データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

二 確立期

 電信網の整備

 明治一一年(一八七八)九月二五日、松山・今治に電信分局が開設され、翌一二年三月には松山から八幡浜を経て宇和島まで延長し、県内電信の創業となった。その後、県内各地に電信線が拡張され、電信事務の開始が相次いだ。明治一四年一二月には、松山・宇和島線を大洲に引き込んで大洲電信分局を開設した。その後明治二二年二月には、既設の丸亀・高知線の大町地点(現西条市大町地区)から分岐し、大町・西条間の一五町一六間(約一・八㌔㍍)に二線を架設して、同年三月西条局の電信事務を開始した。ここでは中央の方針に従い、郵便と電信業務を合同して運営した方が有利であることから、既存の西条郵便局と併合して西条郵便電信局として発足した。なおこの時点から明治三六年 (一九〇三)三月までは、すべて郵便電信局として電信事務が行われることとなった。
 また松山地区では、明治二三年九月に松山・三津浜間の一里三一町二間四尺(約七・三㌔㍍)と、松山・郡中間の三里五町五二間三尺(約一二・四㌔㍍)に一線を新設して、翌二四年一月三津浜局・郡中局(現伊予局)の電信事務を開始した。さらに丸亀・高知線では、明治二四年二月川之江局が開局した。その後この線は接続局が増え続けたので、これを丸亀・松山線(四一里八町四間。一六一・九㌔㍍)と松山・高知線(三九里一四町五五間。一五四・八㌔㍍)に分断した。松山・高知線では二五年一月に久万局を開局した。
 一方南予では、明治二五年に松山・宇和島線を川之石に引き込むとともに、別に宇和島から卯の町(卯の町・宇和島線五里一〇町一二間。二〇・七㌔㍍)まで架線して、同年二月卯の町局・吉田局の電信事務を開始した。このようにして明治二八年末には、図公1-4電信回線図に示したように、県内主要地間の電信網が一応の形を整えた。

 電報取扱通数

 県内電報取扱数の最も古い資料は、丸亀逓信管理局(当時四国一円を統轄した)調べの明治二〇年度の記録である。それによると同年度の愛媛県発信電報通数(開局していたのは松山・今治・宇和島・八幡浜・大洲の五局)は二万六、〇八九通。同じく着信電報は二万八、一八〇通であった。
 なお明治二七年度の愛媛県電報取扱数(国内向け)は、表公1-10のとおりである。開局数は一三局。発信電報通数(有料・無料の計)八万九、五六九。また着信電報通数は一〇万七、四四七に達し、明治二〇年に比べてわずか七年間でそれぞれ発信数三・四倍、着信数三・八倍と急速に増加し、同時点での四国全体の増加率二・九倍、三・二倍をともに上回った。

 電信機械及び技術者

 明治二四年度末の県内電信局数は九局であったが、その設置電信機械数(国産モールス電信機。写真公1-15)は、松山局が四台のほかはいずれも一台だけで合計一二台であった(『愛媛県史資料編社会経済下』公益参照)。また技術者数は、松山局の六人のほかはいずれも二人の配属で合計二二人に過ぎなかった。そのうち技手が配置されていたのは、松山五人、宇和島二人、今治一人のみで、他の局はいずれも技術員の身分であった。なお当時の職員の勤務は、朝八時に出勤して一日勤務し、局に泊って翌日の朝八時に退局して明けるという二四時間連続の服務であった。また松山局の技術者には旧藩士の子弟が多く、勤務成績は優秀であったという。
 電信機は創業以来、長くモールス印字機が使用されたが、明治三一年(一八九八)以降県内主要局では、電報の疎通能率を向上させるため印字機通信から、音響通信に切り替えられた。音響機の構造は、電磁石と金属レバーから出来ており、電磁石に通信電流が通じるとアーマチュアが吸引され、これに接続されている金属レバーが下部金物をたたき、電流が切れるとバネによってもとに戻り、上部金物をたたいて音響を出す機構になっている。その際、下部から上部に至る時間の長短により、長点と短点を区別してモールス符号を表すものである。
 このように新しい方式は、直接耳で電報を受信するもので高度の技術を必要としたが、装置が簡単で一つ一つの文字を現字紙を繰りながら翻訳する必要がなく、通信速度は飛躍的に向上した。

