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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

第三節 金融機関再編成の進行

 金融二法の成立と金融再編成の進展

 昭和四三年(一九六八)は、明治新政府が成立してから満一〇〇年を迎えた記念すべき年であった。国内の経済情勢は前年来の好景気(いざなぎ景気)がこの年に持ち越されて、カー・クーラー・カラーテレビのいわゆる三C時代が始まったが、同時に社会面では、この年から翌昭和四四年にかけては、全国一一六の大学において大学紛争の嵐が吹き荒れた年ともなった。また海外においては、年初早々に米国ジョンソン大統領のドル防衛策が発表され、三月に入ると前年の英ポンド切下げ後に三波に及んだ金投機のために金市場は遂に閉鎖されるに至り、四月からは金の売買に関しては、各国政府間において金一オンス=三五ドルの公定相場の取引きと一般の民間取引きにおいては、自由市場における価格の二重価格制度が実施された。それと並行して国際通貨基金に特別引出し権勘定(SDR)が新設されることが、先進一〇か国の蔵相及び中央銀行総裁の間で合意を得ていた。このような事情からしてこの年は国際通貨面では多忙な一年であった。
 日本銀行は一月上旬、公定歩合を日歩一銭六厘から一銭七厘へと再度引上げを行って、景気の行き過ぎに対して警戒の意志を表明したが、その半面では日本経済は、米国の軍需景気を投影して国際収支は急速に改善され、全体的に拡大傾向を強めていたが、この年になって戦後初めて、経済成長と国際収支の黒字の二つが同時に成立するという、わが国にとっては誠に幸運な状態を迎えることができた。このような経済情勢を受けて八月上旬には、公定歩合が一銭七厘から一銭六厘へと引下げられている。
 また六月には「金融機関の合併および転換に関する法律」と「中小企業金融制度の整備改善のための相互銀行法、信用金庫法などの一部を改正する法律」のいわゆる金融二法が成立して即日施行となり、これによって金融の効率化と金融の再編成が進むことになった。七月に入るとこの法律に準拠して「日本相互銀行」は普通銀行に転換することを成し遂げており、一二月には行名を「太陽銀行」と改めて新しく発足した。既にこのころになると金融界において事務の電算化が急速に進んでいたが、伊豫銀行においては電子計算機(IBM三六〇モデル二○)を導入して、事務集中体制の基礎づくりが出来上がって、オンラインシステムヘとまっしぐらに進んでいた。
 明治一〇〇年の記念すべき年は、国際的にみてもハワイ日本人移民一〇〇年の年に当たっており、これを祝う式典が常陸宮ご夫妻をハワイにお迎えして華々しく開催された。ハワイの日系人口は二〇万人を超えていて、全人口の三分の一を超えている。このことは日本とハワイのつながりの密接さを示すものであると同時に、同島が日本と米国の太平洋にかけられた橋の中間点として、果たしてきた重要な役割を示すものでも
あった。

 愛媛信用金庫発足

 昭和四四年(一九六九)は、国内において大学紛争はなおも吹き荒れていた。しかし、それも一月中旬の東大安田講堂の封鎖解除をもってようやく峠を越えるに至り、この年の終わりごろ、地方大学である愛媛大学と松山商科大学で、極めて短期間の大学封鎖があった程度で終わりを告げ、学園には再び平和と秩序が戻り始めていた。
 一方では経済面において、日本経済は開放体制と自由化路線をひた走りに走り続けており、遂に自由世界ではGNP第二位の座にまで到達した。また国内の開発面では四月末、国土総合開発審議会が「新全国総合開発計画」を答申し、五月には閣議でこれを決定した。その内容としては、①長期にわたり人間と自然の調和をはかり、自然を恒久的に保護・保存すること ②全国土にわたり、均衡ある開発をすすめること ③それぞれの地域の特性に応じて、国土利用を再編成し、効率化をはかること ④都市農村を通じて、安全・快適で文化的な環境条件を整備保存することであった。これに基づいて中四国ブロックにおいては、中核都市として広島市が定められた。そのことは同時に四国の松山市が再び中国地方の広島市とのつながりを再認識する端緒ともなった。
 愛媛の金融界においては、一〇月一日に松山信用金庫と今治信用金庫の両信用金庫が合併して、新しく出資金一億九、四〇〇万円の愛媛信用金庫として発足した。昭和二六年には伊豫銀行と愛媛相互銀行がそれぞれ新発足していたが、その後一八年を経過して、愛媛県にとっては大型の金融機関合併が実現した。同じ月に伊豫銀行は株式を一部上場し(大阪証券取引所)、二年後には東京証券取引所への株式上場を成就した。
また新しく会長制を設けて、会長・頭取・専務を柱とした新しい経営体制を確立した。

