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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

四 松前町と工場誘致

 日本レイヨン工場誘致の失敗

 松前町は、大正一一年(一九二二)一〇月に町制を実施したが、半農半漁で商工業が振わず昭和五年から昭和一〇年の間においても、人口の流出が人口の流入を上回る状態であった。当時の松前町長武智雅一は、九州・中国地方及び愛媛県下においても新居浜・西条等が大工場の誘致に成功しているのをみて、大工場の誘致によって松前町の商工業を発展させ、これにより雇用の大幅な増大と町財源の確保を計る方針をたてた。
 このような方針のもとに、松前町は、新工場設置計画が伝えられていた日本レイヨンに対して、進出の可能性を打診していたところ、昭和一〇年(一九三三)一〇月、日本レイヨン側が工場地視察のために来町することとなった。
そこで松前町側は、工場進出の可能性があると考え、昭和一〇年一〇月、縁故を頼って郷土出身の日本レイヨン社長菊池恭三に面会を求めた。その際、会社側は、工場新設の条件として、工場用地約一〇万坪から一五万坪、工場清水二〇個、電力三、〇〇〇キロワット運輸・交通の便の良さを提示した。
 松前町は、大工場誘致に対して町を挙げて取り組むために、昭和一〇年一二月、町会議員や有志を中心に松前町発展更生会を組織し、会長に町長武智雅一を推すことを決めた。さらに、これに続いて、昭和一一年一月には、松前町工場誘致期成同盟会が組織された。以上のような全町を挙げての工場誘致運動のもとに、用地買収、漁業権及び水利権について関係者の同意をとりつけた。松前町は、一年余り前後数回にわたって会社に出向くなどして、熱心な日本レイヨン工場誘致運動を展開した。日本レイヨン側も工場用地価格、工場用水や排水についての松前町の責任や負担、港湾改修の時期等について松前町の回答を求めたりもしたが、結局、昭和一一年一二月、日本レイヨンの新設工場は島根県江津町に決定し、松前町の日本レイヨン工場誘致運動は失敗した。
 『松前町の工場誘致』は、日本レイヨン工場誘致が失敗した原因を次のように述べている。

 「其の敗因を推測するに工場地としての我町は、江津町に比し決して遜色あるに非ず。然れども、会社の最も心痛せし用水の豊富にして不安なきと、用地代の低廉と、中央に於ける若槻元首相、俵元商相(飯田町長の令兄と聞く)など同県出身巨頭の方々が、菊池社長を勧説せられた等の数点にあるものと思う。又誘致運動の熱烈なるは、飯田町長は運動開始以来終始大阪に滞在し、町委員交代にて常に数名宛上阪して東奔西走、誘致運動に没頭せし趣、・・・・・」(以下略)

 東洋絹織の工場誘致

 松前町の日本レイヨン工場誘致は失敗に終わったが、その直後、東洋絹織が工場新設のための用地を物色中という情報がもたらされた。東洋絹織は、東洋レーヨンが六〇%、東洋綿花が四〇%を出資して昭和二年(一九二七)七月に資本金一、〇〇〇万円で創立された会社で、レーヨンステープルの生産とその紡織を目的としていた。そこで松前町は、新たに東洋絹織の誘致運動に乗り出すこととした。昭和一一年一二月、武智町長が大津市の東洋レーヨン滋賀工場に直接出向いて会社役員に面会を求め、日本レイヨン誘致の際に調査作成した一切の書類や図面等を提供して、松前町の熱意を示した。話は順調に進み、東洋絹織側もたびたび来町して、現地調査を行った。その結果、東洋絹織は一三府県三〇か所の候補地の中から松前町を選び、昭和一二年三月、東洋絹織愛媛工場の設置契約を行った後に、昭和一三年四月には本格的な操業を開始した。
 松前町が東洋絹織の工場誘致に成功した原因は、武智町長を中心とする全町を挙げての工場誘致にかける熱意と日本レイヨン誘致運動の際に、松前町発展更生会と松前町工場誘致期成同盟会を組織し、用地買収・漁業権及び水利権について、関係者の大筋の同意をとりつけていたことによるところが大きい。東洋絹織は、当初、滋賀県瀬田町(現大津市)に新工場の建設を予定していたが、廃水問題で地元の水産組合の反対が強く、スフ工場の建設を中止したいきさつがあり、工場進出先の早急な対応と、安心して操業できる受け入れ体制を求めていたことも松前町に有利に作用した。
 松前町が東洋絹織の誘致にかけた熱意と負担は、並々ならぬものがあった。総面積一二万七、二七〇坪の用地が坪当たり二円六七銭で東洋絹織に譲渡されたが、用地買収や埋立ては、すべて松前町の責任で行われた。用地買収については、松前町の買収価格が会社への譲渡価格よりも高くなる場合もあり、松前町は、その差額を補償金の形で支出した。
 松前町が昭和一二年三月三一日に東洋絹織に申し入れた覚書には、一、工場敷地と連絡する町有道路、用水路は無償で会社に交付し、道路、水路及び港湾の無償使用を認めること。二、漁業権は、工場敷地買収までに消滅させ、廃水・採水・煤煙その他の漁業関係並びに運搬等の問題は、町の責任で解決すること。三、町内で会社が必要とする水量を揚水することを無条件で認めること。四、町は県費の補助を受けて松前港を改修浚渫し、積載量三〇〇トン級の船舶が航行できるような永久的設備をして、会社に無料使用を認めることが含まれている。
 この覚書に述べられているように、港湾改修、埋立て及び工場排水より生じる漁業権の補償問題は、松前町の責任で早急に解決することを必要とした。岡田村(現松前町)の境から北山崎村(現伊予市)大字森に至る海岸は、松前町・郡中町(現伊予市)及び北山崎村の共同専用漁場であった。まず町内の松前町浜漁業組合については、四名の中立的立場の人を選び、双方の意見を聞いた結果、昭和一二年三月、町が補償金八、五〇〇円を支払うことを条件に、工場排水を認め、郡中町の港湾改修に関し漁業権を町長に引渡すことで同意をみた。町外の漁業組合との交渉は難航したが、県水産課長と郡中警察署長を調停者として、昭和三年一〇月、郡中漁業組合・北山崎漁業組合及び今出漁業組合に対しては、町内の漁業組合よりも多額の計一万八、〇〇〇円を支払うことで調停が成立した。また調停書には、松前町は「工場ヨリノ廃液其ノ他ニシテ万一漁業被害アリタルヰハ県當局ノ調査二基キ其ノ損害二対シ、補償ノ責二任スルモノトス」という条項を含んでいたことも注目される。
 港湾改修や工場設定に伴う種々の補償費をまかなうために、松前町は、昭和一二年三月に五五万円という巨額の予算を計上しなければならなかった。当時の町予算が総額四万円程度であったから、その五五万円という額が町にとっていかに巨額であったかが分かる。
 五五万円の土木費については、起債を決議し、各方面に借入を要請した結果、日本勧業銀行及び地方各銀行から計五〇万円を借入れることができた。

表用1-1 松前町工場誘致に関する各種補償金

表用1-1 松前町工場誘致に関する各種補償金


表用1-2 松前町の工場用地等買収単価

表用1-2 松前町の工場用地等買収単価


表用1-3 昭和12年度松前町歳出追加予算表

表用1-3 昭和12年度松前町歳出追加予算表