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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

五 原子力発電時代

 伊方原子力発電所の建設と電源の多様化

 昭和四一年(一九六六)七月、わが国最初の商業用原子炉が日本原子力発電の東海発電所(出力一六万六、〇〇〇キロワット・コールダーホール型)で運転開始した。その後、四五年に同社敦賀発電所(出力三五万七、〇〇〇キロワット・沸騰水型)と関西電力美浜発電所一号機(出力三四万キロワット・加圧水型)、さらに翌四六年には、東京電力福島発電所一号機(出力四六万キロワット・沸騰水型)が相次いで完成し、わが国も原子力発電の実用化時代に入った。
 このような情勢の進展を背景に、四国電力は早くも昭和四一年に地元の要請を受けて、愛媛県津島町の大浜海岸を侯補地とする四国初の原子力発電所構想を示したが、予備調査の段階で地盤軟弱のために立地を断念した。続いて今度は伊方町が名乗りをあげ、四四年七月の町議会で、三崎半島伊予灘側の九町越に原子力発電所を誘致することが決議され、四五年九月に立地が正式決定をみた。
 第一号機(出力五六万六、〇〇〇キロワット)の建設工事は四八年六月着工、五二年九月営業運転開始、第二号機(出力同じく五六万六、〇〇〇キロワット)は五三年二月着工で五七年三月に営業運転を開始した。さらに五五年に伊方町と愛媛県に第三号機(出力八九万キロワット)の増設申し入れがあり、以後建設計画が進められており、順調にいけば六七年(一公一)三月に営業運転に入る予定である。
 伊方原子力発電所の建設は、二つの意義を持っている。その第一は、電源の脱石油化であり、第二は発電コストの低下である。
 伊方一号機が着工された昭和四八年(一九盆)は、時を同じくして第四次中東戦争が引き金となった第一次石油ショックが始まった年であり、それまでの豊富で安価な石油の輸入を前提とした「火主水従」方式の電源開発の見直しが必要となった。つまり、これまで主力であった石油火力の依存度を低下させ、原子力・石炭・水力などの石油代替エネルギーの開発を進め、経済性と安定性の観点からバラソスのとれた電源構成をもつことが緊急の課題となった。
 この方向に沿って、原子力発電の増設と並んで、大渡(運転開始五七年・出力二万六、〇〇〇キロワット)、本川(一号機五七年・三〇万キロワット、二号機五九年・三〇万キロワット)、面河第三(五九年・二万二、〇〇〇キロワット)などの水力発電の建設や、西条火力の石炭混焼化(一号機五八年、二号機五九年)が進められた。その結果、四国電力の最近の発電設備と発電電力量の構成は、図公3-18に見られるように、原子力を主体としながらも電源の多様化が進み、石油ショック直後の四九年度には、三分の二を占めていた石油火力の発電量が全体の五分の一程度に低下している。
 次に、原子力とその発電コストをみると図公3-19のとおりである。加えて注目されるのは、伊方一号機・二号機の効率が高いことである。双方を合わせた設備利用率は非常に高水準を維持しており、五七年・五八年・五九年度を通して八〇%をゆうに超え、全国平均を大きく上回っている。特に二号機は、第三サイクル運転期間に当たる五九年八月から六〇年一〇月まで、四一六日四時間五六分の連続運転日本記録を樹立している。このような原子力発電の本格的な稼動によって、全国平均を大きく上回っていた四国電力の料金水準は、図公3-20に見られるように、五三年度以降全国平均をわずかながら下回ってきている。

 五〇万ボルト送電線の建設と本四連系線

 電源と需要地とを結ぶ電力輸送設備は、低コストで送電ロスと停電の減少が重要な目標である。
 電源から拠点変電所までの電力輸送に当たるのが基幹送電線であるが、これについては一八万七、〇○○ボルトの電圧による供給体制がおおむね完成している。しかし、さらに将来の需要増加・電源の大容量化・遠隔化に対して、効率的で安定性の高い電力輸送路を確保するため、四国を東西に結ぶ五〇万ボルトの四国中央幹線が建設されつつある。既にその一部は完成し、一八万七、〇〇〇ボルトで運用されており、残余の部分も伊方原子力発電所三号機の完成に合わせて建設し、その時点で四国中央幹線全体を五〇万ボルトに昇圧する予定である。
 また、現在四国と本州は、芸予諸島の島々を縫って中四幹線(電圧二二万ボルト)で連系されているが、電力系統規模の拡大や大容量発電所の建設などにより、新しく五〇万ボルトの送電連絡線が必要とされている。これについては電源開発株式会社が主体となり、本州四国連絡橋(児島・坂出ルート)に電力ケーブルを添加する計画が進んでいる。

