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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

一 大戦景気と実業家

 大戦景気と成金

わが国経済界にとって大戦景気は、利潤獲得の好機であった。そして実業界には、ブームに乗じて巨富を得る者もあらわれた。成金と呼ばれる人々である。「成金」という言葉は、明治四〇年一月、鈴木久五郎をはじめ多数のものが株式ブームで巨利を得、同月下旬には株暴落で丸裸になったことを嘲笑する意味で使われた。成金とは将棋の歩が敵陣地に乗り込むと「金」に「成」るところから生まれた言葉である。一手まちがえば歩になる宿命をもっていた。戦争景気は、このような成金を多数生んだ。とりわけ山下亀三郎・勝田銀次郎・山本唯三郎・内田信也は船成金として有名であった。彼らの挙動は世間の耳目をひいた。山本は虎大尽とも呼ばれた。成金の当事者達にしてみれば、決して愉快なことでもなかったようである。山本唯三郎は勤勉力行した成功者までが「成金」の名称下に笑殺される風潮を不満として、「成金か成金か予は之に対して抗議を申し込む」という題で、実業之日本(一九一七年一〇月一五日号)に投稿して一考をうながした。しかし朝鮮での虎狩り、そして帝国ホテルにおける政財界人を集めての虎肉試食会などの山本の行動は、誰の目にも成金趣味として映った。

 勝田銀次郎

 明治六年(一八七三)一〇月一日、(現)松山市唐人町に生まれた勝田銀次郎は、家が米穀商であったことから恵まれた家庭環境の中で育った。彼は松山中学を卒業するや北海道に人生の活路を開かんとして旅立
った。しかし途中、東京英和学校(現青山学院)の校長本多庸一と出会い、そのまま同校に進学する。同校卒業後、大阪の吉田貿易店に就職する。しかし同店は明治二九午(一八九六)に倒産、勝田はそのため神戸
の足立輸出入会社に入社、そしてそののち二〇〇円の資金で船舶仲介業を始める。そして大正六年には、資本金一、〇〇〇万円の勝田汽船株式会社にまで成長していた。勝田が海運業で利益をおさめ、船成金として
世間の注目をおさめたのは、この大戦ブームによるものであった。戦争による船舶需要の増大、傭船料のアップなど海運ブームが到来、勝田はこの機会をす早くつかみ、船舶の新造・中古船の買収・傭船に全力を投
球、この結果、彼は船成金と呼ばれるほどの巨利を得た。この時期、勝田の船舶は八隻・トン数約六万トンであった。それは彼の海運経営が巨船主義であったことをうかがわせている。このほか傭船二〇隻をかかえて
いた。勝田の海運事業の成功で、関西に勝田ありとまで言われるのである。彼の個人資産約二、〇〇〇万円、現在の価格にして五〇億円を超すものであった。ブームが終わって恐慌が到来するや彼の海運事業は、その影響を避け得なかった。しかし勝田が他の泡沫企業家と異なる点は、海運業から政界へと方向を変えた点である。大正七年(一九一八)、貴族院議員・神戸市会議長・昭和五年(一九三〇)衆議院議員・昭和八年神戸市長に就任、その他日本船主同盟会幹事・海運業組合長等の公職を歴任した。

