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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

一 商法会議所の成立と背景

 商工会議所由来

 わが国の商工業の発達、商工業者の社会的地位の改善、意見の集約機関として、さらには政府の諮問機関として、商工会議所の果たしてきた役割の大きさは誰しも認めるところであろう。
 現代の商工会議所制度は、明治一一年(一八七八)三月に設立された東京商法会議所から始まる。従って一世紀間にわたり商工界の公的機関として、その使命を果たしてきたことになる。商工会議所という現代の名称も明治期には商法会議所と呼ばれ、しばらくすると商業会議所となっていく。昭和二年(一八二七)、商工会議所法が公布されると組織も変更され、商工会議所という名で親しまれることになる。この商工会議所も、戦時経済体制の進展とともに組織変更を迫られることになる。昭和一八年(一九四三)商工経済会法による商工経済会の成立がそれである。しかし商工経済会も昭和二〇年、太平洋戦争終結とともに解体される運命をたどる。そして昭和二一年商工会議所が創設されて今日に至っている。本章では本県で最も古い歴史を持つ松山商工会議所の歩みを、わが国の商工会議所の歴史の中で述べてみよう。

 商法会議所の成立

 わが国最初の商法会議所(制度)は、明治一一年三月に設立された東京商法会議所に始まる。これは商工業者の利益を代表する機関として、わが国最初の経済団体であったと言えよう。
 商法会議所が設立された背景には、対内的理由と対外的理由の二つがあった。対内的理由とは、言うまでもなく国内商工業の育成・発展といった国内事情から出ていた。対外的理由とは、明治政府の懸案であった関税自主権獲得という問題であった。このために政府は、まず商工業者の世論機関の設立を迫られていた。
 つまり、わが国は安政五年(一八五八)の五か国通商条約において、外国商品に対して無関税に近い低関税率適用を強いられていた。これはわが国近代工業の発達を妨げるものであり、明治政府にとって緊急に関税自主権を取り戻す必要があった。政府は関税自主権回復のため条約改正に取り組み始める。この条約改正に当たって政府は「世論が許さないから改正されたい」と述べたところ、交渉相手であったイギリス公使パークスは「日本に世論があるのか、商人が申立てると言ふけれども、何によって言はるるのか、日本に多数の集合協議する仕組がないではないか、個々銘々の違った申出では世論ではない」と強力な反論を浴びせた。このため政府は条約改正には世論が必要であり、世論を反映させる場として商法会議所の創設が急務であると考えるに至るのである。

商法会議所のモデル

 商工業者の公的機関を創設するに当たって政府は、そのモデルをヨーロッパのチェンバース・オフ・コンマース(Chambers of Commerce)に求めた。ヨーロッパには各地に商業会議所があり、フランスでは、一六世紀末にはマルセイユ商業会議所が既に設立されていた。イギリスでも天明三年(一七八三)、グラスゴー商業会議所が設立されるなどヨーロッパでは古い歴史を持つものであった。わが国はこれらヨーロッパの商業会議所をモデルに創設し、商工業者の意見を反映させる機関、あるいは商工業者の利益をはかる機関としたのである。そして、この制度導入に当たっては政府がリーダーシップを発揮したのである。
 わが国最初の東京商法会議所設立に至る一端を『東京商工会沿革始末』の中からみてみよう。

「此時ニ当リ商工業ヲ奨励スルハ積極的政治ノ要務ナレハ商工団体ノ意見如何ヲ知ルハ欠ク可カラザルノ必要ナルニ我国ニハ欧米諸国ニ於ケル商業会議所ノ如キ設立モ無ク其萠芽トモ望ム可カリケル東京会議所ハ既ニ解散シタリ例エハ税則改正議ノ如キモ当路ハ誰ニ向テ之ヲ諮問スベキ乎宜ク先ツ東京府下ノ有志紳商等ヲ喚起シテ会議ノ団体ヲ今日ニ組織シテ商工ノ公益ヲ謀ラシム可シトハ是レ明治十年ニ於テ当路ニ起リタル考案ニシテ当時ノ内務卿(伊藤博文)、大蔵卿(大隅重信)ハ親シク誘導ノ労を執ラレタリキ彼ノ旧会議所議員等ハ其事タル固ヨリ各自カ希望セル所ナレハ誘導ニ応シテ直チニ憤起シ同志ヲ結合シ、渋沢栄一、益田孝、福地源一郎、三野村利助、大倉喜八郎、渋沢喜作、竹中邦番、米倉一平ノ八名発起人トナリ、乃チ明治一〇年一二月二七日ヲ以テ商法会議所設立之儀」を