 公定歩合年利建ての採用

 この年の九月初めには、公定歩合は従来の日歩建て方式が改められて、年利建て方式が採用されるに至り、これによって各国公定歩合の国際比較が容易となった。それと同時に日本の公定歩合は、日歩一銭六厘(年利五・八四%)から年利六・二五%(日歩に換算すれば一銭七厘一毛となる)に引上げられた。一二月には全国銀行協会も年利建て方式へと移行し、わが国の金融界は国際金融界の一員としての認識を新たにし、その後の国際情勢に対処していくこととなった。また国際金融界では八月中旬に仏フランの切下げがあり、一〇月にはこれに対応して西独マルクの切上げが行われる等、主要西欧国通貨の調整が進行していた。この年の七月二〇日には、米アポロ一一号航空士が月面着陸に成功して、人類の宇宙技術の開発はひとつの頂点に達した。

 伊予三島・川之江の製紙工場と排水

 昭和四五年(一九七〇)は、国内経済面では比較的に平穏な年に推移した。三月には関西において、日本万国博が開催され全国的にお祭り気分が一杯であったし、また前年に閣議決定した「新全国総合開発計画」(新全総)が一般に向けて発表されて、早くも利に目ざとい向きは将来の計画の実現を見込んで、各地で土地を買いあさっていて地価の高騰を招いていた。しかしながらそうした繁栄は当然のことであるが蔭の半面を伴っていた。自然環境の破壊が一方で進むようになり、これに対しては住民の側から、自然環境を守ろうとの運動が盛り上がるようになった。とかく日本国民は、それまでは社会に向けて自らが主張し、団結して行動することに消極的であって、むしろ上意下達に慣れ親しんだ国民性であったが、戦後の教育の混乱を経験しているうちに、目を外に向けて発言し、行動するに足るだけの心の素地を整えつつあった。各地で環境問題が話題となり、集会が開かれ、討論が行われ、一致して国に対し、あるいは地方行政当局に対して対策を求めるために住民として立ち上がるようになった。
 人間と自然と産業の調和と発展は人間存在の原点であるが、この出発点が所得倍増と設備投資のスローガンの行き過ぎのために冒されようとしていた。光化学スモッグが話題となり、田子浦浚渫作業では硫化水素ガス中毒が起こって、ヘドロの問題が大きな関心を呼び起こしたのはこの年の出来事であった。一〇月下旬には北海道において初めての自然保護条例が公布施行されたのは、こうした背景からであった。次第に住民の意識は向上し、発言権は大きくなり、行政当局までも動かす程に成長した。行政当局も住民の意向に逆っては、何一つとして行政がうまく機能しないことを悟るに至った。また、それらは時としては住民パワーと批判されるに至ったけれども、本来は行政機関が心がけるべき事柄を、住民が指摘して初めて分かったことも、いくつかあったであろうと言うことはできよう。企業優先政策の蔭の半面を鋭く指摘し、その是正を求めたのは一般の名も知られない住民であった。ものを言わなければ、何もして貰えないことを住民は日常生活のなかから学び取っていた。その意味では企業の経営は、利潤追及一点ばりではもはや世間に通用しない時代に入っており、企業もまた社会存在の一員に過ぎないとの観点からして、企業は社会全体の利益に奉仕する限りにおいて、その存在が認められることがようやく分かってきた年であった。
 愛媛の産業界も、このような全国的風潮から例外的な存在ではあり得なかった。伊予三島・川之江の製紙工場の排水ヘドロが問題として採り上げられたのもこの年である。それは八月から一〇月にかけての出来事であったが、両地域の海域のヘドロが一気に毒を吹いて、魚介類が全滅したために、漁民が県紙パルプ工業会東部排水委員会に対して、補償を要求するということが起こった。人々はこうした出来事にあって、自然界と近代工業との両立の重要性を改めて思い知らされることとなった。ある意味では経済成長にひたすらに進む人間の姿を、自然はそのまま忠実に反映していたのかも知れない。自然は耐え、訴え、人間に反省を求めていた。環境行政がその後の国及び地方の政策に、しかるべき比重を持つようになるのはこの時以来のことであった。その意味では平和と繁栄を続けたこの年は、同時に環境と自然を守る年の始まりでもあった。公定歩合は一〇月下旬には、年率六・二五%から六・〇〇%へと下がった。愛媛県では長期計画が作成されたのがこの年であった。アジア開発銀行の円建て外債が日本において発行され、国内資本市場の国際化へ向けての第一歩が踏み出されていた。