 山下亀三郎

 慶応三年(一八六七)父、山下源次郎と母、敬の三男として北宇和郡河内村(現吉田町)に生まれる。山下亀三郎は母について、彼の自伝「沈みつ浮きつ」の中で、旧吉田藩の中で一番醜婦であると語っている。敬は子供に対して厳しい人であった。山下は宇和島の南部中学校を中退・弱冠一六歳で郷里を捨て大阪へと向かった。彼は暴風雨のため港で船待ちをさせられた。この時、逗留先に母が連れに来るのではないかとの期待も山下にはあったが、逗留先に来だのは村の神官であった。彼は母の伝言を宿の家人に伝えて帰った。その伝言とは、「男が一旦村を捨てたからには、偉くなるまで帰って来るな」という厳しいものであった。また山本覚馬の私塾にて法律・経済を学んだ。明治一七年(一八八四)、山下は東京の明治法律学校(現明治大学)に入学した。同校では東大教授穂積陳重と知り合いとなる。しかし学校は、その後まもなく中退して東京の大倉洋紙店に入店、さらに池田文次郎商店に移った。兄弟商会石炭部に就職する。明治三〇年(一八九七)、山下は竹内商店の石炭部を譲り受けて独立、山下石炭商会をつくった。彼は、このころから海運経営に関心をもち出す。山下によると、運んできた荷物を渡す前に運賃を相手からとる船会社の経営に興味を示し、石炭よりも船持ちになろうと意を決した。こうして明治三六年に喜佐方丸を持つことになる。同船は山下が各方面から借金してサムエル商会から買い入れた船で、その船には故郷の喜佐方村の名前をつけた。しかし船持ちとなってもその経営は苦しく、彼によれば毎晩いくら酒をのんでも眠れないほどの苦境
にあった。燃料代にもならない運賃で、勝田商会(山下のライバル勝田銀次郎経営)の雑貨を積んで、上海・横浜間に喜佐方丸を就航させていた。最悪の経営状態に陥っていた時、山下に喜佐方丸海軍御用船の電報
が届いた。彼は直ちに三井の石炭を満載して、佐々港から上海へ向けて出航直前の喜佐方丸を横浜に回航させた。彼は自伝の中で、「国家の御用に対しては、三井などにグズグズ言わさぬという肚で、石炭満船のま
ま横浜回航を命じた」と、当時の模様を述べている。石炭の荷主三井に対しては、山下は今西林三郎と一緒に諒解を求めている。山下によると「横浜で石炭を陸揚げし、船を海軍に渡すまでの三~四昼夜は無我夢中
で、どこをどうして歩いたか分からなかった」と当時を述懐している。喜佐方丸を海軍に徴用されたことで山下は最悪の事態から回避できた。
 さて日露戦争後の経済不況は、山下にとって再び厳しい船舶経営の時期となった。明治四一年(一九〇八)彼の会社は遂に倒産した。明治四四年六月、東京にて山下汽船合名会社を設立、資本金一〇万円であった
。そしてロンドンに出張員を派遣、業界関係者を驚かせた。その後、山下は、次々に船舶を購入して第一次世界大戦前夜には社船七隻、用船・受託船五隻、計一二隻を有するまでになった。山下は困窮の時期福沢桃
介主催の会に出席、その参加者の中から「あんな山下などと一緒によばれちゃあたまるもんか」と陰口も聞かれたという。しかし株式投機に精通した福沢桃介は、山下の実業家としての器量を買っていたのであろう
。山下は日露戦後の落ち込み、第一次大戦勃発による浮上、そして落ち込みと七転八起の実業人生を送ってきた。彼の自伝「沈みつ、浮きつ」を地で行ったようである。
 山下の海運業経営は迂余曲折があったものの、彼の海運市況に対する読みは深かった。これを可能にさせたのは、彼の人脈から入る情報の入手によっていた。人が彼を「ハヤ亀」と呼んだのも、彼の情報入手の早
さからついたあだ名であったろう。そして的確な情報をもとに、大きな手を打ってでるところから「ヤマ亀」とも呼ばれた。山下は海運経営を進めていく中で、政財界人とも精力的に接触していた。彼の自伝第二巻
の「人を語る」の中で登場する人物は、岩崎久禰男・井上準之助・渋沢栄一・伊藤博文・大倉喜八郎・福沢桃介・金子直吉・池田成彬・穂積陳重・徳富蘇峰・秋山好古ら多士済済である。
 山下亀三郎五〇才の年の大正六年(一九一七)五月、山下汽船株式会社を設立、資本金一、〇〇〇万円であった。そのころの所有船舶四〇隻、総トン数にして一二万四、〇〇〇トンに達していた。あたかも戦時景気で国内経済は沸き上がり、山下亀三郎が内田信也・勝田銀次郎らとともに船成金と称されたのもこのころであった。彼ら三人は豪邸の建築競争を行い世間を驚かせた。山下の熊内御殿はそのひとつである。この件について山下は、のちに生涯の錯誤として悔いている。
 弱冠一六才にして郷里を出奔、助教員・商店員から石炭商会を経営、さらに海運界へと進出、五〇才にして山下汽船会社を創立、人々から成金・ドロ亀などと言われながらもわが国海運界に一地歩を築き上げた。
昭和一九年(一九四四)七七才でこの世を去る。死の床にあって、「自分が死んでも、墓参りにくるものはいないだろう。そう思って自分は死ぬ前に、いただくべき香典は全部いただいておいたよ」との言葉を残し
て世を去った。山下汽船会社は新日本汽船と合併して、昭和三九年四月一日より山下新日本汽船株式会社となった。 山下は自己の海運業経営に全力を注いだばかりでなく、海運業界の発展のためにも活躍している。当時、日本郵船・大阪商船・東洋汽船など大手定期航路業者に対しては、国家の手厚い助成が行われ、山下らのトランパー(不定期船主)に対しては冷たかった。そのため山下は、不定期船の重要性を訴えるため、日銀総裁辞任直後の井上準之助に、京都大学の臨時講座・海運立国論を担当させようとした。井上の海運立国論担当実現と彼のその講義は、当時大変な評判を呼び、山下の不定期船に対する世間の認識を高めさせようとする企ては成功した。このあと井上準之助は大蔵大臣に就任するのである。また山下自信、昭和一〇年に「海運私見」という小冊子を出して、トランパーに対する国家の補助を訴えている。昭和一二年トランパー補助制度が実施されることになるが、同年七月の日華事変の勃発で緊急軍事予算等が組まれたために、この制度は中止されることになった。

