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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

第四節 過剰流動性発生の問題

 大型予算の編成と過剰流動性の問題

 昭和四七年(一九七二)は、前年来の国際的及び国内的経済変動がそのままに持ち越された形で新しい年が始まった。この年の主だった出来事を挙げてみると、昭和四七年度の大型予算の編成、企業側の過剰流動性の発生、そして国際商品市況の急騰、日本と中国の国交回復等であった。
 それらの結果、この年が翌年から翌々年にかけて、大きなインフレが発生するきっかけの年となったことは否定できないであろう。
 まずは昭和四七年度の予算は、前年度に比して一般会計では二一・八%の増加となった。ここ十数年来の所得倍増計画の実績と開放経済体制下の国際収支の大幅な黒字が、このことを可能とした訳であるがその背後には、世界の平和と米国の好景気が日本経済にとって、すこぶる好都合であったことは疑いを容れないところであった。例年の予算接衝であれば、予算を要求する各省とこれを査定する大蔵省の間では、「出せ」「出せない」のやりとりで紛糾を続ける予算編成の過程も、この年度分に関して言うならば、要求側も回答側もお互いにえびす顔であったろうと思われる。この年度ぐらい予算編成がすんなりとまとまったことは珍しい。むしろ要求側が大蔵省のあまりの気前好さに薄気味悪く思ったかも知れなかった。このことがやがて経済社会の過剰流動性につながり、物価が上昇してインフレへと通ずる大きな要因となったことは間違いのないところであり、当時一部の識者は先を見越してそのことを懸念していたかも知れなかった。
 国家予算が手本を示すならば、民間はたちどころにこれに習うのは世の常である。大型予算の実施によって企業の手元には流動性が見る見るうちに蓄積されて、ここに「過剰流動性」の問題が発生した。もっともこの年の前半においては、そうした情勢は未だ潜伏期間中であって、六月には公定歩合は前年に引き続いて、年率四・七五%から四・二五%へと引下げられた程であった。しかし一〇月以降になって卸売物価は、年率で一〇%を超える大幅上昇を示したことによって、たちまちにして要注意の状態となった。物価上昇の原因となった過剰流動性問題は、次のような事情から生まれたものであった。①需要超過が生じたこと②景気回復が公共投資や住宅建設等のために木材・鋼材・セメントの建設材料を中心として市況が逼迫するに至ったこと③不況時カルテル等の市況対策のため、一時の需要増に対して供給側の対応が遅れたこと④大幅な金融緩和が行われたこと⑤海外諸国のインフレが進行して国際商品価格の急騰の影響が現れ始めたこと等である。
 国際商品価格の急騰は次のような事情から発生した。社会主義国ソ連は古くは穀物の輸出国であったが、昭和三九年(一九六四)以降は、国内の農業不振のために食糧の輸入国に転じていた。輸入相手国の最大国は米国であったが、昭和四七年になるとソ連では、天候異変等の理由から農作物が大兇作となる事態が明瞭となった。前途の食料不足が目に見えていたので、ソ連は莫大な量の食料買い付けを米国から行うことを決定した。重要な任務を帯びた買付け団による大量の買い付けが、米国市場において突如として起こったこともあって、小麦をはじめとして国際商品価格は急騰を示した。そのことは国際商品全般にも及んで世界的物価上昇をもたらし、先進国の輸出製品価格にまで影響を及ぼした。このことが、一年後のOPEC諸国の原油価格の大幅引上げの導火線となったことは否定できないところであった。
 愛媛はそうした国際情勢とはまだまだ遠い存在であった。九月末には別子銅山の本山坑が、地表下二、〇〇〇mの所で山はね(地鳴り)現象を起こして終掘となり、南予では二年前に鹿島を中心とした宇和海が海中公園に指定されていたが、この年の一一月には、足摺宇和海国立公園に昇格の運びとなった。またこの年には「安定成長を確保するための企業金融のあり方に関する答申」と、「国債発行に伴う金融制度のあり方に関する答申」の二つが提出されていた。