 電信管理機構の変遷

 わが国の電信管理機構は、明治四年(一八七一)八月工務省に電信寮を創設して、全国の電信管理事務を一元的に所管していたが、四国に電信が創設される直前の明治一〇年一月には、電信寮を廃止して新たに電信局を設け、管理に当たった。その後、郵便・電信業務の拡大に伴い、明治一八年一二月逓信省が創設されるに及んで、同省電信局に改められた。さらに翌一九年四月、電信管理業務の増大に対処するため、全国主要一五市に逓信管理局を新設し、管理事務を分掌することとなった。四国では同年七月一日、丸亀市富屋町九番地妙法寺を借りて丸亀逓信管理局を設置し、四国一円の電信業務を管轄することとなった。
 明治期の地方電信管理機構は、郵便業務に併合される形で管理され、県内統轄機関の変遷は既に第一節郵便で述べたとおり、その後も幾多の変革を繰り返した。なおこの郵便・電信の統合管理体制は、昭和二四年(一九四九)六月一日、逓信省が郵政省と電気通信省に分離されるまで続いた。
 この二省分離に伴い、当時四国一円を管轄していた松山逓信局を廃止して、松山郵政局(四国の郵便業務管轄)並びに四国電気通信局(四国の電信・電話業務を管轄)が設立されたことによって、電信管理機構は郵政業務から分離して独立機関となり、四国電気通信局を経て現在のNTT四国総支社(日本電信電話株式会社。昭和六〇年四月一日民営化)へと、その時代とともに変遷した。
         
 別子鉱山と電信

 別子鉱山(住友金属鉱山株式会社別子鉱業所)では、
 「明治二十五年九月十三日、新居浜分店運輸課事務所内にモールス電信機を設置して、西条郵便電信局との間に、店用と一般公衆用通信の取扱いを開始した」
との記録がある。
 別子鉱山の電信取扱所は電信条例に基づき、住友が逓信大臣の許可を得て自費で開設したもので、住友私設電信取扱所とかあるいは住友私設請願電信局と呼ばれていた。これは法的には、店用以外の取扱いは禁止されていたが、実際には一般公衆電報も取り扱った。それは、当時別子鉱山には二、〇〇〇人の従業員が働き、来客や商人などの出入りが頻繁であったため、必要上やむを得ず利用させたものであろう。
 その後明治三三年(一九〇ニ)になって電信法が制定され、私設電話による公衆通信の取扱いが認められることとなったので、翌三四年二月一日「新居浜住友電信取扱所」と名称を変え、正式に一般公衆電報の取扱いを始めた。さらに同年一二月、新居郡金子村惣開(現新居浜市)の新築事務所に移転した(写真公1-16)。三六年三月同所に惣開郵便局が誕生したので、電信業務は新居浜郵便局の郵便業務とともに、惣開郵便局に吸収された。ここに一〇年余に及んだ住友による電信店営の歴史が閉じられた。
        
 電信網の拡大

 県内電信回線は、明治二八年度末の段階では県内主要地を縦に貫いて伸び、電信網の骨格をつくった(図公1-4参照)。そして明治三〇年代に入ると、この幹線が横に広がって次第に電信網を形成していった。すなわち県内各地の中心局から多数のローカル線(分岐線)が伸びていったのである。
 当時の県内電信回線の記録としては、明治三六年六月二三日高松郵便局長(当時の四国一円の統轄局であった)から管内各郵便局への通達文書がある。それによると、明治三六年六月現在の県内回線は図公1-5に示したとおりであり、それは次のように七回線と四分岐線から形成されていた。まず七回線は

 高松―丸亀―阪出―多度津―西条―松山―高知  多度津―川之江―三島―多喜浜(現新居浜市)―惣開(現新居浜市)―土橋(現新居浜市)  西条―今治―三津浜  松山から北条、波止浜、桜井、丹原、小松間、郡中―内子―長浜―大洲―川之石―三机―三崎宇和島―岩松(現津島町)―平城(現御荘町)  久万―越智―佐川―伊野があり、四分岐線は宇和島―松丸(現松野町) 八幡浜―卯之町―吉田―野村道後―古町(現松山市)横河原(現重信町)―松前であり、この時点で県内電信網はほぼ形成されたと言える(注 カッコ内は筆者)。
 
 またこの時期には海底電信線の敷設も相次いだ。三崎―佐賀関間には、明治二九年二心入り海底線を敷設。次いで同三三年には三心入りに増強され、四国と九州との間に直通電信線が開通した。
 また同三四年(一九〇一)一月には、芸予海峡の河野(現北条市)と呉阿賀(広島県)の間に、四心入りの海底線を敷設した。このケーブルで松山―中国間が直結され、本州への通信に大いに活用された。その後明治末期から大正期にかけての、いわゆる電信の黄金時代においても、松山・本州間の電信通信はこの一条の電信海底ケーブルだけに頼っていた。長さは一九・四海里(約三五・八㌔㍍)あって、四国・本州間の海底ケーブルのうち最も長いものであった。
 さらにローカル海底線として、明治四〇年には、今治・大島間、大島・伯方島間、伯方島・大三島間、大三島・ 生口島(広島県瀬戸田町)間の海底線を敷設するなど、島しょ部の連絡線も整備が進んだ。

図公1-4 明治28年末電信回線図(県関係分)

図公1-4 明治28年末電信回線図(県関係分)


表公1-10 明治27年度電報取扱数(国内向け)

表公1-10 明治27年度電報取扱数(国内向け)


図公1-5 電信回線図

図公1-5 電信回線図