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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

六 発展・統制期

 取扱郵便物数の推移

 大正期の県内郵便事業は、大正三年(一九一四)に起こった第一次世界大戦に伴う県内経済の発展により、著しく伸展しそれに伴って、郵便局の新設が行われた。また当時県内鉄道線路が急速に延長されたため、鉄道による郵便物送達も拡大した。
 しかし昭和に入ると、昭和六年(一九三一)九月満洲事変が起こり、さらに同一二年七月、日中戦争に突入するなど戦時体制の色彩が次第に強くなった。そのため昭和七年ごろから郵便事業は種々の制約を受けることとなり、取扱数量の落ち込みを余儀なくされた。また第二次世界大戦中は、統制強化・戦争混乱のため、かろうじて最低機能を保持するにとどまり、特に松山をはじめ今治・宇和島など主要都市の郵便施設は空襲により、大きな被害を被った。
 次に大正元年から昭和一三年の間の県内郵便局数・取扱郵便物数の推移(表公1-6)を見ることにする。通常郵便物引受数は、明治三七年(一九〇四)一、二七七万通と一、〇〇〇万通を超したが、大正元年(明治四五年)には、二、一九六万通、同六年(一九一七)三、一四八万通、八年四、五〇二万通、九年五、二八二万通と着実に増大し、昭和二年には六、八八二万通と第二次世界大戦前のピークに達した。なおこれを県内人口一人当たり引受数で見ると、大正元年二〇・三通、大正四年二二・八通、同九年五〇・三通、同一四年五五・八通と大きく増加しており、大正期に郵便が県民生活の中に広く普及したことが分かる。
 しかし戦争突入とともに、郵便物引受数は昭和七年四、九四八万通、一一年四、五二八万通、一三年三、九五四万通と急減した。なお昭和一四~二二年の間は、戦中戦後の混乱のため統計作業が中断したので、その実数を知ることはできない。また表公1-6中に郵便函とあるのは郵便差出箱(いわゆる郵便ポスト)で、柱函と掛函の二種類があった。ちなみに昭和一二年度末の郵便函数一、五二三の内訳は、柱函四〇五、掛函一、一一六、私設二であった。

 郵便取扱所の新設

 このように大正期から昭和初期にかけて、郵便の利用は年ごとに急増した。これに対応するため、郵便局の増設が必要であったが、国家予算の制約があって容易ではなかった。そこで政府は、大正四年(一九一五)一二月、個人または町村の申請に基づく「請願による通信施設」の開設を行うこととした。これは集配事務を取り扱わない郵便局を請願によって認めるもので、これによって無集配三等郵便局が新設されることになった。しかしこの措置でも、郵便物急増の勢いには対抗しきれなかった。
 そのため大正一五年一〇月一日、逓信省令をもって「郵便取扱所規則」を施行し、さらに簡易化された窓口機関を設けることになった。ここでの取り扱いは、郵便切手類及び収入印紙の売りさばきのほか、内国郵便物及び外地あて郵便物に限ることとし、また特殊郵便物の範囲も、書留・留置など簡単なものだけに制限したので、全国各地に急速に開設が進んだ。
 県内においても、この制度が創始された大正一五年度(昭和元年度)に四か所設置された(表公1-6郵便局数の※印)。さらに昭和七年度末には一一か所、九年度末には一三か所に増加した。その後、郵便取扱所の業務の範囲は次第に拡大していったので、昭和一五年末以降、そのすべてを無集配三等郵便局に改めた。

 郵便料金の改訂

 内国郵便料金は、明治三二年(一八九九)に、書状三銭、はがき一銭五厘と定められて以来三八年間も据え置かれたままであったが、昭和一二年(一九三七)三月値上げされた。新しい郵便料金は、書状四銭、はがき二銭と改められ、また外国郵便についても改訂された。料金の値上げに伴って新しい切手が準備され、同年五月一〇日二銭切手を、続いて八月一日四銭切手を発行したが、これは長く親しまれた田沢切手とは全く違ったデザインであった。

 松山逓信局の誕生

 県内郵便業務の管理機構は大正期に入っても変革が続き、大正二年六月にはそれまでの広島管理局所管から西部逓信局(大阪市)の管轄に移り、同時に広島分掌局が設置されて、県内郵便管理事務の一部を分掌した。さらに六年後の八年五月、再び広島逓信局の管轄となった。同時に県内監察事務は松山一等郵便局の分掌となり、現業監察業務の強化を図った。その後わが国は急速に戦時体制を強化していったが、昭和一八年六月三〇日、戦時体制下における地方行政の強化と整備拡充の必要から、勅令第五四八号をもって全国九地区に地方行政協議会を設置した。四国では愛媛県に協議会が置かれ会長には愛媛県知事相川勝六が任命された。
 逓信省ではこれに呼応して、勅令第八三三号(昭和一八年一一月一日制定)をもって、逓信局官制を改正し、昭和一八年一二月一日松山逓信局を設置した。同局は、四国四県の逓信業務を管轄したが、この時以降、四国郵便の統轄機関は松山市に置かれることになり、現在の四国郵政局(松山市)となった。松山逓信局は、松山市末広町伊予鉄道株式会社所有の伊予鉄道社友会館の建物を借り受けて開局した(写真公1-8)。しかしこの建物だけでは収容しきれないので、それまで開設準備室としていた歯科医師会館を分室として借り入れ、ここに工務部ほか四課が入った。発足時の同局の組織は、三部(業務・工務・経理)一五課で判任官定員は、逓信局書記一四九人、逓信局技手三八人、逓信局書記補三二人、計二一九人であった。
 同局はこのようにして発足したが、戦争は日増しに厳しさを加え、空襲の恐れや社会情勢の目まぐるしい変化に伴って、次々と庁舎を移転せざるを得なかった。すなわち開局後わずか四か月余(一九年四月二七日)で早くも、市内一番町、元商工経済会の仮庁舎へ移転した。しかしここは市内中心部にあったので、空襲の危険を考慮して昭和二〇年七月一〇日、市郊外城北(松山市清水町。現文京町)の松山経済専門学校(現松山商科大学)に移転した。これにより、同年七月二六日松山は大空襲にあったが、かろうじてその被害をまぬがれた。

表公1-6 郵便局数・郵便物数の推移

表公1-6 郵便局数・郵便物数の推移