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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

四 復興・変革期

 戦災からの復興

 昭和二〇年(一九四五)七月から八月にかけて、松山市をはじめ今治市、宇和島市は空襲のため市街地の大半を焼失し、電信施設も甚大な被害か被った。戦後これら三市の復興と歩調を合わせて、同二〇年九月松山逓信局内に設けられた復興隊が中心となって、電信施設の復旧に懸命に取り組んだ。このためほとんど懐滅状態であった松山からの電信線は、戦前の四〇回線のうち戦後間もなく、そのうちの一六回線が復旧した。それは松山局から東京・大阪・下関・徳島・高知・高松・今治・宇和島・八幡浜・新居浜・波止浜・三津浜・大洲・野村・西条・川之江への各回線で、これらはいも早く開通した。
 その後昭和二四年ごろになると、人々の生活はようやく終戦直後の混乱から立ち直って安定に向かった。そして同二四年六月、国の二省分離に伴って、四国地方の電信業務管理機関であった松山逓信局が解体され、新たに四国電気通信局が創設された。これによって電信業務並びに施設の復旧や拡張に専念できる体制が整った。次いで翌二五年六月に朝鮮戦争が起こり、特需ブームに乗って県内経済は、生産設備の増大平貿易の伸展をみるなど急速に好況に向かい、戦前の水準にまで回復するに至った。
 このような社会・経済情勢を背景として、県内電信事業の復旧は着々と進み、昭和二五年の段階で戦前の水準にまで回復した。すなわち発信電報数は戦前のピークであった昭和一八年度の一四五万通に対して、同二〇年度は八五万通(表公1-12参照)にまで落ち込んだが、表公1-13に示したように、昭和二一年度以降増加を続け、二五年度には一四二万通とほぼ戦前ピークの水準に達した。さらに翌二六年は一五一万通と戦前戦後を通じての最高を記録した。しかしその後は、電話あるいは航空郵便の普及などが要因となって、漸次減少の方向をたどった。

 四国電気通信局の誕生

 昭和一八年(一九四三)一二月一日松山逓信局が設置され、四国一円の逓信業務を管轄した。庁舎は戦争中各所を転々としたが、昭和二二年七月三一日松山市二番町五四番地(現一番町四丁目三番地。NTT四国総支社の場所)に庁舎を新築し、仮庁舎(現在地の東方約二〇〇㍍にあった)から移転した。
 ところで政府は、戦災によって潰滅状態になった電信事業を早く復興させるためには、企業性の導入が必要との考え方に立って逓信省を二つに分離する方針を固めた。そして昭和二三年一一月の第三国会で、電気通信省設置法と郵政省設置法が可決され、翌二四年六月一日電気通信省が発足した。
 これに伴って同日、四国電気通信局が誕生し、四国一円の電信電話業務を統轄することとなった。なお同時に、四国電波管理局と四国電気通信資材部を置いた。また県内電信電話事業を管理する組織としては、四国電気通信局の下に愛媛電気通信部を置きその管轄下には図公1-6に示したように、五電気通信管理所を、さらに電報局二(松山・釣島)、電話局一(松山)、電報電話局一〇、特定郵便局二四九を配置した。
 電気通信管理所は、地域内の取扱局を直接監督して、業務・施設両部門の調整を行うとともに、委託局の電信電話業務を監督することとした。なお取扱局は業務の第一線にあって電気通信設備の保守並びに運用に当たり、直接一般公衆へのサービスを提供する現業機関である。また別に、四国一円を管轄する松山搬送管理所及び松山無線管理所があり、それぞれ搬送、国内無線・国際無線などの施設面並びに業務の監督・運営に当たることとし、松山市に設置された。
 さらに政府は、電信事業の抜本的な改革を図るため、電気通信省を廃止してこれを公共企業体に切り替えることとし、昭和二七年(一九五二)八月一日、日本電信電話公社を発足させた。公社は管理機構を簡素化して、経営の能率化・近代化を促進し、現場機関のサービス向上を基本方針とした。この改革に伴い、四国電気通信局(電気通信省の地方機関)は日本電信電話公社四国電気通信局となったが、通信局・通信部の権限が拡大・充実されたほか、電報局等現場取扱局の権限も増大された。それに伴って電気通信管理所を廃止し、また搬送管理所、無線管理所をそれぞれ搬送通信部、無線通信部に改め、四国電気通信局に直結させた。
 なお公社は昭和六〇年四月一日民営化され、四国電気通信局はNTT(日本電信電話株式会社)四国総支社に改められた。

