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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

一 新貨条例と銀行類似会社

 種生講の始め

 慶応四年(一八六八)元旦、宇和島藩東宇和郡卯之町(現宇和町)の庄屋、清水甚左衛門(後の清水谷男、当時四二歳)宅は年賀の来客で賑わっていた。都では旧年一〇月に将軍慶喜の大政奉還があり、同一二月には朝廷の王政復古の宣言が行われたが、遙か伊予の片田舎では内外のただならぬ動きに薄々気が付きながらも、時代の激変がすぐそこに近づいていることに気付く者は少なかった。ましてや後三日目に京都の鳥羽・伏見で戦(戊辰戦争)が始まろうなどとは、誰一人として想像もしない様子であった。着飾った年賀の客を迎えるため客間には、もてなしの馳走が整えられ、台所では下働きの者が神妙な態度で控えていた。旧知の来客がひととおり案内されて挨拶が終わり、席について屠蘇が汲みかわされたところで、庄屋の甚左衛門は新年を機に、たがいに力を合わせて利殖の道を企画することを提案した。それは、甚左衛門の拠出分銀七〇〇匁と、その他の一四人の拠出分銀七〇〇匁(一人当たり銀五〇匁)で、銀一貫四〇〇匁の元手を作り、これを抽選で利用者を決めて、一定率の利息を徴収するというものであった。この方式を毎年継続することにし、種生講と名付けた。このようにして一庄屋の金融の案が南予の地で現実のものとなった。
 顧みればこの年は、アメリカ東印度艦隊司令長官ペリーが浦賀に来航してから数えて一五年になり、またハリスと日米修好通商条約に調印してから一〇年になり、さらには徳川幕府の遣米特使が条約批准書を交換してから八年の歳月が経過していた。また米国では南北戦争が終わってから三年目である。遥か離れた日本のへき地の平和な宴席で呱々の声をあげた種生講は、折柄、日本国内で進行中であった明治維新のまっただ中にもまれながらも育っていった。その年の九月には御代が改元されて明治となるが、明治八年(一八七五)二月には種生講は合資種生会社(社長清水静十郎、次代の庄屋)と改称して、当時の講員は二二人となり、資本金は五四九円八〇銭となっていた。種生会社はその後さらに成長を続けて、大正八年(一九一九)に卯之町銀行と改称するが、この流れがやがて伊豫合同銀行につながり、現在の伊豫銀行に結集されるいくつかの流れのなかでの、ひとつの源流であったことは興味深いことである。
 なお、明治維新後一〇年、西南戦争の始まるまでの期間において、後の伊豫銀行へとつながる銀行類似会社としては、前記の種生会社のほかに、興産会社(明治五年設立、松山)、栄松社(明治八年設立、松山)、信義社(明治五年設立、宇和島)があるが、これらについては後の箇所で述べることにする。

