データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

四 資本金融通準則の廃止

 金融機関資金融通準則の廃止

昭和三八年(一九六三)に入ると、一月から二月にかけて動き始めた日本とソ連の貿易に対して、米国の意向が強く反映された出来事が起こった。一月上旬に日本は米国に対して、ソ連向けの油送管の輸出禁止に協力する旨回答したが、このことはソ連の軍事力の増大を懸念する米国側の意向を日本が受け入れた措置であった。その後になり二月上旬には、日本はソ連との間で貿易協定に調印したが、軍事以外の政治及び経済の面においては、日ソ両国が極東においてお互いに隣国であるとの地理的関係から言って、経済交流は自然の流れであり、その流れに乗って進むことが両国の発展と世界の平和につながる道であることを考えた上でのことであった。
 次いで五月には、二年前から金融制度調査会において審議を続けていたオーバー・ローンの是正に関する答申が提出され、七月下旬には昭和二二年(一九四七)以来、金融機関の融資を規制していた金融機関資金融通準則が一六年ぶりに廃止された。時代は自由化と開放経済体制の方向へ進んでおり、金融機関はこれからは資金の運用に関して政府の規制にとらわれることなく、融資の安全性・有利性・公共性に立脚して、独自の自主的判断で融資を実行することができる道が大きく開かれた。戦後一九年目になってようやく融資規制が撤廃されたが、このことは同時に金融機関が従来にも増して、自己責任原則上での競争原理を求められることになった。
 この年の八月一五日には、日本政府の主催による第一回の戦没者追悼式が、天皇・皇后ご臨席の下で日本武道館において執り行われた。戦後の飢餓・窮乏・混乱から立直ってその後の経済復興が軌道に乗り、そして貿易自由化へと歩を進めた日本の社会が、ようやくにして今次大戦の戦没者に対して、慰霊の想いを捧げることができる心の余裕を取り戻した時期であったと言うことができる。一一月には聖徳太子像の千円札の偽造事件の対策として、新しい千円札(伊藤博文の肖像)が発行されて社会に登場した。
 国際金融界では二月にIMFの理事会が日本に対して、これまでの一四条国(準加盟国)の地位から、八条国(協定義務を履行する正式加盟国)へ移行の勧告を採択していた。一方、米国は一九六〇年代に入って国際収支の赤字対策に追われるようになったが、この年の七月中旬、ケネディ大統領が金利平衡税の新設などを含む国際収支特別教書を議会に提出した。同大統領は、その四か月後の一一月下旬、テキサス州ダラス市中を選挙遊説中のパレード途中に兇弾に倒れたのであった。ケネディが年若く志半ばにして倒れた後は、副大統領のジョンソンが大統領の任についた。愛媛の金融界ではこの年の六月の上旬に、伊豫銀行の副頭取仲田包寛が将来を嘱望されながら病のために東京において没した。五九歳の若さであった。

 IMF八条国移行金融引締めと倒産

 昭和三九年(一九六四)は、わが国にとっては色々な分野で大変忙しい年であった。それは第三次の池田内閣のもとで国民所得倍増計画が、一〇年の予定の半分に満たないこの時期に早くも実現しかけていたし、輸入自由化率は既に九三%に達し、他方では技術の粋を集めて完成した東海道新幹線が営業を開始した年であったからである。また国際的には、四月一日を期して日本はIMF八条国に移行し、一〇月にはオリンピック東京大会が開会される等記念すべき年であった。経済白書はこの年を「開放体制下の日本経済」と評したが、その半面では企業の倒産がこの年に戦後最高に達する等、明暗さまざまな内容をあおせ持っていた。愛媛県においてもこの年の下半期には、在庫の過剰による企業の資金繰りの悪化がみられるに至った。前年の金融機関資金融通準則の廃止によって、金融機関は自主的に融資の積極化に向かうことが可能となったが、その後、半年間を経過するころになって、そうした動きに行き過ぎが見られるようになり、この年の一月上旬、日本銀行は取引先の市中銀行に対して、企業に対する貸出しを抑制するよう要請を行った。しかしながらそうした要請は必ずしも十分に履行されなかったので、三月中旬になって日本銀行は緊急の措置として、公定歩合を日歩一銭六厘(年率五・八四%)から日歩一銭八厘(年率六・五七%)へと一挙に引き上げて、景気の行き過ぎに対する強い警告の意志を表明した。
 このように国内においては、金融引締めを進めるのと並行して、対外的には日本は国際通貨基金の場で二四番目のIMF八条国への移行を終わって、日本円が国際通貨の一つとして世界から認められる地位を獲得した。それに続いてわが国は四月下旬に、経済協力開発機構(OECD)に加盟を認められており、これまでに西欧先進諸国のみをもって構成していた先進国クラブに、アジアから初めて西欧以外の国が参加することとなった。このことは日本が自国とアジアの名誉を受けると同時に、これからの国際社会において果たすべき責任について、その将来が期待されることとなった。
 この年の九月上旬には、東京において第一九回IMF総会が開催された。開催国である日本の喜びは言うまでもないところであったが、第二次大戦終了後一九年間の歳月を経過した国際情勢の変化のなかで、米国がベトナムの内戦に深く足を没していた同国とベトナムの国際関係は、トンキン湾事件などの発生によって極めて険悪なものとなっていた。そうした国際情勢は、国際金融の世界にも影響を及ぼし始めていた時期であったから、この時期における国際通貨としての日本円の船出は、喜びであると同時に将来の多難な航海を予測するものでもあった。
 一〇月早々には東海道新幹線が営業運転を開始し、東京・大阪間を従来の所要時間である六時間三〇分から、新しく三時間一〇分へと半分以下に短縮する壮挙を成し遂げた。それに続いて一〇月一〇日から二四日にかけて、オリンピック東京大会が二週間にわたって開会され、同大会における輝かしい数々の記録の樹立もあって、日本国内は湧きに湧いていた。そうした歓声をよそにして、池田首相は病気による辞意を表明し、政権は一一月から同友の佐藤栄作に移った。また金融引締めのあおりを受けて、企業の倒産は年間で戦後の最高である四、二一二件に達していたし、対外的には政府の二、〇〇〇万ドルの対韓援助が決まり、年末には第七次の日韓会談が開会される等、課題を将来にかかえたままにこの年を終わることになった。佐藤栄作が後任の首相に決まる直前には、米国の大統領選挙において、これまで政権を担当した民主党のジョンソンが当選していた。日米両国において夫々の指導者のもとで、いくつかの懸案は新しい年に持ち越されることとなった。