 エピローグ―四国における愛媛の電気事業

 ふり返ってみると、愛媛に関連する電気事業の歴史は、四国の電気事業の歴史の中で大きな地歩を持ってきたことに気づく。
 電気事業の創設については、愛媛地方は四国四県の中で一番遅かった。四国最初の電気事業は、明治二八年(一八九五)一月に営業を始めた徳島電灯であった。次いで約一〇か月遅れて同年一一月に香川地方で高松電灯が営業を始めた。高知地方では、その三年後の明治三一年四月に川崎事務所によって営業が始められた。もっとも、実際には三一年一月設立の土佐電灯が事業の譲渡を受け、翌三二年に土佐電気と改称されている。これに対して愛媛地方は電気事業の創設は最も遅く、香川に遅れること八年、二〇世紀(明治三六年一月)に入ってから伊予水力電気が営業を始めた。しかし、他はすべて火力から出発したのに対し、水力発電を一番早く採用して発足したことは見逃せない。
 伊予水力電気は、大正五年に伊予鉄道に合併されて伊予鉄道電気となり、同社は一〇年に松山電気軌道、一一年に愛媛水力電気、一四年に宇和水電を矢つぎ早やに合併。さらに昭和の初期に周桑電気、小田水力電気等を合併して愛媛県下はもとより、高知県中村町ほか一二か村、徳島県山城谷村ほか一か村にまで及ぶ「鉄電王国」を築き上げた。
 昭和一〇年ごろ四国では、愛媛の伊予鉄道電気、四国中央電力(後の住友共同電力)、香川の四国水力電気、徳島の合同電気徳島支社、高知の県営電気と土佐電気の六大電気事業者によって、ほぼ地域的独占体制が敷かれるに至ったが、その当時のそれぞれの発電設備と供給状況は、表公3-15のとおりである。発電設備と供給の双方で、愛媛の二社のウエイトが高いことが知られる。
 電力国家管理体制の進展で、伊予鉄道電気の主要発電所、送電線は日本発送電に譲渡され、残った電気設備もすべて四国配電へ出資。また四国中央電力も同社が社運をかけて開発してきた分水系(吉野川水系から仁淀川水系への分水計画による)発送電施設及び佐賀発電所等を日本発送電に出資させられた。伊予鉄道電気から四国配電への出資設備評価額(昭和一六年度上期末現在)は、五社の中で最高の三、八二五万四、〇〇〇円で全体の四八・八%を占めていた。これに対して高知県営一六・六%、四国水カ一二・四%、東邦電力一一・一%、土佐電気一一・〇%の割合であった。また、四国中央電力の日本発送電への出資額は、日発設立当時の送電施設一二一万九、六四〇円、第二次統合のさいの分水系発送電施設等二、一五四万四、四九二円、合計二、二七六万四、一三二円であり、日発の株式でもって決済されている。
 大戦後、四国電力時代になってからの、愛媛県における同社の発電及び輸送設備の推移とその四国全体に占める割合は、表公3-16のとおりである。特に注目されるのは発電設備関係で、火力は昭和三〇年度及び四〇年度は七〇%を超える高い比率を示している。これは当時の松山発電所と西条発電所が火力の発電の中心であったことを物話っている。また言うまでもないことであるが、伊方原子力発電所の運転開始以後は、原子力発電は愛媛が一〇〇%を占めている。これに対して、水力発電で出発した愛媛ではあるが、戦後、吉野川水系・仁淀川水系・那賀川水系などの水力開発が進むにつれて水力のウエイトが低下し、最近では五%前後になっている。
 なお最後に住友共同電力の六〇年度の供給設備をみると、表公3-17のとおりである。水力発電設備の最大出力の合計は七万八、〇〇〇キロワット、火力発電設備の最大出力の合計は六一万八、五〇〇キロワットで、水力火力のいずれも県内の四国電力の設備を上回っているのが注目される。

図公3-18 発電設備と発電電力量の構成比の推移

図公3-18 発電設備と発電電力量の構成比の推移


図公3-19 発電原価の比較(59年度運開ベース)

図公3-19 発電原価の比較(59年度運開ベース)


図公3-20 四国電力の料金水準(電灯・電力計)

図公3-20 四国電力の料金水準(電灯・電力計)


図公3-21 主な電力供給設備

図公3-21 主な電力供給設備


表公3-15 電気事業の電気力及び一般供給の状況

表公3-15 電気事業の電気力及び一般供給の状況


表公3-16 愛媛県における発電及び輸送設備の推移(1)発電設備

表公3-16 愛媛県における発電及び輸送設備の推移(1)発電設備


表公3-16 愛媛県における発電及び輸送設備の推移(2)送電設備

表公3-16 愛媛県における発電及び輸送設備の推移(2)送電設備


表公3-16 愛媛県における発電及び輸送設備の推移(3)変電設備

表公3-16 愛媛県における発電及び輸送設備の推移(3)変電設備


表公3-16 愛媛県における発電及び輸送設備の推移(4)配電設備

表公3-16 愛媛県における発電及び輸送設備の推移(4)配電設備


表公3-17 住友共電の供給設備

表公3-17 住友共電の供給設備