区分し、遊休設備を軍需生産部門に転換する方針を打ち出した。また、原料の綿花の輸入も大きく削減された。このような状況のもとで、近江帆布宇和島工場は、昭和一六年八月に操業停止、同年九月から休業に入ったまま、遂に再開されることがなかった。こうして一〇年越しの努力によって日振新田の埋立地に誘致した大工場は、操業後四年余りでその活動を停止した。なお、工場敷地は、のちに敷島紡績に引き継がれ、工場再開されないまま海軍航空隊に接収された後、戦後再び敷島紡績に返還された。敷島紡績は、戦後長らく工業用地として使用しないまま所有していたが、昭和四二年(一九六七)、山本友一市長のもとで宇和島市はこの敷地を買収し、地場産業育成のための産業用地造成の拠点とした。