 松山電信分局の移り変わり

 松山電信分局は、明治一一年(一八七八)九月二五日当時の温泉郡二番町六七番地(現在の松山市役所前八股榎の付近)に開設され、県内電信の創業となった。その後、現在の松山電報局に至るまで、郵便業務との関連もあって度々名称・機構の変更が行われた。
 明治二二年七月一六日には松山郵便電信局と改称され、この時以降、長期間にわたって、郵便業務と併合した形で運営されることとなる。なお翌二三年八月三日、局舎を三番町二九の二に新築移転した。さらに明治三六年(一九〇三)四月一日には松山郵便局と改称した。次に大正一〇年(一九二一)六月一日松山郵便局の組織整備により同局に電信課が設けられ、電信・電話業務を所管した。
 戦後昭和二二年(一九四七)一一月一日、松山郵便局電信課から分離独立して松山電信局が設立され、同二四年六月一日二省分離に伴い松山電報局と改称された。次いで業務拡大に併う施設整備の必要から現在地の一番町四丁目二番地(当時は二番町五四番地。その後、現町名に変更された)に局舎を建設した。新局舎は松山電話局の構内に二階建(一部三階無線室)の本建築局舎(鉄骨延七三一坪。その後増築)を新築したもので、昭和二八年一二月一日移転した(写真公1-18)。
 その後、業務の充実・近代化に努め、昭和三〇年三月一三日全国的にも早い時期に、電報自動中継機械化(TX二形三六ボー)を実施した。次いで三五年一一月一〇日、四国のトップを切って加入電信サービスを開始し、さらに四三年一〇月にはデータ通信サービスを始めた。

 新しい通信サービスの開始

 加入電信(テレックス)は昭和三一年一〇月、東京・大阪に登場して以来急速に普及し、四国では同三五年一一月一日、松山電報局が初めて取り扱いを始めた。加入電信は、加入電信加入契約約款に基づき、公社と特定の加入者の間に締結される契約によって設置される公衆電気通信設備である。それは加入者宅内に設置される印刷電信機及び、加入電信取扱局交換設備との間の電信回線からなっている。加入者は全国すべての加入者と即時に接続され通信ができる。
 松山電報局ではサービスを開始した昭和三五年度末、加入数は一一であったが年々増加し、昭和四〇年度末五三、同四四年度末一六九となった。なお昭和四七年度末の県内テレックスサービス局は、図公1-7に示したとおり一二局であった。
 また昭和四〇年代に入って、情報革新・技術革新の時代を迎え、高性能の情報処理能力を備えた電子計算機の利用分野が著しく拡大され、これと通信網を結合させたデータ通信が社会・経済に大きな変革をもたらすこととなった。電電公社ではその社会的使命の重要性にかんがみ、データ通信システムの推進を図ることとした。まず全国銀行の本・支店並びに営業所間のデータ通信業務を取りあげることとし、昭和四三年一〇月、全国地方銀行六二行(伊豫銀行を含む)による為替交換のためのデータ通信を開始した。
 さらに伊豫銀行では、自行内本・支店間の通信網を整備するため、それまでの加入電信と専用テレタイプによる通信システムを廃止し、同四三年七月から準専用サービスによるシステムを利用することとした。この自行網システムの構成は、本店と支店に直営のデータ伝送用宅内装置と、さん孔タイプライターを設置し、各店のデータ伝送用宅内装置と電話交換網によって相互に結ばれており、各店舗間では直接送受信ができるものである。