 変動相場制への移行と原油価格の引上げ

 昭和四八年(一九七三)は、国の内外において波乱に満ちた一年間であった。日本経済は前年来のインフレ傾向を受け継いで新しい年を迎えたが、物価騰貴の事態はこれまでの拡大方針を変更して、物価の安定対策を当面の急務とすることを求めていた。日本銀行は預金準備率の引上げと公定歩合の引上げの双方を武器として、物価の上昇を何とかして食い止めようとして懸命に取り組んだ。一月から一二月にかけて、日本銀行苦闘の連続の跡は表金4―6によって見るとおりである。
 さてその一方では、二月に入って外国為替市場の動揺が表面化した。一昨年末のスミソニアン合意の多国間通貨調整をもって、いったんは国際通貨不安は解消したはずであったけれども、その後においても、なお米ドルについては不安が絶えずつきまとっており、再度のドル切下げを見越してのドル売りが市場において絶えなかった。二月中旬になって米ドルは金に対してさらに一〇%の平価切下げを行い、金一オンス=四二・二二ドルに改め、同時に日本円は変動相場制へ移行することとなった。翌三月の中旬に入ると、ほとんどの欧州通貨が米ドルに対して共同変動相場制を採用するに至り、世界の主要国において、変動相場制が一般的に採用されるに及んで、ようやくのことで国際通貨の動揺も一応の収拾に到達ずることができた。
 主要先進工業国の変動相場制移行と並んで、重要な出来事はこの年の一〇月の原油価格の引上げであった。一〇月上旬に発生した第四次中東戦争が引き金となって、同月中旬になると石油輸出国機構(OPEC)は原油公示価格を七〇%引上げた後に、これに加えて米国やオランダに対しては禁輸措置を実施した。原油価格の引上げはその後も引続いて行われ、翌年にかけては、従来アラビアン・ライト一バーレル=三ドル二セントであったものが、わずか数か月間に最終的には一二ドルへと実に四倍に引上げが強行された。この出来事によって世界の資本の流れには激しい変化が起こったのであり、石油に大きく依存していた日本経済にとってみれば、産業構造を支えるべきエネルギー政策の大転換を余儀なくされることとなり、二年前の八月のドル・ショックと並んで、この年がオイル・ショックの年と評されたことも当然のことであったと言わねばならない。
 原油価格の四倍引上げという状況は、ただでさえ強含みであった物価をいっせいに上昇させる結果となった。一二月上旬になると、卸売物価が前年同月に比して二七%の上昇を示したことが一般に知られるようになり、日本国民にとっては、事態が容易ではない状況にあることがはっきりした。そこで財政及び金融当局は一体となって総需要抑制策に踏み切ることを決めた。一二月下旬には、公定歩合が年率七%から一挙に二%引上げられて九%というこれまでにない高い水準に到達した。普通の情勢であるならば中央の状況は、しばらく間をおいて地方へ伝わってくるのであったが、この時ばかりは、金融引締めと石油危機のいわゆるダブル・パンチが地方にもいち早く伝波して、愛媛県の各地においても物価上昇と品不足の現象が生ずるに至り、一般の家庭生活に深刻な影響を及ぼしていた。人々は原油価格の大幅な引上げによって、資源はもはや無尽蔵に存在するものではなくて、有限のものであることを身をもって悟ることができた。金融界においては、それよりしばらく前の一〇月には神戸銀行と太陽銀行の合併が実現し、太陽神戸銀行として新しく発足した。ここに時代は大きな変わり目の時期へと入っていた。愛媛県においては、南予地域の開発の決め手として「南予レクリエーション都市」の建設構想が進んで、「南レク都市開発会社」の設立が実現しその具体化へと動き出していた。

