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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

二 高度経済成長と経済環境の変化

昭和四〇年代の経済変化

 昭和四〇年代は大型店問題が社会問題化し、その解決が迫られていた。しかし、その時代をもう少し巨視的にみると経済界は、どのような状況にあったのであろうか少し述べてみよう。
 四〇年代は前半期を高度経済成長時代、後半を低成長時代として大きく分けることができよう。前半期の経済成長率は、三九年から四〇年の経済不況の脱出から始まる。この不況は戦後不況の中でも最も厳しいも
のであった。中小企業の倒産・株価の不振・商品在庫率の悪化の動きがみられ、この動きの中、四〇年三月、山陽特殊鋼の倒産と会社更生法の適用申請が出され、負債総額八〇億円という戦後最大の倒産事件が発生
した。そして同年五月二一日、山一証券の経営の行詰りと同社再建策が公表された。山一の累積赤字は一〇〇億円に及ぶ巨額のものであった。この突然の報道に投資家は驚き、山一証券には三日間に三万四、〇〇〇
人の投資家が殺到した。彼らは投資信託の解約などを行い、投資家が山一から引揚げた額は七〇億円に及ぶと言われた。山一倒産一週間後に政府は、日本銀行の無期限の特別融資を発表した。
 三九年から四〇年にかけて企業倒産件数も増加していく傾向にあった。本県では三九年四~一二月にかけて六四件の企業倒産が発生し、負債総額は二〇億円に達していた。翌四〇年には負債額一、〇〇〇万円以上の企業倒産件数は一〇〇件を超え、その負債総額も四八億円に及んだ。不況は工業界ばかりでなく、商業界にも等しくおそっていた。特に証券業界は株価の不振によって厳しい経営状態にあった。県下では三九年一月から一〇月にかけて店舗の廃止に踏みきる中小証券会社があらわれた。角丸証券(西条出張所)・大和投資販売(松山支店)・三豊証券(土居出張所)・香川証券(壬生川出張所)・広島証券(御荘出張所)の七店である。政府はこのころ、積極的な金融財政政策を行って景気の回復につとめた。景気回復の兆しは早くも四〇年一一月にあらわれ始めた。厳しい不況も極めて短期間で終息し、以後、四五年八月まで五九か月に及ぶ長期好況時代を経験していくことになる。GNPでは四〇年世界五位であった日本は、四三年には西独を抜いて世界第二位にまで発展を遂げていた。

 向都離村

 高度経済成長過程で、第一次産業から第二次産業へと労働力の移動する動きがみられた。労働力移動は戦後まもなくみられ、四〇年代になってもそれはまだ続いていた。既に地方社会では過疎化現象が発生してい
た。
 愛媛県の人口減少は三〇年代と比べると四〇年代は鈍化傾向にあったと言えよう。ちなみに四〇年の人口一四四万六、三八四人から、四六年に一四二万〇、三二一人と二万六、一五三人の減少である。県外への人
口流出は、東京・大阪などの大都市圏へ向かっている。また県内での人口移動を四〇年から四五年にかけてみると、松山市・今治市などの商工業地区の人口増加に対して松山・今治市の周辺地域の人口減少が確認さ
れる。

 ニクソンショック

 戦後例のない長期にわたる高度経済成長に酔いしれていたわが国も、昭和四六年八月一五日のアメリカのニクソン大統領による「ドル防衛政策」発表は大きな衝撃であった。この日、東京為替市場・東京証券取引所は大変な混乱となった。ヨーロッパでは外国為替市場は閉鎖され、外国為替の決済でドルの占める割合の高いわが国では、為替市場閉鎖の措置はとられなかった。ドル防衛政策発表の日から同月二七日の二週間足らずの間に、日本銀行によるドルの買い支えは約四〇億ドルの規模に及んでいた。
 ニクソンのドル防衛政策の発表による国際通貨危機を収拾するため、先進一〇か国の蔵相会議がもたれた。一二月一七日ワシントンのスミソニアン博物館での蔵相会議は、最終的収拾策をめぐって折衝が行われ、
わが国は、ここで1ドル=三〇八円の為替レート(スミソニアン・レート)を受け入れることになる。昭和二四年四月に一ドル=三六〇円の為替レートが設定されて以来、二二年ぶりのレート変更で、切り上げ率一六
・八八%であった。

