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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

二 日本銀行松山支店の開業と一県一行主義の推進

 日本銀行松山支店開業

 日本銀行の支店を愛媛の松山に誘致したいとの要望は、既に大正一三年(一九二四)三月、八回目の要望書が地元から提出されていた経緯からみても明らかであるように、歴史的に古いものがあった。しかし当時の四国は、中央から見れば海を渡って行く僻遠の地であって、日本銀行は未だそのいずれの地にも足跡を印していなかった。日本銀行にとってみれば、必要とする愛媛県金融界との接触は、同行の廣島支店を通じて行うことで十分であるという考えであったろうし、またお膝元の東京では、関東大震災後の復興に大忙しの状態であったから、あえて四国の松山に支店を設けるだけの積極的な意義を見つけることが難しかったという事情があったように思われる。
 しかし、そうした必要性を満たすに足る条件が、昭和二年(一九二七)の昭和金融恐慌の年ににわかに高まってきた。前年の大正一五年七月には、今治では帝国実業銀行の今治支店が取付けに遭って支払いを停止したことがあったが、昭和二年の一月に入ると、一四日に今治商業銀行の新居浜支店と角野支店が休業し、続いて菊間支店・三津浜支店・古町支店も同日に休業を行った。さらに一〇日遅れて今治商業銀行は、本店と支店が一斉に休業を行う危機的状態に陥った。当時は日本の各地に休業銀行が続出して、日本銀行はその救済に忙殺されていた時期であったが、ようやく四国の一角にも救済を必要とする事態が発生した。日本銀行と今治商業銀行との間の話し合いは進んで、今治商業銀行は日本銀行から四〇〇万円の特別融資を受けることによって、同年の八月一八日に業務を再開することができるようになった。その救済資金が日本銀行の広島支店から、はるばる瀬戸内海を渡って今治商業銀行へ現送されたことは、かねて地元が要望していた日本銀行支店の誘致に対して大きな引き金となった。その後、度重なる話し合いが行われた結果、昭和七年(一九三二)一一月、四国で最も早く日本銀行の支店が松山に開業することとなった。愛媛県の金融界にとってみれば、多年待ち望んでいたことが実現されるに至ったことを意味しており、それまでは必要の都度海を渡って日本銀行と打合わせをする必要があったが、その後は同行の松山支店の窓口を通して、中央の金融界と接触をはかることが可能となった。日本銀行松山支店の開業といい、その後の四国郵政局の設置といい、愛媛の松山は次第に中央との距離を接近させるようになった。遥かなる東京が時間的な距離を近いものとするように動き始めた。
 このようにして、日本銀行が松山に支店を開設した年の愛媛県の金融界の情勢は、同年三月、既に宇和卯之町銀行が穂積銀行と伊豫野村銀行を吸収合併していたし、また一方では昭和五年に減資を発表した内子銀行がこの年の三月末に休業を行ったが、その後、昭和八年に業務を再開して、やがて同一二年に豫州銀行に買収されるに至っている。また今出銀行は昭和五年に休業していたが、昭和七年九月に銀行業務を再開したところ、同年の一二月に大蔵省より営業停止の処分を受けて、翌昭和八年四月遂に破産宣告をせざるを得なくなった。この年の三月には、前年の日本銀行松山支店の開業に続いて、松山手形交換所が開所され愛媛の金融界は、一段と近代的な整備を進めることができた。第二十九銀行が宇和島銀行を合併したのもこの年の三月の出来事であった。政府の銀行合同の方針は、地方において一段と進展するものとなり、堅実な地方銀行の確立を目ざして、時代は大きく一歩を踏み出した時期に当たっていた。