 国際金融不安到来と新国際経済秩序

 昭和四九年(一九七四)は、原油価格の大幅引上げによって起こった混乱のなかで、前年の金融引締めを受け継いで、預金準備率の引上げをもって新しい年が始まった。一月下旬に入ると米ドル不安を反映して、東京外為市場においてドル売り一色となって買い手がつかず、為替相場が成立しかいために一時、外為市場を閉鎖しなければならない状態に追い込まれた。米ドル相場の動揺に関連して米国政府は、かねて批判の多かった利子平衡税(昭和三八年創設)を最終的に廃止(税率ゼロ)する措置をとった。その後、日本国内では三月の年度末物価指数が発表されたが、卸売物価においては、対前年度末比でプラス三五%、消費者物価指数においてはプラス二四%と著しい高騰ぶりを示した。同じく三月には四国の南西地域において予土線が開通したが、本来であれば地域開発の偉業として大々的に祝うべき出来事であったけれども、石油価格引上げに端を発した物価上昇と生活圧迫の真只中におかれていたために、その蔭で折角の新線開通もあまり目立たない存在となっていた。
 原油価格の大幅引上げと国際流動性の洪水は、国際金融及び国際資本の市場に大きな変動を引き起こさずにはおかなかった。国際金利の急上昇と為替相場思惑の失敗等のために、この年の一月から八月ごろにかけて世界各地において信用不安は最高潮に達していた。六月には西ドイツのヘルシュタット銀行が倒産して、国際金融界に大きな動揺を与えたが、それ以外にも各国の銀行のいくつかは、蹉跌が表面化して金融不安が世界中に広がった。また日本の多くの為替銀行が原油輸入代金支払いの急増に備えて、ユーロ市場で米ドル資金の手当てに奔走したために、同市場においては、一定のクレジット・ラインを超えるとして日本に対して、高い金利を適用する対日特別金利(ジャパン・レート)という取扱いが生まれたのはこの時期においてであった。当時の国際通貨不安の状態は一時的ではあったけれども、いわば戦後の金融の大混乱にも比すべき状態を現出していた。
 このような状態となって分かったことは、資源を保有する国々は、それぞれが自国の資源に関する発言力をとみに増大していたが、三月にはアラブ石油輸出国機構(OAPEC)の石油相会議が、米国及び和蘭に対する原油輸出の禁止を解除することを決定し、五月には国際連合の資源特別総会で「新国際経済秩序」(NIEO)の宣言が行われるようになり、原油産出国がこれらの開発途上国の先頭に立って、南北問題の重要性を指摘した意義は大きく、またそれは歴史に残る出来事であった。これによって先進工業国は、歴史の流れがひとつの転機を迎えたことに気が付いて、その後、国内的にエネルギー節約と代替エネルギー開発を進め、国際的には石油消費国会議の開催等をもって対応を検討し、資源有限時代にどのようにして生き残るか、その術を模索して苦闘する時期へと入った。この年の愛媛県において、せめてもの明るい出来事としては、七月に松山市での献血大会に皇太子ご夫妻が来県されて出席されたことであり、その後五日間にわたって西海海中公園一周や砥部焼鑑賞など、県下をご見学になったことであろう。また全国的な出来事としては、小野田元少尉が二九年ぶりにフィリピンのルバング島で発見され、一〇月には佐藤栄作前首相が、ノーベル平和賞の受賞者に決定したことも平和の尊さを知る出来事であった。

 特別公債の大量発行

 昭和五〇年(一九七五)は、前年の物価狂乱の動きに対する反動の一年間であった。前年の九月以降は国際通貨不安は次第に収まり、高騰した国際金利もようやく落着きを取り戻していたが、この年に入ると経済界には、生産水準の低下と不況の深刻化が目立ち始めた。それを示すかのように昭和五〇年二月の生産水準は、前年同月比でマイナス二一・四%に落ちて戦後最大の不況となった。日本銀行の公定歩合は四月の中旬には、年率九%から八・五%へと引下げられ、さらに六月上旬には、八・五%から八・〇%へと引下げられたが不況は深刻化する一方であり、八月には興人が負債額一、八〇〇億円をもって倒産する等の出来事があった。一般的に企業は大幅な減産を余儀なくされており、あるいは従業員の一時帰休を実施する等、オイル・ショック以前の労働逼迫事情は、ここに至ってようやく需給緩和の様相を見せた。富士紡績の三島・川之江両工場が閉鎖されて、従業員一、三五八人が新しい職場を探さなければならなくなったのは、この年の三月から七月にかけての出来事であった。
 不況の深刻化に対処するために政府は、不況対策を強力に推し進めなければならない立場に置かれた。その対策の内容としては、①公共事業の積極化②住宅建設の促進③公定歩合の引下げ等であった。公定歩合は八月下旬に年率八%から七・五%に引下げられ、一〇月中旬には、さらに七・五%から六・五%へ引下げられ、一一月中旬には預金準備率が引下げられた。また公共事業の積極化のためには、膨大な資金を必要とするのであるが、不況の折柄で税収の増加に期待することは到底不可能であった。政府は「無い袖は振れない」と言うことができない立場にあるので、背に腹は代えられない思いで、一〇年物長期国債を大量に発行することを決断した。いわゆる特別公債(赤字公債)の発行であった。政府のこのような情勢に呼吸を合わせるかのように、愛媛県においては西条沖に約三・五平方㎞の大型埋め立て工事を一〇月に着工し、一二月下旬には本四架橋の大三島橋の起工式が行われた。またこの年の七月から翌年の一月にかけて、沖繩においては海洋博覧会が開催されるに至った。
 国際情勢に目を転じてみると、昭和四〇年に米国が北ベトナムへ軍事介入を始めてから丁度一〇年を迎えて、ベトナム戦争はようやくひとつの転機に入っていた。米国内におけるベトナム戦争反対の与論も頂点に達しており、米国政府は政策の転換の必要に迫られていた。この年の四月末に米国は南ベトナムからの撤退を完了した。米国は共産主義の脅威を防ぐという目的でベトナムの内戦に介入し、そしてあまりにも大きな犠牲を払った上で、目的を達成しないままで撤退しなければならなかったことは、国際情勢が米国の思惑をこえて複雑であり、世界がもはや米国の一存で動くことはなくなったとの現れでもあった。七月には、かねて掘削中であった北海油田が噴油し、一一月には操業を開始した。英国及びノルウェーにとってみれば、OPECによる原油価格引上げを見越した上での開発事業であって、これが成功を収めた訳であるが、これが、その後の英国等の国際収支に大きな寄与をすることとなり、併せて、国際原油価格の取決めにおいてOPECの力を弱める結果となり、世界の石油事情に新しい一ページを開く出来事となった。