東京府知事に請願することになる(『東京商工会議所八十五年史』、上巻、二八五ページ)。

 東京商法会議所

 明治一〇年(一八七七)一二月二七日、東京商法会議所設立の「願書」と「見込書」が東京府知事楠本正隆に提出される。願書によると、商法会議所をして事業者の意見の代表機関として、商工業者の連絡・親睦・啓発の機関として、さらには紛議の仲裁機関として、商工業者の利害の調整機関として機能させようというものであった。また商法会議所設立見込書は、第一款 社員選挙之事、第二款 役員選任之事、第三款社員集会議事之事、第四款 諸官衙交渉之事から成っていた。願書と見込書が東京府知事に提出されるや、東京府知事は「新規創立ノ重要性ニカンガミ」自己の判断をさけて、大久保内務卿の指令を仰ぎ、その指示を待って認可を下した。かくて明治一一年三月一二日、東京商法会議所の設立認可がおり、直ちに渋沢栄一・益田孝・三野村利助・福地源一郎らの発起人は、設立見込書に従って会員加入の勧誘や会員総会の開催、役員選挙に着手、次いで会議所の定款・議事規則を制定していった。幾多の手続準備を終えたのち、東京商法会議所会頭に渋沢栄一が選ばれ、第一副会頭に福地源一郎、第二頭会頭の地位に益田孝が就任した。

 大阪商法会議所

 東京商法会議所の設立に次いで大阪でも明治一一年八月、大阪商法会議所が設立される。関西財界人は、かつての「天下の台所」として繁栄していた大阪が、明治になって低迷し続けているところを遺憾とし、この退勢の挽回をはからんと、五代友厚・中野悟一・藤田伝三郎・広瀬宰平らが設立したものである。関西経済に対する危機意識が、大阪商法会議所設立の一因になっていたと言えよう。五代友厚は、外国官権判事・大阪府判事として官職に就き、他方では堂島米商会所・株式取引所を設立するなど大阪の商業発展に多大な貢献をなした人物であり、関西財界の有力な指導者であった。五代は中野悟一・藤田伝三郎等と力をあわせて、「大阪商法会議所」の設立願を大阪府知事渡辺昇に明治一一年七月に提出、翌八月二七日設立認可を受けた。五代らが府知事に提出した願書とは次のようなものであった。

「欧米各国ニ於テ多ク商法会議所ノ設ケ有之其実践ヲ伝聞セシニ頗ル便益ヲ極メ既ニ東京府下ニ於テハ有志ノ者発起其筋ヘ上願許可ヲ蒙リタル趣御府下ノ儀商家稠密物品輻湊ノ地然ルニ各自旧慣ニ安ンシ商則モ不相立ヨリ一般ノ公利ヲ興ス能ス依テ商法会議所ヲ設立シ広ク論議ヲ尽シ候ハ、自然内外商業ノ利害ヲ明ニシ会員協同ノ力ヲ生シ随テ全般ノ公利ヲ興シ商業ノ成跡ヲ改良スルニ至リ可申ハ必然ニシテ此議会決テ欠ク可ラサルノ設ケト考察シ別紙見込書ノ趣意ヲ以私共熟議ヲ遂ケ右会議所設立ノ儀懇願仕候間何卒御許可被下度依之別紙相添此段奉願候也」

 設立認可後、明治一一年九月二日第一回総会が開催され、役員選挙の結果、初代会頭に五代友厚、副会頭に中野悟一・広瀬宰平が選出された。
 明治一一年三月の東京商法会議所の設立、同年八月の大阪商法会議所の設立は、全国各地に商法会議所の設立の機運を生むことになる。そして明治一二年に横浜・福岡・長崎・熊本にて商法会議所が設立され、翌一三年には徳島・富山・赤間関(下関)にて設立され、次第に全国各地へと商法会議所組織の広がりをみた。かくて明治一一年、東京商法会議所が設立されてからわずか五年の間に、全国三一か所にて商法会議所が設立されるほど急速な普及をみた。

