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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

四 県内下水道の普及・整備

 旧下水道法による県内各市の下水道建設

 前項で述べた経過によって松山市の創設下水道(旧下水道法による)の第一期事業が完成したが、続いて順次排水対象区域を拡げていった。すなわち翌大正一〇年(一九二一)四月には、河原町・柳井町並びに持田・立花地区の一部を対象とする第二期事業に着工した。これは長年月を経て、昭和一〇年三月事業費五八万五、一九一円を要して完成し、新たに九〇㌶が排水区域に加わった。このようにして大正五年四月に着工した戦前の松山市創設下水道は、二〇年を要してようやく旧市街地にほぼ整備された。その後、昭和二一年度より区画整理に伴う移設並びに一部の増設工事を行い、昭和三四年(一九五九)一部を除き完了した。
 一方、宇和島市においては、昭和二二年一一月二七日、下水道事業認可を得て着工した。当時の計画は下水道終末処理場は考慮しておらず、浸水防除を目的として戦災復興事業と併せて、次の地区に下水管を敷設した。

昭和二二年度    城東地区(商店街周辺地区)    二三・四㌶

昭和二三~二四年度 城北地区(旧和霊町~朝日町)   七二・一㌶

昭和二八~二四年度 城西地区(桝形町)        二二・一㌶

昭和三四~四〇年度 神田川原地区(元結掛)      一六・五㌶

 また八幡浜市では、昭和二一年一二月の南海地震以降、地盤沈下により満潮時に海水が逆流するようになったため、昭和二六年(一九五一)一二月、国の認可を得て、浸水対策を目的として下水道建設に着手した。
 さらに今治市では、昭和九年当時既に不完全ながら下水路が設置されていた(『今治市誌』。昭和九年一一月調べ下水路総延長一万三、八〇六間約二五㌔㍍)。戦後、南海地震により地盤沈下を来したため、戦災復興土地区画整理事業の一環として、造成した街路の排水を行うため排水管を設置したが、この時までのものは、在来の水路に排水する程度のものであった。その後昭和二七年四月、旧水道法による認可を得て、下水道計画による幹線下水管及び流末の排水ポンプ場の建設に着手した。認可面積は二一三・九八㌶、排水対象区域は竹屋町と蓮堀通の間で国鉄線から海岸までであった。
 また新居浜市においても、昭和二八年一一月認可を得、昭和三五年度より排水面積四五・五㌶を対象として、合流式で主として雨水排除を目的に下水道建設を進めたが、工事は財政上の問題から大幅に遅延した。
同じく昭和二八年八月には、松山市三津浜町も下水道事業の認可を受けて着工した。
 このように戦後、県内主要都市において下水道建設が始められたが、この時点での県内下水道事業は、旧下水道法による主として雨水排除を目的としたもので、汚水処理を行わないまま、管渠または水路などで下水を直接海域あるいは水域に放流したことから、水質環境の改善には至らなかった。

 新法による公共下水道の建設

 新下水道法(昭和三三年四月制定公布)による終末処理場を有する公共下水道としては、既に述べたとおり松山市が昭和三三年四月に着工したのが、県下の最初で、昭和三七年七月には高速散水ろ床法による終末処理場(松山市下水道中央処理場。松山市生石町南江戸四丁目)が完成し、一部処理開始を行った。さらに経済成長に伴って、地方都市においても産業活動が活発になり、都市への人口集中が激しく、産業及び生活排水等による水質汚濁が公害問題をひき起こすに至ったため、昭和四四年(一九六九)一二月下水道法の一部改正並びに水質汚濁防止法の制定が行われた。これが契機となって、県内各市で急速に公共下水道整備の気運が高まった。
 昭和四七年には今治市が、翌四八年には、新居浜市・伊予三島市・川之江市が、さらに四九年に、伊予市・八幡浜市・西条市が、続いて五一年、北条市がそれぞれ国の認可を受けて、公共下水道の建設・整備に着手した。
 このようにして、今治市が昭和五一年度に、川之江市が五三年度に、新居浜市が五四年度、続いて伊予三島市が五五年度にそれぞれ終末処理場が完成し、処理を開始した。そのほか八幡浜・西条の両市並びに伊予市・北条市においても、それぞれ終末処理場の建設や管きょ整備などを積極的に進めている。
 なおこの間、昭和四八年四月に宇和島市公共下水道事業が休止された(注 昭和五八年度より再開された)ので、同五七年三月末現在の県内下水道事業実施中の都市は図公2-5に示したとおり、松山市・新居浜市・今治市・西条市・八幡浜市・伊予三島市・川之江市・伊予市・北条市の九市である。またこの間(昭和三八~五五年度)における県内公共下水道事業の投資額は表公2-8に示したとおりである。