 南予における殊州銀行の発足

 昭和九年(一九三四)から同一一年にかけては、日本の首都東京ではファシズムが吹き荒れていた。軍国主義的思想が国政の分野にまで浸透して、わが国の進むべき方向を選択の余地のない方向へと導きつつあった。昭和一一年二月二六日に、皇道派青年将校がクーデターを実行し、下士官兵一、四〇〇名を率いて斎藤内大臣・高橋蔵相らを殺害したいわゆる二・二六事件は、日本の朝野と世界を震駭させた事件であったが、世界はその後の日本の進路に対して、重大な懸念を抱かざるを得ない情勢となった。そうした時期に、愛媛の金融界は、かねて国の方針である銀行合同へ向けて再編成が進行しつつあった。昭和九年の八月になると南予地方において、第二十九銀行・大洲銀行・八幡浜商業銀行の三銀行が合同して新しく豫州銀行として発足した。これは旧三銀行がそれぞれの払込済資本金の五〇%減資を行って、不良資産を切り捨てた上で行われたものであって、新銀行の頭取には旧第二十九銀行頭取の佐々木長治が就任し、資本金は二三一万六、〇〇〇円で出発した。この年は全国的にみれば東北地方の大凶作があり、また美濃部博士の天皇機関説が弾圧されるという世相の半面では、昭和一〇年に日本の綿布輸出高がこれまでの最高である二七億平方ヤードに達し、次いで昭和一一年にはベルリン・オリムピックで前畑秀子が平泳二〇〇mにおいて優勝を果たすなど、明暗こもごもの時期であったが、愛媛の金融界は豫州銀行の成立以外には、格別に表立った動きは見られることかく推移していた。

 全国地方銀行協会の設立

 二・二六事件勃発の昭和一一年(一九三六)は、わが国の金融界では次のような二つの出来事があった。その一は五月に商工組合中央金庫法が制定されたことであり、その二は同年の九月に全国地方銀行協会が設立されたことであった。政府系の金融機関としては、一三年前の大正一二年(一九二三)四月、産業組合中央金庫法が公布されて営業中であったが、同金庫は資本金三、〇〇〇万円で、その半額は政府が出資し、残り半額は所属する団体が出資したものであり、中産階級以下の人々に対する金融機関として相互組織の組合に基礎を置くものであった。産業組合中央金庫は、その後昭和一八年(一九四三)三月、農業団体法が成立し農林中央金庫法が成立するに及んで、現在の農林中央金庫の形体をとって今日に至っている。これに対して商工組合中央金庫法に基づく商工組合中央金庫は、資本金一、〇〇〇方円で政府と民間が各々半額ずつ出資するものであって、商工業者を対象とする政府系の金融機関として活動を続けて今日に至っている。
 さて同年の五月には、馬場蔵相がいわゆる一県一銀行主義を提唱していたが、その後の愛媛の金融界の推移をみると、この政府の方針に極めて忠実に従っていることが明らかとなる。また当時の地方銀行全体の空気として、時代の変革に伴って新しい時代感覚を持った経営へと、脱皮しようとする気運にあったことも否定できない。その現れの一つが全国地方銀行協会の設立であったと言うことができる。同じように地方に基盤を置く銀行として、大都市所在の都市銀行とは自ら異なった性格を持ち、地域の課題と取り組んで地域の発展に寄与することによって、新しい時代を切り開こうとするものであった。具体的にはその目的の一つが、従来の不動産を担保とした固定貸しの傾向を近代的銀行経営の資金流動化へ誘導することにあった。当時、地方銀行はかなりの固定貸しをかかえており、かねてより資産の流動化に心掛けること、特に預金銀行として貸出しが固定化しないように資産の一部は確実な有価証券に投資して、資金化を容易ならしめる方法を絶えず講じておくことが強く求められていたという背景もあった。このような考え方を土台として、地方銀行が地方経済金融の主たる担い手として、いわゆる預金銀行に徹した短期商業銀行として、近代的経営へ向かって前進を始めた時期の重要な記念碑の設立が、地方銀行協会の成立であったと言うことができるであろう。