 松山商法会議所

 松山でも明治一五年(一八八二)五月、松山商法会議所が設立された。設立発起人には第五十二国立銀行頭取小林信近、三津魚市会社遠藤桃三郎、栄松社の仲田伝之<長公>、松山米商会所の藤岡勘三郎ら松山商業界の有力者達が名を連ねていた。明治一六年一二月現在、商法会議所数は全国で三一か所であり、松山もその中のひとつで、比較的早くから設立されていたと言えよう。四国では香川県と徳島県にも設立されていた。
 明治初期の松山では、藩政時代からの商業活動はそのまま引き継がれ、かなりの商業資本の蓄積がなされていたものと思われる。明治五年ごろには興産会社が金融業務(貸付・預金・為替)や物産売買・運輸業などを営んでいた。明治九年(一八七六)七月に設立された牛行舎は、製紙業・製革業・織物業で地方産業発展の機運を高めていた。また藩政時代からの地場産業である伊予縞の生産もかなりなものであったし、また伊予絣に対する潜在的市場成長力もはかり知れないものがあった。当時、松山では商工業発展の機会は豊富にみられ、このようなところから商法会議所設立の下地は出来上がっていたと言えよう。
 松山商法会議所は、松山市の西堀端町の勧善社に看板を掲げてその活動の第一歩を踏み出す。ここに今日の松山商工会議所の歴史がはじまる。商法会議所設立時の陣容は、初代会頭の小林信近を筆頭に副会頭に宮内安貞、理事に小田喜八郎・藤岡勘左衛門・仲田槌三郎・山本盛信らによって構成されていた。
 松山商業界の有力者達によって、全国の主要都市に先がけて設立された商法会議所も資金面では県当局からの十分な補助金を受けることが出来なかったため、苦しい状況にあった。松山商法会議所は、東京・大阪の商法会議所が内務省勧商局から補助金の交付を受けていたのと異なり、県勧業課から明治一五年、五〇〇円の補助金交付を受けたにすぎなかった。しかも明治一六年には二〇〇円に補助金は減額された。明治一六年、県議会第八回通常県会で小西甚之助のように、商法会議所の社会的利益を重視する意見もみられたが、しかし宮脇信好県会議員のように商法会議所の存在意義を過小評価する立場のものが多くを占めていた。県会の中で賛否両論があったが表決の結果、補助金支出の減額となった。そして明治一七年には打ち切りへと至るわけである。
 補助金交付の減額、さらには打ち切りという動きは、結局のところ商法会議所が商工業界有志から成る任意団体であり、当然、資金も拠出金でまかなわれるべきで、地方税から補助すべき性格のものではない、といった政治的判断が働いていたことによるものであろう。補助金の交付が望めなくなった松山商法会議所はそのため、明治一七年から二二年の五年間を会員の拠出金や寄付金などで運営していかなければならなくなった。
 松山商法会議所の規則(『愛媛県史資料編社会経済下』商業参照)は、『松山商工会議所百年史』によると、第一章議員の選挙及其進退、第二章 役員及職掌、第三章 議事規則、第四章 維持法から成り、条項は第一条から第四十二条に及ぶものであった。商法会議所規則の第一条は「凡ソ松山商法会議所ノ議員ハ定数ヲ設ケス現ニ商業ヲ営ミ若クハ農商工ニ関係スルノ業ヲ営ミ相応ノ家産ヲ有シ年齢二十年以上ノ者ハ都テ議員タルヲ得ヘシ雖然欺詐騙瞞若クハ坐贓ノ刑ニ処セラレシ者及身代限リノ処分ヲ受ケ未タ其義務ヲ終ヘサル者ハ議員タルヲ得ス」と規定され、現在の商工会議所定款第一条の目的規定と大きく異なっている。すなわち、定款第一条は「本商工会議所は、地区内における商工業者の共同社会を基盤とし、商工業の総合的な改善発達を図り、兼ねて社会一般の福祉の増進に資し、もってわが国商工業の発展に寄与することを目的とする」というものである。松山商法会議所の目的に当たる部分は同会議所規則第十七条で規定される。第十七条「会議所ニ於テ議事ニ附スルハ地方一般ノ商業一般ニ関スル要務ニ限リ其議題ハ官庁ノ諮問若クハ議員中ヨリ提出シタル建案ニ依ル」というもので、当時の商法会議所が、地方の商業発展のための機関であると同時に、官庁の諮問機関として位置付けられていたことがうかがえる。松山商法会議所の会議で議論された政府諮問については次のようなものがあった。甲号問目(一) 商人商業および商業帳簿のこと(二) 商業上の抵当権のこと(三) 売買を媒介する者のこと(四) 商品売買のこと(五) 取引破約のこと(六) 売主および買主に関すること(七) 運送業務に関すること 乙号問目(一) 諸契約に関すること(二)契約の履行に関すること(三) 価額補償損害賠償割引(四) 違約金に関すること(五) 商取引の代理人関係(六) 交互勘定と計算期限 丙号問目(一) 物品質入に関して(二) 保管留め置きに関して(松山商工会議所 『松山商工会議所百年史』 昭和五七年 三三ページより)
 当時、松山商法会議所が議案として審議したものには、県勧業課から提出された諮問がある。それは県下商業衰退の原因とその挽回策であった。このほか久万山道路建設問題、松山取引所設立に関する諮問などがある。松山取引所設立に関する諮問は、同取引所創立総代藤岡勘三郎・仲田伝之<長公>によって、「松山取引所設立賛助方御願」というかたちで、商法会議所会頭小林信近に提出されたものである。つまり、取引所条例の発布によって、松山に取引所を設立する計画であるが、その際、取扱い品目を商法会議所にて審議してほしいと言う内容のものであった。商法会議所での審議過程で取扱い品目には米・麦・大豆・綿・木綿・公債・株券・塩など多岐の商品があがったが、結局、松山米穀取引所として明治二七年(一八九四)八月、松山市末広町にて開設されることになった。

表商5-1 初期の商法会議所

表商5-1 初期の商法会議所