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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

三 愛媛県郵便の創業

 郵便の始まり

 県内最初の郵便局は、松山郵政局(現四国郵政局)の局所原簿によれば、明治四年六月一日置局の郡中(現伊予局)であり、続いて同年七月二五日には宇和島の裡町(現宇和島市中央町)に開局したと記録されている。なお『四国電信電話事業史』(四国電気通信局編。昭和四八年発刊)の「郵政委託局一覧表」にもそのように記されているが、それを裏づける明確な古文書類は残っていない。
 さきにもふれたとおり(図公1-1参照)、明治四年八月当時の県内郵便線路は、香川県から県内に入り、西条・今治・松山と瀬戸内海沿岸ぞいに伸び、宇和島まで達していたことが分かる。しかしこの時点では、県内にはまだ正式に郵便役所も、郵便取扱人も設けられていなかったと考えるべきで、政府の許可を受けた民営の飛脚業者が郵便逓送の仕事に当たったことが、各種文献からうかがわれる。

 郵便創業

 明治五年七月一日郵便の全国実施が行われたが、当時の愛媛県の状況をみることにする。
 『愛媛県紀』によれば、
 「明治五年三月日未詳郵便規則頒布あり。石鉄県管内は、川の江・関の峠・土居・西条・今治・北条・松山の六駅、宇和島県管内は、郡中・中山・内の子 (現内子町)・大洲・八幡浜・卯の町(現宇和町)・吉田・宇和島の八駅に郵便取扱人並切手売捌人を置き、香川県管内を経て名東県(現徳島県)徳島に接続せしむ。その他宇和島より松丸(現松野町)を経て高知県に接続し、川の江より馬立(現新宮村)を経て高知県に接続し、八幡浜より渡海佐賀関を経 て豊後国(現大分県)に接続せり。同七月朔日より線路往復施行あり。」
とある(注 カッコ内は筆者)。
また明治五年七月布告の『神山県布達達書』(『愛媛県史資料編社会経済下』公益参照)には
  「御国内遍く信書不達の地無之ため此度一般均一之低価を以、郵便被為開当七月七日より執行相成候」
と松山以西の郵便開業を布告している。なおそれには、郵便取扱所並びに郵便切手売捌人(松山以西)として、次の一〇人の名をあげている。
 宇和島 岡本伝太郎、卯の町 清水長十郎、八幡浜 鍋屋勘七、松丸 岡田倉太郎、吉田 三好多惣治、大洲 土屋喜一郎、内之子 高畑九郎衛、中山 后藤孫七、郡中 福島屋助蔵、新谷 俵高小十郎
なお県外郵便線路を示すものとして、郵便差立日は毎月
  五・十の日 阿波国徳島往復  三の日 土佐国高知同断
  四の日   九州佐賀関同断
と記されている。
 これらの資料から、明治五年七月一日が愛媛県郵便創業の時と言うことができる。なおその郵便線路図は、図公1-2の実線で示したとおりである。
 このように明治四年三月のわが国新式郵便開業後わずか一年四か月で、県内郵便事業の体系が整えられた。同時に四国循環郵便線路の開設、さらに徳島・洲本(現兵庫県淡路島)・神戸経由で本土に接続したことは驚くべきことであり、その素地を作った藩政時代からの郵便実務が生かされたことがうかがえる。

 創業時の郵便料金

 明治五年七月布告の『神山県布達達書』の「郵便取扱所開設及賃銭表」(『愛媛県史資料編社会経済下』公益参照)によれば、距離によって料金が定められており、書状四匁以下の場合、二五里以内一銭、五〇里以内二銭、一〇〇里以内三銭、二〇〇里以内四銭、二〇〇里以外五銭であった。これは新式郵便のねらいが、全国統一価格、しかも低価格にあり、特に遠距離になるほど従来の飛脚賃金に比べて著しく安くなり、一般庶民の負担を軽減して利用しやすくなるよう考慮された。
 すなわち宇和島県(明治四・一一・一五~五・六・二二」の古文書により、当時の飛脚による書状賃銭と新式郵便料金を比較すると、宇和島・松山間の新式郵便料金はどこからでもすべて一銭(一〇〇文)であるのに対して、飛脚の場合は宇和島から吉田まで(約一〇㌔㍍)は六〇文と安いが、卯の町まで一四八文、八幡浜・大洲は二八四文、新谷三二四文、内の子三七二文、郡中五〇〇文、松山六〇〇文(六銭)と遠距離になるに従い甚だしく割高であった。また県外郵便の場合は、さらにその差が大きく、宇和島・大阪間は郵便の四銭に対して、飛脚では一貫四二八文(一四銭余)、東京までは五銭に対して五貫文(五〇銭)と大差があったので、新式郵便の施行は一般県民に大きな喜びをもって受け入れられた。

図公1-2 明治初期の郵便線路図

図公1-2 明治初期の郵便線路図