 預金保険法成立と円変動相場制移行

 昭和四六年(一九七一)は平穏だった前年と比較すると、一転して国際通貨の世界で大揺れに揺れた年となった。米国においては、度重なる国際収支改善のための対策が強力に推し進められたけれども、一向に効果を現すに至らず、かえって日本側の貿易黒字がますます目立つものとなった。新しい年はそうした情勢で始まったが、わが国では、まず国内の金融政策面でいくつかの措置が実行に移された。すなわち三月には、預金保険法が成立して四月一日から公布施行となった。この法律に基づいて政府と日本銀行と民間金融機関の三者が、各々一億五、〇〇〇万円ずつを出資して、資本金四億五、〇〇〇万円をもって新しい預金保険公社が設立された。
 また一方では五月に、準備預金制度に関する法律の一部改正法が公布施行されたが、その目的は金融政策の有効性を確保するとともに、海外の短資の流入が、国内金融市場に与える攪乱的影響を阻止して、国民経済の健全な発展をはかることにあった。このようにして、わが国は国内面の整備を行いながらも、なお日本と米国との間では、国際収支の不均衡がもはや我慢のできない程に進行していて、やがて国際通貨の大変動を起こす方向へと進んでいた。
 当時わが国が、対外的に無為無策でいた訳では決してなかった。六月には円切上げを回避するための緊急対策八項目を決定していた。その主な内容は国際決済銀行、世界銀行への出資、米国輸出入銀行の債券の購入、輸入自由化の一層の促進であった。また対内面では年初来三回にわたって、公定歩合を引下げて国内需要の喚起と輸入の拡大を心がけた。すなわち一月には年率六・〇〇%から五・七五%に引下げ、五月にはさらに五・五%へ、次いで七月には五・二五%へと引下げた。その結果として、一年前の水準と比較すると年率六・二五%から一%引き下げられたこととなった。
 日米両国によるこのような努力にもかかわらず、事態はいっこうに好転の兆しさえ見せなかった。八月一五日に米国政府は米国ドルの金交換制の停止と、一〇%の輸入課徴金賦課を含む一連の緊急対策を発表した。わが国はそれまでは一米ドル=三六〇円を金科玉条としており、対外的な難局は外国為替管理法の遵守をもって乗り切ることができると考えていた。しかし、その時措られた米国側の措置は、わが国民にとってみればまさに青天の霹靂の思いであって、日本経済はこれまで立っていた岩盤が突如として崩れ去っていく感じであったとしか言い様がない。米ドルの金交換制停止の報は直ちに電波に乗り、一瞬にして地球を一周した。他の先進諸国は緊急事態に直面して、時を移さず為替市場を閉鎖して時間をかせぎ、市場再開の後は変動相場制へ移行して、市場実勢のなかで適正な自国通貨の為替相場を見出そうとしたのに対して、ひとり日本だけが従来の固定相場を固守したが、そうした努力は、世界の投機資金が押し寄せた大荒波の前に、到底抗することはできなかった。ドルの金交換制停止後二週間を待たないで、わが国は変動相場制への移行を決定し、八月二八日から、すなわち日本円は一ドル=三六〇円の単一為替相場が設定されてから二二年ぶりに固定為替相場制を離れて、変動為替相場制の荒天の海の真只中へと船出して行くのであった。
 それから数か月間は、先進主要国の蔵相・中央銀行総裁の間で度重なる会合が持たれたが、それらの話し合いも一二月の中旬には、ひとつの結論に向かおうとしていた。それは米国で開催された主要一〇か国蔵相会議において、開催場所であるスミソニアン博物館の名称をとったスミソニアン合意として知られるものであったが、多国間の通貨調整にようやくのことで決着をつけることができたものであり、米国は金価格を一オンス=三五ドルから三八ドルへ切上げる、すなわち米ドルを金に対して七・六六%切下げることを含んで、日本円は新しく一ドル=三〇八円の中心相場を採用するものであって、日本円は米ドルに対して結局のところ一六・八八%切上げられたものとなった。主要国の通貨調整のなかでは日本円の切上げ率が最高であったが、そのことは日米両国の国際収支の不均衡が最大であったことを反映したものでもあった。また同合意における多国間の通貨調整と同時に、IMF協定を改正して、従来は為替相場の変動幅が為替平価の上下一%ずつであったのを改め、新しく上下二・二五%へと拡大して、今後、為替相場の変動による国際収支の自動調節作用が働く余地を大きくして、国際収支の均衡を期待することとなった。このようにして世界は、国際通貨の大変動を終わってクリスマスを迎えることができたが、日本の国内では一〇月に第一銀行と日本勧業銀行が合併して、戦後初めてと言える大型銀行の合併が実現した。
 日本勧業銀行松山支店は、一〇月一日をもって第一勧業銀行松山支店として新しいスタートを切った。この年の六月以降は、米国のドル防衛策の発表等があったために、これまで愛媛県の輸出縫製業は対米輸出に八三%を依存していたし、またタオル製造業は対米輸出に一〇%を依存していたが、いずれも円高により、輸出に関しては苦難の道を歩まなければならないこととなった。また輸入の分野では、グレープ・フルーツの輸入の自由化も加わって、愛媛の農家経済に打撃を与えることとなった。一二月も終わりに近く、公定歩合は年率五・二五%から四・七五%へと大きく引下げられており、国の内外において新しい局面にいち早く適応しようとする動きが始まろうとするなかで、この年も終わり次の年を迎えることとなった。