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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

三 統制から合併へ

 統制の進展と消費の規制

 昭和に入ってから順調に発展してきたガス事業も、わが国が日中戦争から太平洋戦争へと突入するにつれて、暗雲に包まれてきた。政府は昭和一三年(一九三八)に入ると、国家総動員法、鉄鋼配給統制規則、石炭配給統制規則を矢つぎばやに施行。翌一四年には、高級ガス器具に物品税賦課。賃金統制令、従業員傭入制限令、国民徴用令の施行。ガス需給調整命令発布など経営条件に著しい制約を課した。また同年一○月に石炭販売取締規則が施行されたが、これはガス発生炉用炭、一般燃料炭に至るまで全面的に統制範囲を拡大するとともに、消費の規制を目標としたものであった。
 当時の状況を『東京朝日新聞』(昭和一四年八月二七日付)は、軍需用ガス需要の増大に鑑み、民需用ガスを極力節約するために商工省と帝国瓦斯協会は協議し、軍需・輸出・生産力拡充・医療など順位を定めてガスを優先供給する。家庭用の風呂、暖炉などは閉栓し調理用のみにするなどの具体案を決定することになったという主旨の記事をのせている。
 このような情勢のもと、今治瓦斯は軍需用以外の新規のガス申込の受付を中止したが、民需用ガスの規制は日増しに強くなり、昭和二〇年(一九四五)五月には遂に六大都市以外の民需用ガスの供給は全面的に停止された。しかし、同社では既に三月ごろから一般家庭へのガスの供給は事実上停止状態になっていたと言われる。

 平和産業の圧迫とガスの軍需工場化

 今治の綿業は明治時代に台頭し、大正から昭和にかけて大きく発展。四国のマンチェスターといわれるほど活発な生産活動を行っていた。しかし、戦時体制に入ってからは「平和産業」として軽視され、さらには軍需産業への転換をしいられ、最後は戦災によって壊滅的な打撃を被っだ。この推移を昭和四年を一〇〇としたタオルの生産でみると、図公3-2のように、昭和一〇年(一九三五)に一六
五%まで上っていた生産水準が一七年、一八年、一九年、二〇年と急降下し、二一年には四%弱になっていることが分かる。
 他方、今治瓦斯のガス製造量は、昭和五年度下期を一〇〇とすると、統制の強化や民需の切り捨てにより、ピークの一五年度下期を下回ってはいるものの、一八年度上期一一三%、同下期一二二%、一九年度上期一二七%、同下期九〇%と、かなり高い生産水準を保っている。これは綿業工場の多くが航空機の部品製作に転換したため、それに対するガスの供給が要請されたことと、工場疎開のために今治に設置された東芝へのガス供給のためである。つまり同社は準軍需会社として原料を確保し、綿業生産が急減した一七年以降もガス製造量を維持することができたと言える。
 このような情勢は全国各地とも同じであり、昭和一九年四月に、東京・大阪・神戸・関東・広島・京都のガス会社は軍需会社に指定され、例えば東京瓦斯の一九年のガス需要家数は疎開の強化に伴い、一八年の一〇六万戸から八五万八、〇〇〇戸に減少したが、ガス販売量は逆に二億六、二〇〇万㌍と一八年の三三%増を示し、戦前戦中を通じて最高の販売量となっている。

 全国的な合併気運と四国地域の合併

 ガス事業は典型的な設備産業で、その生産と配給には規模の経済(スケール・メリット)が働く。しかも戦時統制下においては、ある程度の組織と計画とが不可欠であり、小規模な複数のガス事業者が合同する必要性が痛切に感じられた。そこでまず、昭和一八年(一九四三)七月に西部瓦斯が九州瓦斯を合併。同年九月に豊橋・浜松両瓦斯会社が合併して中部瓦斯を設立。翌一九年には東京瓦斯が関東・横浜瓦斯を合併。また、二〇年には大阪瓦斯が神戸・尼崎・京都・奈良・和歌山など一四社を合併。東京瓦斯も立川・八王子・千葉・宇都宮など一五社をさらに加えた。
 四国地域でも政府の勧奨によって、昭和二〇年八月八日に今治瓦斯・高知瓦斯・徳島瓦斯・讃岐瓦斯・坂出瓦斯・松山瓦斯・宇和島瓦斯が合併契約書に調印した。ところが、八月一五日に終戦を迎え、この合併は当初の軍需の確保という意図とは若干の食い違いを生み出したが、戦災復興は合併による大きな力によることが必要であるという判断から既定の方針どおり合併が行われ、一一月一日に四国瓦斯株式会社が発足した。

図公3-2 タオルとガスの生産指数の推移

図公3-2 タオルとガスの生産指数の推移