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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

二 商工会議所時代

 商工会議所の乱立と(旧)商工会議所法

国内では商工会議所設立の機運は高いものがあったが、GHQ側は米国式の任意団体方式を打ち出していた。そして昭和二一年(一九四六)九月に商工会議所が五か所で設立された。翌一〇月には三三の商工会議所の設立がみられ、昭和二二年社団法人として設立された商工会議所数は、二四二という数に及んでいた。そして二四年度現在で、三〇〇を超える数に達した。ちなみに昭和一八年、商工経済会へ組織改変されるころの商工会議所数が一四〇であったとされるから、敗戦直後におけるわが国商工業者の会議所設立熱が、いかに高かったかを推察できよう。雨後の竹の子のように登場した商工会議所の中には、会議所本来の目的に合致しないもの、基礎が弱いものなどかなり改善の余地あるものもあった。これらの点からも、また各地域の商工業発展のためにも、重要な役割を果たし得るような商工会議所をつくるために立法化が必要だ、という声が商工業者ばかりでなく行政当局でも聞かれていた。そして昭和二五年五月三一日、法律第二一五号をもって「商工会議所法」が公布された。とはいうものの、わが国はまだ占領下にあり、GHQの方針から同法は全文八か条と附則四項から成る極めて簡単なものであった。つまり会議所の基準及び原則・法人格・事業など、少なからず必要とされる点のみを規定するにすぎなかった。
 さて商工会議所法第一条は、「この法律は商工業の改善発達を促進し、あわせて社会の福祉の増進に資するために、商工業者又は商工業の改善発達に寄与しようとする者等の組織する商工会議所について定め、その健全で、且つ、民主的な発達を図ることを目的とする」、というものである。同法で会議所の目的が、地区内の福祉と繁栄の増進に寄与することという点が打ち出され、会議所の活動領域が一歩広げられていた。また第三条は、「商工会議所は、民法第三四条(公益法人の設立)の規定により設立される法人とする」、と法人格について規定している。
 商工会議所の公布により、全国各地の商工会議所は組織の改変に当たり、組織変更期限の昭和二五年一月三〇日、三〇一の「商工会議所」がスタートする。

 新商工会議所法と商工会議所

 民主的自由主義経済下、商工会議所が第一歩を踏み出すのであるが、しかしGHQの方針からあくまで任意団体であった。そめため商工会議所内部からは、組織強化の声が持ち上がっていた。つまり商工会議所法改正の声である。改正要求の一つは、商工会議所が地区内商工業の改善発達のためのけん引力となると同時に、地域社会の福祉増進のけん引力とならなければならないという使命、そのためには、商工会議所が地域社会における経済団体として機能し得るものでなければならない。そのため、商工会議所がしっかりとした法的基礎に立つことが前提とされる。二つめは、わが国が原料輸入国であり、かつ工業製品の販路は海外市場に求めねばならない。貿易立国以外に生き残れないわが国は、そのため友好促進をはかる必要がある。この国際交流を推進していくためには、商工業界を代表して商工会議所がその役割を演じる必要がある。このように大きくは対内的、対外的理由から商工会議所法改正の要求運動が高まっていった。
 昭和二七年(一九五二)五月一四日、日本商工会議所定期総会が開催され、「商工会議所法改正促進に関する要望書」が決定された。そして翌二八年七月、第一六回特別国会に商工会議所法案が提出され、七月末に可決される。これにより新商工会議所法が昭和二八年八月一日に公布され、同年一〇月一日施行となる。同法は第一~五章から成り、第一~九一条・附則二三項から成る。第一条には、「この法律は、国民経済の健全な発展を図り、兼ねて国際経済の進展に寄与するために、商工会議所及び日本商工会議所の組織及び運営について定めることを目的とする」と規定される。
 日本商工会議所は、新法の第六十四条によって法人格を有する団体となる。その目的は、「……全国の商工会議所を総合調整し、その意見を代表し、国内及び国外の経済団体と提携すること等によって、商工会議所の健全な発達を図り、もってわが国商工業の振興に寄与することを目的とする」。

 松山商工会議所の設立

 松山では終戦の翌昭和二一年に、松山商工会議所設立の機運が高まっていた。そして同年九月、松山商工会議所設立趣意書がつくられた。それは戦時下の商工経済会を民主的機構に改め、今や「……商工界の前途をよく見通し、綜合自主的に商工業界の連絡提携協力により、共通目的の為に総力を発揮する機関が必要であります。……」(『松山商工会議所百年史』二三二~二三三ページ)というものである。そして商工会議所の行う事業として、商工業の改善発達に関する意見の決定及び表明、商工業に関し官公署及び諸団体等の連絡斡旋など、一二項目があげられていた。
 昭和二一年一〇月八日、松山商工会議所発起人会が開催され、同月二四日創立総会開催、ここに社団法人松山商工会議所が発足することになる。そして初代会頭に武智鼎が選ばれ、副会頭に藤本精一郎・阿部孫次が選ばれ、新しい陣容のもと第一歩を踏み出す。そして昭和二一年一二月、申請中であった社団法人松山商工会議所の設立認可を商工大臣から受けた。
 松山商工会議所の当時行った活動には、運輸省高松四国鉄道局に対する貨車増発の要請、松山市商店街復興のための懇談会、物価統制励行強調週間の実施、公定価格展示会開催、ヤミ物価調査、生計費調査、国鉄輸送状況調査、商取引の紹介・斡旋・相談などである。当時の戦後復興期の世相が活動状況の中に反映されていて興味深い。
 なお昭和二一年一〇月松山商工会議所設立の動きの中で、県下では同月に今治・宇和島市でも商工会議所設立総会が開催され、翌一一月には新居浜市で、一二月には宇摩郡でも商工会議所設立総会が開催された。

 特殊法人松山商工会議所の設立

 新商工会議所法が昭和二八年一〇月一日より施行されるに伴い、松山商工会議所では二八年二月議員総会が開かれて、「新会議所法へ機構改革の件」を提出し説明された。そして松山商工会議所は、新法に則して昭和二九年五月、社団法人から特殊法人へと現状のままで移行することとなる。
 新法公布後の松山商工会議所の機構は図商5-1のとおりである。

 松山商工会議所の事業活動

 昭和三〇年代に入ると、わが国は戦後復興時代から脱出し、高度経済成長時代へと移っていった。商工会議所の活動も、当然そうした社会状況を反映していた。工場誘致のための懇談会もそのひとつである。また観光事業活動も個人所得の向上と、レジャーブームを反映するものである。産業文化松山大博覧会への協賛、商業活動調整協議会を発足させるなど、商工会議所の演じた役割は大きい。このほか、松山空港整備促進などの建議・陳情・要望など多方面で商工会議所の活動が行われた。
 昭和四〇年代高度経済成長は人々の生活水準を引上げ、消費も多様化していった。他方、公害の発生や生活環境の悪化に対して人々の関心は高まっていった。また消費者運動も広く展開されていった。さらにダイエー・ニチイの県外大手流通業者の進出と、地元商店街との対立紛争など、解決すべき問題が多く生まれていた。当然、商工会議所の活動もこれらに関係していくことになる。産業公害相談室の開設、かしこい消費者展などはそれらのひとつである。このほか、大きな事業活動としては、松山中央卸売市場・松山卸商団地建設運動などの商工業振興事業がある。
 松山商工会議所の事業活動も、明治期に設立された商業会議所時代からは想像もできないほど多方面に及び、地方商工業の発展のため、ますます重要な役割を演じようとしている。

図商5-1 新法発足後の松山商工会議所機構

図商5-1 新法発足後の松山商工会議所機構