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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

二 商法会議所から商工会への移行

 農商務省の新設と商法会議所

 明治一四年(一八八一)四月七日、太政官布告第二一号をもって政府は農商務省の設置を行った。新設の農商務省には、これまで内務省・大蔵省に属していた商務局を移管引継ぎ、書記局・農務局・商務局・工務局・山林局・駅逓局・博物局・会計局や農商工上等会議が設けられることになった。
 農商務省の設置とともに明治一四年五月二三日、太政官布告第二九号をもって「農商工諮問会」並びに「農商工議会」規則が発布された。それは「各地能商工ノ実況ヲ視察シテ勧業ノ事務ヲ著実ナラシメ倍々其改進ヲ図ランカ為メ今般農商工諮問会規則左ノ通制定候条、此皆布告候事」(日本商業会議所編、『日本商業会議所之過去及現在』八ページより)というもので第二章、第十九条から成る規則を発布した。第一条は各府県に農商工諮開会を置く、また第十一条は各府県の区又は連合区町村に農商工議会を設置して、各府県区町村にその諮問機関を置くというものであった。このような動きは、政府の諮問機関として設立されていた商法会議所の存在を無視するものであった。そして、商法会議所の存在をおびやかすかのように明治一四年六月、商務局長河瀬秀治は東京・大阪両商法会議所に対して、会議所保護金を一四年七月以降打ち切ることを告げた。これは諮問会規則に基づいて諮問会を置くことになれば、もはや商法会議所の保護は必要でないということである。諮問会規則に基づいて、農商工諮問会や農商工議会が設立されることになれば、商法会議所と競合することは誰の目にも明らかであり、財政的基盤の弱い商法会議所の存在さえ疑われることになる。そこで、東京商法会議所は「太政官第二十九号布告ニ付伺」を、東京府知事松田道之に明治一四年七月に提出した。その要旨は

 「農商工業議会に附せられる権利義務は、農商工業の利害を講究し、府知事県令あるいは農商務省より諮問する事件を審議し、意見を具申し、あるいは建議することなどとなっている。しかし当商法会議所は任意の集会で公選議会ではないにしても、創立以来政府が認可し、その権利義務も諮問会規則の規定する公選議会となんら異なっていない。かかる場合に、諮問会規則によって公選議会を一方で設立し、他方で商法会議所を存立せしめるようなことになっても、果たして妨げなきものかどうか、この点を明示してほしい」
(永田正臣著『明治期経済団体の研究』一四一ページ)というものであった。これに対して、東京府知事は「……右議会設立スルモ其会議書ノ権利義務ニ於テハ別段ノ令達アルニ非サレハ変易セサル義ト可相心得事」と回答した。商法会議所の存在は確認されたものの令達があればどうなるか分らないというもので、商法会議所の将来に不安を与えるものであった。苦境に立たされた東京商法会議所は、自ら農商工諮問会規則改正私案を作成し、農商務卿に提出、規則の改正を求めたが認められなかった。しかし東京商法会議所は改正実現のための運動を続けていった。その結果、諮問会規則改正問題が政府に取り上げられ、事態は商法会議所側に有利な方向に進展した。

 農商工諮問会規則の撤廃

 明治一六年(一八八三)五月一六日、太政官は農商工諮問会規則を撤廃すると同時に、太政官布達第十三号をもって、「各地方ノ便宜ニ従イ……勧業諮問会竝勧業委員ヲ設置スルコトヲ得」として照準条項九か条を提示した。九か条のうち主要な条項の第一条「諮問会ハ各府県勧業事務ニ付知事県令ノ諮問ニ備フルモノトス」、第二条「諮問会員ハ府知事県令ニ於テ管内農商工業ニ名望アル者ヲ選ヒテ之ニ充ツ……」、第九条「農商務卿乃主務ノ官署ハ各地方勧業上ノ件ニ付諮問会又ハ第六条(区町村若クハ連合区町村ニ於テ農業会商業会工業会又ハ農商工ヲ併セタル勧業会其他同業会ヲ設置スルトキハ勧業委員ヲシテ会員タラシムルコトヲ得)各会ノ意見ヲ問フコトアルヘシ」である。
 諮問会規則の廃止、それに代わる照準条項九か条の登場によって、地方の実情に適した形で新たに諮問会を結成することが可能となった(永田正臣著『明治期経済団体の研究』一四四ページより)。この九か条の
布告に従って、東京商法会議所は解散をして新たに諮問会を結成することになる。これが東京商工会である。

 東京商工会の成立と全国の商法会議所

 明治一六年九月二二日、太政官布達十三号の布達に基づいて、東京府知事は連合商工業会の設立を誘導するため、府下の商工業組合・会社の総代ら一二○名を京橋の明治会堂に招集し、商工会設立を促した。そし
て創立委員に渋沢栄一・荘田平五郎ら六名が選ばれ、彼らによって東京商工会設立願、商工会規定などがつくられ、同時に東京商法会議所解散を府知事に申し出た。
 東京商工会は明治一六年一月一七日に設立認可をうけ、翌一一月に創立総会が開催される。そして渋沢栄一が会頭に、益田孝は副会頭に選ばれた。以前の商法会議所が一部の実業家有志達によって組織された私設団体的性格のものであったのに対して、東京商工会は、各会社・同業組合の代表者をもって組織された公的団体であった。東京商工会の設立がその後、全国各地の商工業者にどの程度、影響を及ぼしていったかは明らかではない。当時、商法会議所から商工会への改組移行、あるいは新たな商工会設立の動きは極めてまれであった。明治一六年一二月現在、ちょうど東京商工会設立当時における全国の商法会議所と、明治一八年八月現在の全国商法会議所・商工会は表商5-2・5-3で示したとおりである。明治一八年八月現在、商工会を名のるものは東京と足利だけであり、商工会議所の名称のものは京都・長崎・大津であり、興商会は新潟、商業集会所は堺のみであった。

表商5-2 明治十六年十二月現在 商法会議所の状況

表商5-2 明治十六年十二月現在 商法会議所の状況