 下水道事業費の推移

 下水道事業は、地方公共団体が行うものであるが、その建設には多額の資金が必要であり、かつ下水道を緊急に整備することが国家的見地からも急務であるという認識に立って、国は下水道の建設促進に努めてきた。すなわち昭和三三年四月、「新下水道法」を制定し、昭和三六年三月には第一次「下水道と財政」の提言を受けて、「下水道整備五か年計画事業」を推進した。この五か年計画事業は、昭和三八年度を初年度とする第一次五か年計画が、生活環境施設の整備を重点に策定されたのが初めである。その後も昭和五五年度まで、第二次、第三次、第四次五か年計画が継続実施され、下水道整備の目的も、公共用水域の水質の保全、公害対策、市街化区域などにおける浸水の防除、農山漁村の集落及び湖沼周辺などの環境保全へと次第に拡大された。
 この間における、県内の下水道整備状況を事業費の面からみると、「公共下水道事業費」については、表公2-8に示したとおりで、昭和三八~五五年度の間に県内一〇市において、六二三億円余が投資され、うち国費補助金は三〇八億円余であった。なお事業費は昭和五〇年代に入って、急速に増加している。
 次に、下水道には市街地の雨水を排除することを主たる目的とする「都市下水路」(集水面積三〇~二〇〇㌶)があるが、県下各市町においても昭和三八年度以降この事業に取り組んでいる。すなわち表公2-9に示したとおり、同五五年度までに県下で四九億円余が投資され、一〇市四町において三七か所が整備された。なお昭和五六年度において、六市二町一四か所で事業を推進中である(図公2-5参照)。
 また昭和五〇年度の法改正により、湖沼周辺などの自然環境の整備を目的として、終末処理場を有する小規模な「特定環境保全公共下水道」の制度が生まれた。県内においては、今治市が、瀬戸内海国立公園環境保全を目的として、「塔か谷地区」(今治市湯の浦乙五八番地)を昭和五一年度から三年計画で整備した。その規模は昭和五六年度末で、管渠延長(汚水)二・一㌔㍍、処理面積一二・九二㌶、処理人口八四〇人、事業費二億一、九三四万円であり、処理方式は、長時間曝気接触酸化法である。
 さらに愛媛県においては、県内下水道事業の普及促進を図るため、昭和五三年度から県内市町村が「下水道整備基本計画」を策定する際、県費助成(計画策定費の二分の一)を行うこととし、昭和五三年度に一市三町が、五四年度に一市二町、五五年度に三町が県の助成を受けて下水道整備基本計画を策定した。その結果、昭和五七年三月末には、県下七〇市町村のうち二四市町が、基本計画策定済み(実施中を含む)となった(図公2-5参照)。

 公共下水道普及率の推移

 県内公共下水道の建設は、昭和三八年度以降順次進められたが、その人口普及率(処理人口/行政人口×100)の推移は図公2-6のとおりである。
 昭和三八年度末一・六%、四〇年度末三・二%、四五年度末五・二%、五〇年度末六・五%、五五年度末一〇・六%、五六年度末一一・六%と次第に普及したが、全国平均(五五年度末三〇・〇%)に比べると、県内の普及はかなり遅れている。
 なお昭和五六年度末における県内普及率は、行政人口一、五一二万二、〇〇〇人に対して、処理人口一七五万五、〇〇〇人で人口普及率一一・六%であるが、この時点で下水処理場が稼働している県内五市別の人口普及率を見ると、
松山市 二九・九%、今治市 二七・三%、伊予三島市 二二・九%、川之江市 一〇・一%、新居浜市 五・四%
となっている。

 県内公共下水道整備状況

 県内公共下水道の整備については、各市町村が鋭意努力しているが、昭和五八年度末の整備状況は、表公2-10に示したとおり、一一市一町が事業に着手しており、うち既に述べた五市が下水処理を開始しており、人口普及率は一三・五%となっている。また八幡浜市・西条市は五九年度開始を予定しており、他の四市一町は現在早期供用開始を目指して、事業の推進に努めている。さらに今後とも、事業実施中の各市の施設の整備拡張と併せて、その他の各市町の新規事業の整備についても、積極的に推進される計画である。

図公2-5 下水道事業実施都市

図公2-5 下水道事業実施都市


表公2-8 公共下水道事業費(県計)

表公2-8 公共下水道事業費(県計)


表公2-9 都市下水路補助対象事業費(県計)

表公2-9 都市下水路補助対象事業費(県計)


図公2-6 公共下水道普及率の推移

図公2-6 公共下水道普及率の推移