 電信業務の変革

 第二次世界大戦前は、電報は国民の日常生活に欠くことのできない緊急用の通信手段として重要な役割を果たしてきた。しかし戦後、電話やテレックスなど近代的な通信手段が急速に発展普及するに伴って、電報の利用は年を追うごとに減少を続けるに至った。
 すなわち愛媛県内から国内向けの発信電報通数の推移は表公1-14に示したように、昭和二六年度の一五一万通をピークとして、三〇年代は一二○万通前後で推移し四二年度には九六万通と一〇〇万台を割った。その後も急テンポで減少し、四五年度には八八万通、四八年度はさらに六一万通と低下は止まらなかった。さらに五〇年代に入っても減少傾向に歯止めがかからず、五二年度以降五二万通~五四万通程度を低迷し続け、五七年度も五四万通に落ち込んだままであった。このように戦前非常に高かった電報の地位はすっかり下落し、県民生活との結び付きは電話等に比べて極めて薄いものになってきた。
 次に電報業務の内容についてその移り変わりをみておきたい。従来の電報の利用は主として、死亡・危篤などいわゆる緊急を要する場合や、人の往来・安否の照会など個人間の連絡用等であったが、最近ではこのような利用が著しく減少した。これに代わって国民所得の向上や生活態様の変化などを反映して、慶弔電報が増加しその地位を奪われるに至った。
 今では〝チチキトク〟といった緊急通信のイメージであった電報は、〝ゴケツコンオメデトウ〟で代表される社交・儀礼的色彩の濃いものに変おってきた。また電報の発信方法も、窓口発信から次第に電話による発信に移り、昭和二八年度には発信電報の約半数が電話託送となり、さらに電話の急激な普及に伴って、三四年度には約七割が電話により発信された。
 このような電報をめぐる情勢の変化に対処するため、電報業務の合理化とサービス改善の必要に迫られることとなった。まず合理化面では、電報中継の機械化に取り組んだ。すなわち発信局から着信局までの電報中継は、従来一通当たり約二回の人手を必要とした。これを機械化することによって省力化を図り、併せて電報のそ通能力を高め、誤びゅうを減少するなど経営の合理化とサービスの改善を目的としたもので、これによって電報業務は一段と近代化された。
 そのシステムは全国を三〇ブロックに分け、その地域の中心となる局(交換局。県内では松山)に交換装置を設置し、さらに交換局の下に印刷通信装置を設置した加入局を置いて電報中継交換網を構成し、これにより加入局相互間に発着する電報をすべて自動中継するものである。
 県内の実施は、昭和三〇年(一九五五)三月一三日愛媛県全域を交換区域とする松山電報局が全国で五番目の交換局として改式し、全国的にも早い時期に近代化が行われた(図公1-8)。その後も業務の集約的運営の実施等により、加入局の改廃・加入業種別の変更が次々に行われた。特に同四七年三月一〇日全国にさきがけて実施した電報業務運営形態の再編成に伴う中継交換加入局の整理統合により、県内電報中継交換網の整備がさらに進んだ。
 新運営形態に改められた県内電報取扱局(直営)を示すと表公1-15のとおりであり、松山局のみが電報局であり、他の二四局はいずれも電報電話局である。なお上位管理機関は、愛媛電気通信部さらに四国電気通信局(現NTT四国総支社)である。また電報電話局二四局のうち、昭和五八年三月末現在では二津浜局が廃止され、城川局が新たに開設されている。

表公1-13 昭和20年代の発信電報通数 愛媛県

表公1-13 昭和20年代の発信電報通数 愛媛県


図公1-6 昭和24年6月 電気通信組織図(県関係分)

図公1-6 昭和24年6月 電気通信組織図(県関係分)


図公1-7 テレックスサービス局

図公1-7 テレックスサービス局


表公1-14 昭和後期の発信電報通数(国内向け)

表公1-14 昭和後期の発信電報通数(国内向け)


図公1-8 電報中継交換網図

図公1-8 電報中継交換網図


表公1-15 新電報業務運営形態

表公1-15 新電報業務運営形態