 昭和金融恐慌後の地方銀行経営変化

 また地方銀行が短期商業銀行としての色彩を明らかにしていくのと併行して、昭和金融恐慌をきっかけとして、地方銀行の政治的色彩が稀薄になっていく傾向がみられるようになった点を、その特色としてあげることができる。元来、地方銀行は、おおむね地方の名望家・資産家が頭取にたり、あるいは幹部になって発展したものが多いが、これら地方の名望家や資産家は、地元では政治的にも有力な地位を占めていて、例えば県会議員であるとか、政党の県支部長、あるいは国会議員であったりして、何らかの形で中央や地方の政治に関係していた。そのために、ややもすれば銀行の経営が政治的に利用されることが多くなり、またその過程で不良資産が発生する等の傾向を持っていた。そこでこれらの人々が昭和金融恐慌に遭遇して、自らが頭取を務めている銀行が取付けに遭ったり、休業したり、あるいは場合によっては他銀行の不始末の後始末をしなければならない羽目になる等の事件が起きて、次第に銀行経営に対しては消極的になっていたという事情がある。さらにはこれに加えて大蔵省では休業銀行の整理に当たっては、①未払込みの資本金があればこれを徴収する。②預金の一定額を切り捨てるか、あるいは延べ払いとする。③減資とともに役員の私財提供を絶対の条件とするとの指導方針を示していた。
 大蔵省の方針は、預金を切り捨てたり、または棚上げして、預金者に迷惑をかけるくらいなら、経営に責任を持つ重役としては、私財を提供して責に任ずべきであるとの考えで一貫していた。地方銀行の重役の任にある者は銀行の貸出しや経営に当たって、とかく地域とのつながりや情実があるためにやむを得なかった事情があったとしても、その結果としての銀行経営の失敗は結局は自らの責任となって、私財の提供を余儀なくされたのであった。もとよりこのことは法律上の義務ではなかったけれども、当時はそれが慣習上の責務のような重味を持っており、銀行経営者の道義的責任とされたのであった。責任を果たすためには、先祖伝来の田地・田畑・山林を売り払う始末となり、関係者が受けた打撃は大変なものであった。このようにして、銀行経営にはうかうかと手など出すべきではない、もしそれがうまくいかなければ全財産を投げ出すことになり、さらには妻子を路頭に迷わすことになりかねないとの意識が定着して、地方の名望家や素封家は銀行経営に関係することを極度に恐れるようになった。まさに、このことが地方銀行が次第に政治色や政党色を薄めていく大きな原因となったのであり、同時にこれが地方銀行経営の革新(Innovation)となり、その後の発展へと通ずる強固な土台となっていくのであった。

 戦時金融統制への方向と地方銀行統合

 昭和一二年(一九三七)は世相が軍事色を一段と強くした年であった。二月には日本興業銀行が軍需工業への積極的融資方針を明示したが、軍需景気の高まりのなかで、東京株式市場がこれまでにない最高の取引高の一四二万株を記録した。同年の七月には北支の蘆溝橋で日本と中国の軍隊が衝突し、翌八月には中支の上海で大山海軍中尉が射殺されるという事件が起こって、中国と日本とは宣戦布告のない全面戦争へと突入した。戦争の継続のためには膨大な資金を必要とすることは明らかであるが、日本経済が軍事体制下へと入っていくにつれて、金融もまた軍事最優先の方向を明瞭にしてきた。この年の九月に臨時資金調整法が実施されたことは、そうした背後の事情があったからである。
 このような日本国の動きは、やがて時間をかけて地方にも影響を及ぼすのであるが、その程度は当初は遥かに軽微であり、せいぜい同年の三月に、日本興業銀行が松山の対岸に位置する広島市に支店を開設した程度であって、当面するところでは愛媛の金融界は、これまでに進めてきた銀行合併の一線を歩み続けるにとどまっていた。同じころに豫州銀行は、かねて減資し、休業し、そして再開の道をたどっていた内子銀行を買収合併した。また松山市では、昭和一二年三月下旬には、明治三一年(一八九八)以来の伝統と歴史を持った愛媛農工銀行が政府系金融機関の日本勧業銀行に合併されて、日本勧業銀行松山支店として新しく出発していた。さらに、この年も終わりに近い一二月には中予において第五十二銀行と仲田銀行が合併して松山五十二銀行が成立した。松山五十二銀行の成立は、旧第五十二銀行と仲田銀行それぞれの払込資本金の六〇%の減資を行った上でのことであって、代表常務取締役には第五十二銀行出身の原正義と仲田銀行出身の仲田包寛の二名が就任し、新しい資本金は五四七万五、〇〇〇円であった。時あたかも瀬戸内海伊予灘を距てた呉の海軍工廠では、排水量六万九、〇〇〇トンの超大型戦艦「大和」が厳重な警戒のなかで秘密裡に起工していたのであった。
 さて翌昭和一三年(一九三八)二月になると、豫州銀行が東宇和郡の本店銀行である宇和卯之町銀行を吸収合併している。この結果、豫州銀行は資本金三〇〇万円で、預金は三、五〇〇~三、六〇〇万円となり、頭取は豫州銀行の佐々木長治、専務取締役は宇和卯之町銀行の頭取であった末光千代太郎が就任した。このようにして南予においては、ようやくのことで一つの本店銀行が成立するに至った。一方、わが国の中央においては、同年四月に恩給金庫法が公布されて、六月に資本金三、〇〇〇万円、官民出資による特殊金融機関が設立された。この金融機関は戦時経済下において、「銃後の守りを一層固め、もって出征将士をして後顧の憂いなからしめる」を基本目的として、恩給年金の受給者を対象として運営される特殊金融機関であった。また、これと並行して庶民金庫法が公布されて、資本金一、〇〇〇万円をもった非営利の特殊法人が設立されている。次いで、この年の一二月には、資金統制と配当制限を目的とした総動員法の第一一条を発動することが決定していた。このようにして世をあげた戦時体制下で軍事色一色に日本経済は塗りつぶされていくのであるが、年の瀬も押し迫った一二月の下旬に、前年成立した松山五十二銀行が三津浜銀行を買収しており、軍靴の響きの高まるなかで愛媛の金融界は、銀行の合併を通して国策にそった方向へと歩みを早めていた。

