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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

三 成長期

 電話交換局の開設相次ぐ

 大正前期の県内経済は第一次世界大戦(大正三年七月~七年一一月)の影響により活況を呈した。そのため産業活動は活発化し、県内各地で電話に対する需要が急速に高まったが、政府の第三次電話拡張計画(大正五年度に始まる)の推進により、県内電話施設は、大正期に著しく拡張整備された。特に特設電話による物件寄付制度などの活用もあって、電話交換局が各地に急テンポで開設され、県内電話はたくましい成長ぶりを示した。
 すなわち大正期に開設された県内電話交換局は表公1-18に示したとおり二七局に達した。また通話事務のみを扱う局を含めた電話取扱局数の推移(表公1-19)を見ても、大正元年の二六から、同七年四〇、一〇年五九、一四年九四と急増した。このように大正末期には、県内電話施設は大きく成長・発展し、県内各地域に整備されたが、その状況を図公1-12に示した。
 また施設の発展に伴って、大正期の県内電話加入者数は逐年増加し(表公―1-19参照)、明治四二年度末四二六であったものが、大正二年度末二、〇〇〇、五年度末二、二四四、一〇年度末三、五七四、一四年度末五、四九七と急速に普及していった。さらに自動電話所(公衆電話所)も大正一四年度末一一か所に設置された。
         
 市外回線の拡充

 明治四二年(一九〇九)二月、既に芸予海峡に敷設されていた電信海底ケーブル(無装荷一重)を使って、松山・本州間の市外電話線を新設した。それ以来昭和の初めまで、松山・本州間の市外通話は、この市外電話線によって行われたが、年ごとに増加する通話に対して、市外電話線の能力が不足してきたため、昭和二年(一九二七)四月、それまで一条であったものを改め、四対平等装荷海底ケーブルを敷設した。平等装荷は導体の上に円筒形またはテープ状の綱線を周囲に連続して巻き着けるもので、さきに備讃海峡に敷設したもの(八対)と対数は異なるが、同じ種類のものであった。従来の無装荷の海底ケーブルは通話損失が大きいため、話が聞こえ難く、また通話区域も狭かった。それがこの新しい海底ケーブルの敷設によって通話損失が非常に少なくなり、従来の回線に比べて画期的に良好な市外電話線が得られた。
 しかし電話需要は増大の一途をたどり、昭和前期の前半には、早くもこの区間の回線が不足するようになった。そのため新たに開発された技術により、平等装荷海底ケーブルに一通話路搬送電話を重畳し、また既設の四心入り電信海底ケーブルに三通話路搬送電話と、三通信路搬送電信をそれぞれ重畳して回線の増設を行った。このようにして、市外電話回線は昭和に入って飛躍的に増大し、また陸上部においても主要区間はケーブル化し、さらに多重化していった。県内では昭和七年(一九三二)三月、高松・今治間に当時の最新設備であるTS形の一通話路搬送電話装置を敷設した。
 さらに年々市外通話に対する需要は高まる一方であったため、その要望に応ずるため長距離伝送技術の開発・研究が進められ、昭和六年以降わが国では、世界に先がけて無装荷搬送方式を実用化するに至った。
 この優れた無装荷搬送ケーブルを使って、四国では淡路島から撫養(現鳴門市)・高松・豊浜・西条・松山へ。また松山から呉と大分へのルートが開設された。このようにして昭和一〇年には、図公1-13に示したように、松山から大阪・広島・別府・大分方面並びに高松・高知・徳島をはじめ県内主要地域の間に、直通市外電話回線が建設・整備された。

