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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

四 無尽会社と無尽業法

 無尽会社の発展

 わが国には古くから無尽講あるいは頼母子講という慣習が存在した。それは発起人が中心となって講員をつのり、講が成立すると講員が掛け金を出し合って、一定期日にくじ・入札により順次にかねを融通する組織である。慶応四年(一八六八)の種生講がそうであったし、また明治二八年(一八九五)、砥部岩谷口村(現砥部町)の頼母子講がそうであった。後者の『頼母子の連中申合定』によると、その内容は次のようなものである。

 一、高金壱百円也 壱口金拾円掛
 一、元取ヨリ終番迄 毎会金拾円ツツ掛金戻シ可申事
 一、弐番ロヨリ掛金相寄積金之上入札致シ 落札之者へ取番相究メ可申侯 若落札無之候ハ 寄高くじ取ニテ取番相究メ可申事
 一、前記落札ニテ取番相究候上証文相整イ候迄 金預人へ相預ケ可申事
 一、証文ノ儀ハ公債証書、地所或ハ諸会社株券ヲ抵当トシテ書入、受入(注保証人)弐名相立可申事
 一、前項ノ抵当地所ハ登記済、公債証書株券ハ証文預人へ相預ケ、金受取可申事
 一、取跡ハ終番迄毎会金拾円ツツ掛戻シ可申事
 一、連中ノ内都合二依り他へ譲替ヲ欲スルトキハ総代人之承諾ヲ得テ譲替へ可致事
 一、会合之儀ハ一ヶ年一会毎年一月十目元取宅二於テ相整可申
 一、頼母子総代人証文帳面預人投票之上日野喜一郎殿(旧庄屋)当選之事

 その後になると、これを営業とする者が、各地に現れ、大正三年(一九一四)末には全国で無尽業者の総数は八三一に達していた。内訳は会社組織をとるものが六六八、個人経営のものが一六三である。しかしながら格別の根拠法規がある訳ではなかったから、これらのなかには、掛金を受け取ったままで行方をくらます等の悪質な業者も現れるに至り、一方ではその取締りを求める声があがるとともに、他方では無尽業が便利な小口商工金融機関として根を張っていることもあって、無尽業の経営の基礎を確実にし、掛金者の権利を保障し、併せて監督の周密さを期すために、大正四年(一九一五)六月に無尽業法が公布され一一月から施行された。この法律によって無尽業を営む場合は資本金又は出資総額を三万円以上とすること(うち金銭払込みは一万五、〇〇〇円以上)、個人営業の場合も資本金額を内議で五、〇〇〇円以上とすること、そして営業区域を一道府県に制限することが定められた。同法施行時において、申請をした八五三業者のうちで一五三業者が免許を受けたにとどまり、これら以外の業者は整理されるに至った。その後、無尽業法の改正はしばしば行われており、昭和六年(一九三一)には組織を株式会社に限定すること、昭和一一年には以後の新設は認めないこと、昭和一三年には、公称資本金を一〇万円以上とすること、うち払込資本金は五万円以上であること、昭和一六年には特別の事情ある時は、他府県に営業区域を拡張できること等が定められ、戦時下において無尽会社業界も合同が進展して、かつて昭和一〇年末に二六二社あった無尽会社は、昭和二〇年末には全国で五九社となり、一県にほぼ一会社の割となり、地方銀行の合同と足並みを揃えるに至った。これが今日の相互銀行に発展したことは追って触れることにする。

 明治末期の愛媛県本店普通銀行の占有率

 明治時代の末期から大正時代の初期にかけて、中国大陸においては一つの新しい動きが進展しつつあった。それは明治四五年(一九一二)一月に、孫文が中国の臨時大総統に就任して南京を首都として中華民国が成立するに至り、これを受けて翌二月に寛永一三年(一六三六)以来二七六年の長きにわたって、中国を支配した清朝の宣統帝が退位することによって、新しく中華民国が生まれたことであった。その翌年の大正二年(一九一三)には、中国とそれぞれ関係を持った五か国の間で対華借款団が構成されて、これら五か国と中国との間で二、五〇〇万ポンドの借款の調印に漕ぎつけることができた。日本はイギリス・ドイツ・フランス・ロシアの四か国とともにこの借款に参加していた。同じ年の一〇月には、日本・イギリス・ロシアなど一三か国が中華民国を正式に承認することによって、中華民国は正常な外交関係を樹立するようになり、その大総統には袁世凱が就任して、歴史の舞台に登場してきた。その時以来、日本と中国は距離が近く、また中華民国創設の功労者が数多く日本に学んだこともあって、西欧の諸国とは異なる緊密感を抱くようになる。中国と日本の接近は、歴史的に中国との関係を持っていた西欧諸国にとってみれば新参者の横槍としてうつりやすい。米国をはじめとして、欧州各国が事あるごとに日本の行動に対して注文なり、干渉なりを加えてくる時代へと入る。国際関係が微妙な展開を示すなかで、松山市ではそうした国際情勢をよそにして、常設映画館の松山館が開館しており、当時としては物珍しさもあって、大街道には人々が溢れるように行き交わしていた。欧州ではドイツの台頭による国際情勢の険悪化が進み始めていた第一次世界大戦前年の出来事であった。なお、二年前の明治四四年末における愛媛県の本店普通銀行の占有率は、各銀行の預金と貸付金についてみた場合には図金1―1のとおりである。預金・貸付金ともに五十二銀行の比重が大きいことが一見して明らかである。明治四五年七月三〇日、明治天皇は五九歳で没せられ、皇位は皇太子の嘉仁親王が践祚して、時代は大正と改元されて日本もまた新しい時代へと入った。

図金1-1 愛媛県本店普通銀行の占有率

図金1-1 愛媛県本店普通銀行の占有率