 石油ショックと物不足現象

 ユクソンショックに次いで昭和四八年秋、OAPEC(アラブ石油輸出機構)の石油削減とアラブ敵対国に対する石油供給の削減、OPEC(石油輸出機構)の石油価格の値上げは、石油輸入国日本にとって一大ショックとなった。この第一次石油危機をきっかけに石油価格は高騰し、石油価格の騰貴は電力・ガス・石油化学製品の相次ぐ値上がりに至った。翌四九年に入ると卸売り物価・消費者物価は急騰、時の蔵相福田赳夫はこの状況を「狂乱物価」と名づけて、インフレの抑制に乗り出すことになる。企業の中には買占め、売惜しみなどの投機的行為に出るものもみられ社会問題化した。企業の投機的行為に世間の批判が集まったが、消費者の方では買いだめに走って、物不足をあおることになった。
 昭和四八年一〇月、消費者の間でトイレットペーパーなどの買いだめ行動がおこり、店頭の商品がたちまち売り尽くされてしまった。買いだめの行動は、初め大阪の千里ニュータウンなどの新興の住宅地でおこっ
たと言われる。新興住宅地の住民は、何十年も前から住む人達と比べて近所の小売店との関係は薄い。従って買える時に買っておかなければモノ不足が生じた時、小売店が売ってくれるかどうか分からない。このよ
うな不安が新しい住民の商品買いだめ行動につながった。水洗化された団地にとってトイレットペーパーは生活必需品であり

、他のものでの代用はきかない。
 団地住民のモノの買いだめ行動は、たちまち他の地域の住民にも波及し、消費者が店頭に殺到、パニック状態が発生していく。小売店は必要量だけ商品を仕入れ、在庫を出来るだけ持たないようにしているため消
費者が殺到すればたちまち商品は買い尽くされてしまった。これがまた消費者を不安におとし入れた。
 本県でも消費者が、トイレットペーパーなどの生活必需品の買いだめをする行動がみられた。四八年一一月、県下のスーパーや他の小売店からトイレットペーパーが姿を消し、店頭に商品が出されるや、たちまち
売り切れといった状況が生まれていた。スーパーの中には、一人の販売個数を制限して混乱をさけようとしたが、消費者は家族総出で商品の買いだめに走る有様であった。物不足現象はますます激しくなり、一般消
費者の中には、生産者が生産制限や売り惜しみをしているのではないかといった考えを持つ者もあらわれた。しかし生産者は、フル操業で商品の供給につとめても需要に追いつけない、売り惜しみなどはないと反論
している。『愛媛新聞』の四八年一一月一七日付にはトイレットペーパー不足について次のような記事が出ている。
 「紙不足その後? あなた去年と比べてトイレにいく回数がふえましたか、そんなことはないでしょう。生産はふえているんです。足りないはずがない、末端の仮需要の増加が最大の原因ですよ」とメーカー側の
意見をのせている。明らかに現在の不足は生産よりも消費、流通の方から生じているとメーカーは見ていた。たしかにこの時期、消費者の買いだめが、次々と波及して、急激なモノ不足をつくりだした。四八年一一
月一八日の『朝日新聞』朝刊には、消費者心理の一端を如実に物語っている消費者(主婦)の談話が出ている。

 「買いだめすればモノがなくなることは、自分でもわかってるの。でも心配で心配で。やっぱり、走ってしまう。塩は専売品だから絶対なくならないし、値もあがらないっていわれたって……あなたもう、エンジ
ンのかかった自動車みたいで、スーパーにかけ込まないと落ち着かないんですよ」、「わたしだけでも買いだめをやめましょう、と心に決めたんです。それが、ご近所の奥さん方がトイレットペーパーやお砂糖なん
か重そうに抱えて帰ってくるでしょ。その姿をみるとジッとしていられなくなるんです。水洗便所には新聞紙を使えませんからねえ。……」

これはまさに当時の一般消費者の本当の気持ちであったと言えよう。
 モノ不足は消費者の不安から、そして流通業者のモノの値上がりを見越しての売り惜しみから生じていた。
 モノ不足は、トイレットペーパーのほか洗剤・風邪薬などの医薬品にまで広がっていった。松山では「消費者と業者の懇談会」が開かれた。当懇談会は、消費者団体・プロパン・石油・砂糖・洗剤などの流通業者
・生産者代表・デパート・スーパーなどの小売業者から構成され、またこれに四国通産局・公正取引委員会・商工会議所も加わっていた。ここでは消費者は流通機構、行政指導について意見を述べ、生産者側は消費
者に商品の買いだめを止めるよう要望した。
 医薬品のモノ不足は、薬価が低く儲けの少ない医薬品に不足が目だった。流通業者が医療機関への供給を平常よりおさえ、需給関係から生じる価格の上昇を待ったためだと伝えられている。
 年末になるとプロパンガス・灯油などの不足が目立ち、プロパンの県内の価格は、一二月に一、二〇〇~一、六〇〇円(一〇キログラム)の範囲内であった。また灯油は、通産省の灯油凍結指示価格三八〇円(一八リットル)に対して県内の実際価格は、それよりも高い値段で販売されていた。灯油業者の中には年末の需要の高まりを予想して、灯油・重油などを買いだめて山中や地中に隠す悪質な業者もあらわれた。

図商4-2 GNPと成長率(1954~76年)

図商4-2 GNPと成長率(1954~76年)