 電話交換方式の改善

 県内電話創業当初の電話交換方式は、単式交換機であったが、これは相手加入者の電話番号の二度呼びや、交換取扱者の手数が多くかかるなど効率が悪かったので、これを改善するため直列複式交換機に切り替えられることになった。新しい方式は、全国主要都市では既に明治末期より実用化されていたが、四国ではかなり遅れ、大正四年七月高知が、次いで徳島が同五年七月複式に改善された。
 松山においても複式切替を計画したが、新しい施設を設置するためには、郵便局舎の拡張・新築並びに加入定数八〇〇の確保が必要であった。そのため改式実現に手間どったが、大正八年三月、松山郵便局局舎が三番町に新築落成したので、複式改善の条件が整った。新方式の規模は、大正八年(一九一九)九月八日付『愛媛新報』によると、「複式交換機二、一〇〇個、地下線四、八〇〇回線、総経費六万五、〇〇〇円であった」。このようにして同八年一〇月、松山局は市内台五台(一五席)、市外台五台、加入者数六四〇人で複式に切り替わった。改式後の成績は良好であったと言われる。
 しかし大正中期から昭和前期にかけて、県内電話加入者数は飛躍的に増加し、この直列複式交換方式(磁石式局)では需要に応じられなくなり、順次共電式交換機や自動交換機に切り替えられていった。県内では昭和四年(一九二九)七月一四日、今治局が四国のトップを切って共電式交換へ改式された。次いで同六年六月七日宇和島局が、さらに一〇年八月四日には八幡浜局が、いずれも共電式に改められた。なお松山局はずっと遅れて、終戦後の昭和二三年にようやく共電式局になった。
 今治局の共電改式の模様をみると、同局では昭和四年六月、市内広小路第一小学校西南隅六〇〇坪(一、九八〇平方㍍)の敷地に延建坪二九三坪(九六七平方㍍)の電話分室(鉄筋コンクリート造三階建)を新築完成した。共電改式は同年七月一四日午前零時に行われ、それまで市内風早町一丁目の今治郵便局舎内にあった旧施設は、その機能を停止し、四国最初の共電式電話交換がスタートした(写真公1-23)。時に加入数七九五、市外回線は今治―松山線、今治―高松線など一五回線、交換手は三六人であった。改式によって交換業務は著しく改善され、加入者からも喜ばれた。交換機は全部国産で市内交換機には、共電式己号交換機、市外交換機には三号C共電式交換機を用いた。なお市内交換機は有鍵信号式で、交換手はプラグの操作と信号キーを倒す作業とを併せ行った。
 宇和島局の共電改式は、今治局より約二年後の昭和六年六月七日、市内横新町に新築した電話分室に移転と併せて行われた。新局舎は鉄筋コンクリート造二階建で、敷地三四〇坪四七(一、一二二平方㍍)、建坪延二八三坪四〇(九三四平方㍍)であった。当時の加入数は七七〇、交換手四五人、市内交換機は戌号交換機四台、市外交換機は三号B交換機六台であった。なお市内交換機は今治と異なり無鍵信号式でジャックにプラグをそう入しさえすれば、自動的に信号が送り出される仕組になっていた。
 なお自動改式(自動交換機による自動電話)については、四国では昭和八年(一九三三)五月徳島が、続いて同年一〇月高松局において実施された。松山局もその計画を進め、昭和一二年四月には、自動改式に備えて電話分室敷地の買収計画(松山市二番町一一番地と二〇番地先。面積四五八坪余一、五一一平方㍍)、並びに新築計画をたてたが、戦争のため実現は戦後になった。

 昭和前期の電話加入数

 昭和前期(昭和一~二〇年)の県内電話加入数の推移を表公1-20に示した。昭和二年から三年にかけて、加入数は急増したが、その後、経済不況の影響を受けて、昭和五~九年にかけては増加の勢が鈍化した。やがて同一二年七月日中戦争が起こり、軍需景気に伴って電話需要も増大したが、資材不足等により施設の拡張は出来なかった(但し一二~一四年の間の県内統計資料無し)。さらに一六年一二月太平洋戦争に突入し、電話通信も戦争体制に入った。特に戦局が急迫してきた一九年から二〇年にかけては、戦時特例による利用の制限令により、加入電話の動員や不急施設の強制転用を行ったため、県内電話加入数は、昭和一九年度末の一万五四〇から二〇年度末には五、六二九と著しく減少した。また昭和二〇年終戦の年には、県内基幹局である松山・今治・宇和島が空襲を受け、明治以来営々と積み上げてきた県内電話施設の主要部分が壊滅的な大打撃を被った。

表公1-18 大正期に開設された電話交換局

表公1-18 大正期に開設された電話交換局


表公1-19 大正期の電話加入数・電話取扱局数

表公1-19 大正期の電話加入数・電話取扱局数


図公1-12 大正末期の電話回線

図公1-12 大正末期の電話回線


図公1-13 主要市外電話回線図

図公1-13 主要市外電話回線図


表公1-20 昭和前期の電話加入数・電話取扱局

表公1-20 昭和前期の電話加入数・電話取扱局