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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

三 戦後の日本経済と物価の騰貴

 終戦時の日本経済の混乱

 昭和二〇年(一九四五)九月二日、日本国の降伏文書の調印式が東京湾内の米国戦艦ミズリー号上で行われた。そのことはただに太平洋戦争が終結したことを告げるものであったばかりではなくて、昭和六年(一九三一)九月に関東軍が軍事行動を開始した、いわゆる満州事変以来の一五年に及ぶ戦争の終了を意味した大きな出来事であったと言うことができる。四年前に任地のフィリピンを日本軍に追われたマッカーサー元帥は、このたびは勝利者として、また連合軍最高司令官として日本の国土にその歩を印していた。この時から七年の間、すなわち昭和二七年(一九五二)四月に、サソフランシスコ講和条約が発効するまでの期間は、日本国は連合国の占領下に置かれており、その状態において戦後の混乱収拾と復興を計らなければならなかった。一五年に近い戦争の代償はその後も長く且つ深く、わが国に厳しい傷痕を残すことになった。
 昭和二〇年一〇月には、連合軍最高司令部(GHQ)長官マッカーサーは占領下行政の手始めとして、①婦人の地位の向上 ②労働組合の助成 ③学校教育の民主化 ④民衆生活を恐怖に陥れるごとき制度(治安維持法など)の廃止 ⑤日本経済機構の民主化(財閥の解体・農地改革など)の五項目の大改革を、当時の幣原喜重郎首相に対して申し入れを行った。この申し入れを受けて日本の戦後は動き始めた。一一月から一二月にかけて日本の過去の支えであった兵役法が廃止され、農地改革が実施され、労働組合法が公布されることとなった。またこの時期は、戦後の国際通貨体制をめぐって、連合国間で戦争中から三年をかけて検討し準備中であった、ブレトン・ウッズ国際通貨金融協定が連合国間で調印され発効していたので、この協定が戦後の国際金融を担う屋台骨となった記念すべき年であった。
 太平洋戦争、さらにさかのぼれば満州事変以来の日本経済は、戦時下の経済であるという事情によって、軍事費の支出は膨大なものがあり、その止まるところを知らない情勢にあった。そのことが日本経済に対して軍需景気をもたらし、また当時の日本経済を支える原動力であったと同時に、半面では日本銀行券の発行と増発によるインフレの懸念を絶えず内蔵したものであった。しかしながら、戦争が進行中であった諸情勢の下では、政治・経済・教育等すべての社会活動が軍事目的に集中されており、国民の忍耐と厳しい統制の下において、自由経済下におけるようなインフレ発生の力は抑え込まれ、封じ込まれたままになっていた。
しかしながらこれらの内部矛盾は戦争の終結と同時に、いっせいに爆発的な力となって表面化し、直接に国民生活の脅威となって現れた。これまでに経験したことのないような激しい物価上昇のさなかに置かれて、人々は、それまで営々として額に汗して老後のためにと蓄えた預貯金が、たちまちにして見る影もなくやせ衰えていく現実をいやという程味わわされたのであった。これを卸売物価指数について見るならば、昭和八年(一九三三)=一〇〇であったものが、終戦時の昭和二〇年八月には三二〇・六となり、翌昭和二一年二月には七三四・六に暴騰していた。また消費者物価指数について言えば、大正三年(一九一四)=一〇〇とした場合、昭和二〇年八月には四七五・一であったものが、わずか六か月後の昭和二一年二月には、一、二七六・九に達していた。通貨価値は戦後の半年間に約三分の一に下落してしまった。卸売物価といい、消費者物価といい、これらはいずれも公式に記録されたものであったから、統制は必ず闇を招く土壌となるのは古今の鉄則であって、表面に現れない闇物資・闇価格は至る所で横行し、闊歩していたのであり、いわば自由市場の自由価格よりは、むしろ闇物価の方が実際的であったかと思われる情勢であった。日本銀行の調査によれば、消費財の闇物価指数が昭和二〇年九月=一〇〇とした場合、五か月後の昭和二一年二月には二〇〇となり倍増していた。当時の闇物価水準は公定価格の約一四〇倍を示していたと言われる。サラリーマン・年金生活者・母子家庭の親子等のいわゆる固定収入によって生活を維持しなければならない社会層が、一体どのようにして、この時代を乗り切ってきたかは、当時を経験した者でなければ理解できないことであって、戦後の平和で豊かな今日の時代においては、それはまさに別世界の出来事であったと言うことができるのである。