 明治新政府の資金調達

 新政府は若い天皇を前面に立て、錦の御旗を掲げて戊申戦争を押し進めるが、他方では王政復古の資金調達 を諸外国に通告し、国内に対しては、かつての攘夷とは正反対の和親を布告する。また、それだけでは不十分とみたのか、旧幕府が締結した条約は、新政府がこれをことごとく遵守することを進んで各国に通告して、諸外国の信頼をつなぎとめようと努力する。わずか五年前に孝明前天皇が賀茂社に行幸し、さらには石清水八幡宮に行幸して攘夷を祈願された往事とは、打って変わったような時勢の到来である。それにつけても、新政府の台所は極めて苦しい。戊辰戦争の開始後、いち早く京阪の豪商に対して一〇万両の調達を諭告しており、豪商達は未だ新政府の前途も明らかでない時期ではあったが、夫々の思惑を抱いてこれに応じていた。然しながら到底資金が足りないとみてか、四月に江戸城が官軍に引き渡された後になって、新政府は租税の徴収と産業の奨励の目的をもって商法司を設置し、五月には新政府初めての紙幣である太政官札を発行して諸種の支払いに充当し始めた。九月には政府軍が会津若松城の総攻撃にうつり、同城は八日目に落城して会津藩か降伏した時には、元号は既に明治と変わっており、徳川幕府二六五年間の居城であった江戸城は明治天皇の居城となり、久しく庶民に慣れ親しんだ江戸は新しく東京と名称を変えていた。
 新政府にとっては、「何としても金がほしい」は切実な思いであった。翌明治二年(一八六九)二月に造幣局を置くことが発表されるが、太平洋を隔てた米国では、その三か月後に大陸横断鉄道が完成していた。顧みれば九年前に日米修好通商条約の批准書交換のため、渡米した新見遣米特使の一行が米国太平洋岸に到着した時は、この鉄道の完成前であって、またパナマ運河の開通はさらに約半世紀後のことになるので、一行はサンフランシスコから船でいったん南下してパナマ地峡を列車で横断したのであった。生まれて初めて乗った列車のスピード(時速五〇㎞)と騒音が、これまで静かな風土で育った一行にとってみればまさに青天の霹靂であり、文明の驚愕と映ったことは誠に無理からぬことであったと思われる。
 ひるがえって、明治二年に新政府は、府藩県に対して租税の上申を命じ(松山藩は一五万両の献納を命じられている)、通商会社の設置を開始し、通商司による民部省札を発行しており、さらに明治三年にはロンドンで九分利付英貨公債一〇〇万ポンドを募集する等、資金調達に懸命であった。明治四年に新貨条例(旧一両=純金一・五グラムを一円とする)が制定された後において、一〇月には大蔵省兌換証券の発行が定められ、一二月に新紙幣の発行と旧紙幣の交換が布告される等、新政府はその貨幣的基礎を確立するために大忙しの状態であった。当然のことであるが、その思いは西欧の進んだ制度を学ぶことであり、造幣局に次いで近代的銀行制度を確立することが急務であることを悟るようになった。

 造幣局の創業と新貨条例

 明治政府は外国に流通するような立派な貨幣をつくるためには、外国式の機械設備を持った造幣局を建設することが必要であることを悟り、明治元年(一八六八)の末から二か年をかけて、大阪に西洋式の造幣局を建設し、明治四年四月四日に創業式を行った。創業当時の造幣局は敷地が五万六、〇〇〇坪(約一八万七、〇〇〇平方m)もあり、現在の造幣局の約二倍もある大きなものであった。当時は国内の工業がまだ発達していなかったため、貨幣をつくるために必要な硫酸・硝酸・ソーダ・ガス・コークスなどを全部、局内でつくる状態であった。またわが国で初めて複式簿記を使用することが行われ、インキも自国製であった。このようにして、外国の進んだ工業技術が造幣局を玄関にして、わが国へ入って来たと言うことができる。造幣局の機械はイギリス領ホンコン造幣局が使用していたものを購入することによって賄った。当時ホンコン造幣局では一円(ワンダラー)や半円(ハーフダラー)の銀貨をつくっていたので、「円」という貨幣の単位はホンコンから渡って来たと言われていることもうなづけられる。
 日本に初めて近代的な貨幣法である「新貨条例」ができたのは、明治四年(一八七一)六月のことであった。この法律によって、本位貨幣は金貨のほかに一円銀貨が貨幣として認められていた。従って、金銀複本位制と言うことができる。円の値打ちは純金一・五グラムであって、アメリカのドルの金純分と同じであった。同条例によれば
 本位貨幣・・・二〇円、一〇円、五円、二円、一円
 本位銀貨・・・一円、貿易銀
 補助銀貨・・・五〇銭、二〇銭、一〇銭、五銭
 補助銅貨・・・二銭、一銭、半銭、一厘
が定められた。図案の表は天皇の肖像の代わりに龍を使い、金貨と銀貨には口を開いた阿龍、銅貨には口を閉じた吽龍が用いられた。
 一円本位銀貨は明治七年に模様が変わり、同八年には貿易銀となった。貿易銀は東洋一帯によく使われていたメキシコドル銀貨を駆逐するために、銀の量を増やして模様に英語を使ったが、中国大陸でこれが溶かされて姿を変えるようになり、明治一一年になると、明治七年当時の一円銀貨に逆戻りすることとなった。