 大正期三実業人

 山下亀三郎出生よりも少し前の嘉永五年(一八五二)二月、今西林三郎が北宇和郡好藤林国遠村(現広見町)に、安政四年(一八五七)五月、新田長次郎が温泉郡味生村山西(現松山市)に、安政六年一〇月、菊池恭三が西宇和郡川上村大字川名津(現八幡浜市)にて呱々の声をあげた。彼ら三人は、いずれも故郷を出て、のち関西財界の大立て者となった人達である。今西は山下亀三郎と親交があり、北宇和郡八幡村(現宇和島市)で南予製糸株式会社を設立したりしている。今西は明治一五年(一八八二)、大阪で廻漕問屋を開業、以後、大阪同盟汽船取扱会社社長やまた山陽鉄道・大阪三品取引所・大阪ガス会社などの創設に当たり、彼自身、社長・理事の要職に就任した。また大阪貿易語学校の創設、同校理事となり、大正一〇年(一九二一)、大阪商業会議所会頭となる。新田長次郎は二〇歳の時、大阪に出て商店入店から実業家としての道を歩み始める。その後、すぐ藤田組製革所に、さらに大倉組製革所へと転職した。そして長次郎二九才の年に独立して製革業に乗り出し、やがて製革業界におけるトップ企業にまで発展させた。彼は新田製革会社の経営と同時に、大阪工業会の創設者の人物であり、松山高等商業学校(現松山商科大学)の創設者でもあった。菊池恭三は明治九年(一八七六)一七才の年に向学心に燃えて大阪英語学校に入学、のち工部大学校に入学、同校を優秀な成績で卒業、工学士の学位を受ける。卒業後、彼は海軍横須賀造所・大阪造幣局・平野紡績へと職を変えた。平野紡績時代、菊池はマンチェスター大学へ留学する。帰国後、彼は平野紡績の支配人兼工務長となり、以後紡績人として活躍、大正五年大日紡績連合会委員長に就任、その前年には工学博士の学位を授与されている。菊池は技術家としてばかりでなく、会社の経理にも強く、そのためか彼は大正一三年、第三十四銀行頭取に推され就任する。昭和八年(一九三三)には第三十四・山口・鴻池の三大銀行の合併を実現し三和銀行の創設に尽力した。銀行合同の先駆者と言われるゆえんである。