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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

三 県内上水道の普及

 戦前の普及は低調

 県内上水道(計画給水人口が五、〇〇一人以上の水道)は、大正一五年(一九二六)九月、初めて宇和島市に設置され、続いて昭和七年(一九三二)三月三津浜町、同一〇年一二月道後湯之町に敷設された。さらに翌一一年三月には今治市・八幡浜市に完成したが、その後は戦争の激化などもあって計画したものの工事が進捗せず昭和二〇年の終戦を迎えた。従って昭和二〇年末の県内上水道事業所は、宇和島市・松山市(三津浜町・道後湯之町より移管された)・今治市・八幡浜市の四か所で、合計給水人口は一二万五、〇〇〇人、県人口に対する上水道普及率は九・二%であった。これは同年の全国普及率三四・八%(『日本水道史』による)に比べて、著しく低いもので、戦前の県内上水道普及は全国的にみて大きく出遅れた。
        
 戦後普及進む

 終戦後間もない昭和二一年(一九四六)一二月に発生した大規模な南海地震によって、県内広範囲にわたって地盤が沈下し水量が枯渇した。特に本県に多い島しょ部や海岸部では井戸水に塩分が浸入し、また湿地帯では汚水が混入する恐れが生ずるなどしたため、県内各地域で上水道設置の要望が高まった。また戦後の復興も次第に進み、産業復興・経済の安定化が進展するに従い水の需要も増加したので、上水道の必要性がますます大きくなった。しかし、戦後地方財政の基盤は弱く、水道建設を進める上で大きな障害であったが、時あたかも南海地震対策として「上水道地盤変動復旧国庫補助制度」(水道事業費の二分の一を国庫補助)が施行されたことにより、事業実施が促進されることとなった。また政府は、旧水道条例(明治二三年二月制定法律第九号)を抜本的に改正し、新たに「水道法」(昭和三二年六月法律第一七七号)を制定して、水道事業振興の基盤を確立した。さらに政府は、昭和三六年度から長期水道整備計画を樹立し、水道施設の整備を長期にわたって計画的にかつ総合的に推進することとした。
 このように水道敷設の条件整備が行われたため、県内上水道建設の気運は急速に盛り上がり、昭和二〇年代後半から三〇年代にかけて、次のように県内各地で水道施設が完成し、それぞれ給水を開始した。
 〈昭和二七年〉 松前町・三瓶町 〈二八年〉 北条市・松山市創設水道一部通水開始 〈三〇年〉 伊予三島市 〈三一年〉川之江市 〈三三年〉 野村町 〈三四年〉 大洲市・伊予市・三芳町・保内町・内子町 〈三五年〉 告田町・丹原町・新居浜市 〈三六年〉 津島町・宇和町・土居町・松山市創設水道完工 〈三七年〉 伊方町 〈三九年〉 小松町
 その結果、普及の遅れていた県内上水道は、昭和三〇年代に入って建設が進み、表公2-1に示したように昭和三六年度末には、事業所数二四、給水人口四〇万八、〇〇〇人、普及率二七・四%に達し、さらに四〇年度末には普及率は三八・八%にまで伸びた。四〇年代以降は、新たな事業所の増加はほとんどみられなかったが、地域産業の発展、生活様式の近代化などを背景に大量水源の確保や周辺簡易水道の統合を行うなどしながら、水道施策の拡張・整備が進められたので、給水人口は飛躍的に増大し、上水道普及率は、昭和五〇年度末五八・一%、五七年度末六八・三%と向上した。
 なお昭和五七年三月末の県内水道(上水道及び簡易水道、専用水道を含めた水道合計)の普及率は八六・三%でこれを全国平均と対比すると、表公2-2に示したとおり全国計にかなり接近したが、なお五・六%低い。さらに水道種類別にみると、上水道の普及率が全国に比べて一五・三%も低い水準にあり、反対に簡易水道は九・五%も高く、統合整備が進んだとはいえ、本県の地形などによるのかなお簡易水道のウエイトが高い。また昭和五八年三月末現在の県内三三上水道事業所の概要を表公2-3に示した。

表公2-1 県内上水道の普及

表公2-1 県内上水道の普及


表公2-2 水道普及率の全国対比

表公2-2 水道普及率の全国対比