 第二次大戦前夜の愛媛県の金融界

 昭和一四年(一九三九)から昭和一六年にかけては、ヨーロッパの地において第二次世界大戦が勃発した時期に当たる。すなわち昭和一四年九月にドイツがポーランドに侵入すると、イギリスとフランスは直ちにドイツに宣戦して欧州は大戦争へと突入した。また極東では五月に日本軍がノモンハンにおいて外蒙軍と衝突し、外蒙軍をソ連軍が援助するに及んで日本軍は潰滅的打撃を被るに至り、日本とソ連との間には九月に停戦協定が成立した。時局がますます重大化する時期に当たり、天皇は全国の学生生徒を閲兵し、青少年学徒に対して勅語を賜っている。このような緊迫した情勢下で、七月にはアメリカが日本に対して日米通商条約の破棄を通告し、同条約は昭和一五年一月下旬から効力を失うに至った。日本はこれによって資源の補給を絶たれて孤立無援となり、経済的にますます追いつめられるようになっていた。そこで資源を確保する目的もあって、日本は昭和一五年の九月に北部仏印へ進駐するに至り、武力を背景として自らの勢力圏を拡大する方向をとった。また日本・ドイツ・イタリアの三国間に同盟が成立して、日本とアメリカ・イギリスとの対立は決定的なものとなった。国内では国策を遂行するための手段として、一〇月に銀行等資金運用令が実施されて、金融統制は年とともに強化されて行った。
 それでは当時の愛媛の金融界は、一体どのような状態であったかと言えば、伊豫相互貯蓄銀行を除いては東予においては今治商業銀行が中心となり、中予においては松山五十二銀行が足場を固めており、さらに南予にあっては豫州銀行が地域の中核となって活動していた。昭和一五年には、日本銀行の理事であった平山徳雄が新しく松山五十二銀行の頭取として就任したが、このことは、やがて愛媛県下の銀行合同を見越しての人事の布石であったとも言える。日本銀行が松山に支店を開業してから八年目にして、愛媛の金融界は人的にも金融界の中央とのつながりの密接さを加えることができた。年が明けて昭和一六年には国際情勢がますます険悪化してくる。七月にアメリカは在米の日本資産の凍結令を公布した。いわば軍事衝突に通ずる危険性のある経済断交措置としてわが国は受取らざるを得なかった。わが国では国民更生金庫法が公布されて、戦時下で転廃業した中小商工業者の更生をはかる目的で特殊法人が成立されていた。九月六日には御前会議において、外交交渉に最後の希望を託しながらも対米英蘭開戦を決意していた。それは奇しくも九月一日に今治商業銀行・松山五十二銀行・豫州銀行の三行が合併して、伊豫合同銀行が成立してから五日後のことであったが、当時そうした背景の事情を知ることは到底できなかった。伊豫合同銀行の頭取となった平山徳雄の下では、豫州銀行の専務取締役であった末光千代太郎と、松山五十二銀行常務取締役であった仲田包寛と今治商業銀行の常務取締役であった丹下辰世の三名が、伊豫合同銀行の常務取締役として就任し、頭取をあわせて四名がいずれも代表取締役の権限を持った。新資本は九七二万五、〇〇〇円であった。旧松山五十二銀行は既に昭和一六年の二月に(旧)伊豫銀行を買収しており、さらに五月には久万銀行の買収を終えていたので、ここに至って始めて一県一行主義の実現が愛媛県においてみられることとなり、年来の大きな課題がようやくにして結実したのであった。ところで一県一行主義により、県下の銀行大合同が実現したことを祝うには当時の時勢は余りにも深刻であって、時局は坂道を転がすようにして太平洋戦争の開戦へと足早に進んでいた。愛媛の金融界は一つの目標を達成すると同時に、休む間もなく戦時下の銀行経営という次の課題と取り組まなければならないこととなった。