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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

一 昭和恐慌前夜

 大正時代の好況・不況

 わずか一五年足らずの大正時代は、その短さにもかかわらず資本主義社会の持つあらゆる顔を、良きにつけ悪しきにつけのぞかせていた。
 大戦景気は経済を過熱させ、海運・製糸・製鉄などの産業界で巨利を得る人々が多数輩出された。彼らの中には衒示的消費で人々を驚かせ、同業の成金と豪奢な生活競争をして世間の嘲笑をかっていた。海運市況の好調・輸出の増大・工業生産の伸び、とあらゆる経済指標は明るさを示していた。つくれば売れるといった状況下、企業は設備投資を拡大し、工場の新設に努めた。わが国は第一次世界大戦の勃発という外的要因によって急速な工業化を遂げていった。産業部門別生産額でそれを示してみよう。大戦勃発の大正三年(一九一四)農業四五・一%、水産業五・一%、鉱業五・一%、工業四四・五%であったが、大戦終了後の大正七年には工業五六・八%、農業三五・一%、水産業三・八%、鉱業四・三%となっていた。そうは言っても工業は軽工業主導型のものであった。その中で造船・機械・化学工業といった新産業分野が台頭し始めており、その点からは重化学工業化率も高まりの傾向にあった。また大戦中の輸出超過額は約二八億円にも達し、巨額の金が国内に流入した。ちなみに大正三年の正貨現在高三億四、〇〇〇万円から同九年には約二一億八、〇〇〇万円に達し、大戦景気により明治以来、慢性的輸入超過国から輸出超過国へと姿を変えていった。
 しかしこの状況も長くはなかった。というのも、わが国商品が海外市場で強い国際競争力を発揮して輸出の拡大をもたらしたのではなくて、戦争という外的要因に支えられた棚牡丹的なものであった。
 大戦中、交戦国の輸出余力の消失、そして大戦終了による交戦国の輸出能力回復に伴い、わが国経済は、反動恐慌に突入していく。そして輸入超過も目立ってくる。例えば大正一一年(一九二二)、三億三、七〇
〇万円から同一三年には七億二、五〇〇万円と、関東大震災の復興物資の輸入も加わって、最高の入超額を記録した。連年の大幅な輸入超過は国際収支の悪化となり、正貨準備高、特に外地正貨の減少をもたらした

 明治以来、資本主義経済の発展は地方にも及んでいた。愛媛県でも繊維産業などが発展し、過剰な農村労働力が、これらの産業に移動していった。特に農村の女子については、紡績業界・製糸業界で奪い合いがみられたと思われる。女子の職工応募者の前の職業は大正六~八年の時期、圧倒的に農業・漁業であった。第一次産業から第二次産業への労働力移動は、この時期、第二次産業の方が賃金が高かったことを意味していよう。しかし大正九年の反動恐慌は、工場労働者に対して解雇断行をもたらした。そのため大正一一年、愛媛県の工場従業者数は三万七、〇八四人から同一三年には三万四、六八五人にまで減少し、解雇者は再び農村・漁村へと戻る者や、そのまま都市にとどまって他の職業についたものと思われる。
 反動恐慌以後わが国の中には金本位制復帰の声が強まっていた。その矢先、大正一二年の関東大震災の発生は、わが国の金解禁論を一時棚上げさせることになった。しかし大正一五年、若槻内閣の片岡直温蔵相檀
は解禁の方針を固めていた。金解禁の方針に沿って大蔵省は、国内金融機関の整備を目的に震災手形法案を準備した。これは議会に提出されて審議段階にまで至った。昭和二年(一九二七)三月一四日、政友会はこの法案が政商救済のための法案であるとして政府を攻撃した。野党の質問攻撃に辟易した片岡蔵相は、「諸君があまり騒ぐから金融界が不安になり、渡辺銀行が休業のやむなきにいたった」と答弁した。この答弁は同日の夕刊に掲載され、渡辺銀行破綻のニュースは全国に伝えられた。しかし片岡失言の時刻には渡辺銀行は平常通りの営業をしていた。片岡蔵相の失言により渡辺銀行は、翌日休業状態に追い込まれた。そしてこの休業は、一般預金者の不安をあおり、市中銀行からの預金引出し騒動へと事態を悪化させる。資金力に乏しい二流の銀行は休業に入った。片岡蔵相の失言による渡辺銀行の休業そして市中銀行への飛び火、こうして昭和二年わが国の金融恐慌が始まる。