 資本自由化完了と資金の流れの変化

 昭和五一年(一九七六)は、前年からの不況対策を受け継いで新しい年に入ったが、それも二月一日の預金準備率の引下げをもってほぼ対策は出しつくされており、またその半面ではこれまでの対策の効果が次第に現れるようになった。四月の下旬になって政府は、狂乱物価の終息宣言を発表したが、五月早々には、昭和三五年以来の貿易と為替の自由化に引き続いて、資本取引きの自由化が農林水産業など四種目を除いて完了するに至り、開放経済体制を迎えた日本経済の大きな懸案は、この時に至って表面的には解決をみることとなった。
 さて国内の金融界においては、前年の一〇年物長期国債の大量発行に伴って、徐々にではあるが資金の流れは目に見えない変化が現れ始めた。従来は法人及び個人の手元余剰資金は、先ずは銀行等の金融機関へ預金として預け入れられ、他方では資金を必要とする企業は、ほとんどが金融機関等から資金を借り入れるという、いわば金融機関の果たす仲介的役割が確立していたのであったが、昭和四七年度の大型予算によって、この情勢が変化して企業の手元には、過剰とも思われる流動性資金が次第に蓄積されつつあった。従って大部分の企業は、金融機関借入れの依存度を減ずるに足るだけの余裕が生じていた。これと相対応して金融機関としては、貸出し対象を苦労して探さなければならない状態が現出していたし、また法人も、次いでは個人も資産の運用については、金融機関の預金一点ばりではないことに気が付き始めていた。証券会社や保険会社が新種の金融商品を考案しては、顧客や一般層の資金吸収に努めたこともあって、銀行等の金融機関の仲介業務は大きな影響を受け始めた。後になってこの傾向は、Dis-intermediation(非仲介化)と呼ばれるに至った。
 また一方では、不況の到来によって企業の倒産という現象が一般化するに至り、これに対して政府と金融界が対策を講じる度に国内の流動性資金は増大していた。そのことによって社会不安が収まったことは確かであったけれども、その半面では企業の選別は進行して、業績のよい企業は不況を乗り越えて大きく成長し、あるいは同業他社の苦境によって却って業績を伸ばし、資本を蓄積することができた。その意味では不況は明暗の分かれ道でもあった。不況を乗り越えた企業の手元にはいやが上にも流動性資金が蓄積され、これを求めて証券会社や保険会社がわが代の春を謳歌するかたわらでは、銀行等の金融機関が、渋い顔をして汗を流しながら預金獲得競争に走り回らなければならなかった。明らかに企業資産の外部依存度は低下し、自己資本比率は上昇し、企業の資産選択の余地は広まっており、銀行預金から市場性資産へのシフト(変化)が進行していた。やがて国債等の流通市場が発達するにつれて、法人及び個人の資産運用は益々多様化の様相をみせ始めるに至り、公開市場が盛況を示す時代の到来となり、さらにはそこにおいて、資金の供給と需要の関係で成立する自由金利は、現行の銀行間の協定金利の足下を掘りくずすに足るだけの力に成長していった。またこの年は単に国内の経済面ばかりではなくて、農作物の生産において、わが国が戦後最大の冷害を被った年でもあった。

表金4-6 日本銀行金融引締め対策

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