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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

六 商業機関

商店と引札

 明治になって松山の商業機関と言えば、従来通りの卸売・小売店が圧倒的に多かった。松山をはじめ県内の幾つかの町の卸・小売店の状況は『愛媛県史資料編社会経済下』で示している。松山においては、これら商店の中に横文字を使った商店もちらほらあらわれ始める。また日露戦争後、ロシア人捕虜が松山に連れてこられていたため、ロシア文字の看板もあらわれた。横文字を使わないまでも西洋反物といった字が使われ商店に当時の洋風化の動きを見ることができる。なお当時の商店の広告には、美しい色で画かれた引札広告がある。引札の中では、エビスや大黒様の図案が多く用いられていた。特に正月用引札の場合その傾向が強かった。また、当時の回漕店の多くが旅館・料亭・倉庫業などを兼業していたことを伝える資料として貴重なものである。三津浜の回漕店のこの絵は、当店の荷物にはる広告で明治中ごろのものと思われる。田村栄太郎によれば、「この絵のものは原型に近いところのもので、回漕店並びに諸問屋としてあり、家の構造は店は運送店と問屋のような作りで、奥と二階は旅人宿になっている、遊女がいるかどうかは解らないけれども、中世的な感じの家構へである。こういうふうに中世的であるかと思えば、一方には汽船取扱の看板が掲げてあり、ハイカラな洋灯あり、人力車あり、郵便配達は走り洋装の人ありという、明治の尖端を行くという、面白味のある広告である。」(田村栄太郎稿『日本商業資料図解 日本の風俗第二巻第一号』、昭和一四年一月、復刻版より)

 勧商場

明治の小売商業機関で人々の耳目を集めたものに勧商場があった。勧商場は小売連合の形をとった新しい商業経営組織で、関東では勧工場と呼ばれた。そもそも勧商場の始まりは、明治一〇年(一八七七)第一回
内国博覧会が東京上野公園にて開催され、その終了後、かなりの出品物が売れ残り、それを販売するために東京府勧業課が明治一一年、辰の口旧評定所跡に勧商場を開いたものが始まりである。正式名は辰の口第一
勧工場内物品陳列所と呼ばれた。辰の口勧工場の店内は、まず入口で下足を預かり、竹の皮草履にはきかえて商品を見て歩いた。長い廊下の両側に商店が店名や商品の額を掲げ、商品はすべて正札販売であった。明
治二〇年になると辰の口勧工場は官業から民業へと移行、こののち全国の都市に勧商場がお目見えする。勧商場の商品は、初めのころ商品の品質も良く、価格も適正であったことから大衆の人気を博していた。しか
し明治末から大正期にかけて百貨店の出現もあって、また安物仕入れが目立ったことから次第に人気も低下していった。勧商場の大きなものは一館に陳列店数七〇〇店に及ぶものもあれば、一館七店の小規模のもの
もあった。伊予の商人渡部清一郎ひきいる丸共合資会社は、東京芝の勧工場を出張販売の会場としてよく利用していた。
 松山では明治三五年(一九〇二)に西堀端の札の辻寄りに勧商場が開設されている。ここ以外にも大街道・湊町・三津浜にも勧商場があった。西堀端の勧商場は表から裏へと通り抜け出来るもので、百貨店の登場をみるまでは、新しい時代の新しい商店として珍しがられた。湊町の外側勧商場の規模は、明治三七年七月五日付の『海南新報』の貸店広告から知り得る。それは湊町延光寺前の勧商場建築につき普通売店二四か所、遊戯場一か所、料理店三か所の入店者を募集するというものであった。ひとつ屋根の下に各種小売店が出店したところの現在のショッピングセンターに当たるものであった。

 勧商場に代わる百貨店の登場

 勧商場が世間の人気を博したのも小売商業史上、極めて短命であった。勧商場にとって大きな打撃は百貨店の登場であった。この時期の百貨店の前身は呉服店に求められる。例えば三越が明治四一年(一九〇八)ころに百貨店として登場する。明治四二年に松坂屋が百貨店経営を始め、大正八年(一九一九)に白木屋が呉服店経営から、百貨店経営へと新しい時代を歩み始める。百貨店はいずれも洋式の鉄筋コンクリート造りで、町のシンボルとして偉容を誇っていた。都市の人口増加、勤労者階級の成立、生活様式の洋風化の動きから百貨店の成長の基盤は形成されつつあった。
 百貨店の店内には、ありとあらゆる商品が揃えられ、それら商品には正札がつけられ、公明正大な販売方式をとっていた。これは従来の小売経営と大きく異なるものである。大正一一年までには、高島屋・大丸・
伊勢丹がこの業界に姿をあらわしていた。「今日は三越、明日は帝劇」と人々の間で口にされたキャッチフレーズは、まさに新しい消費文化の登場を意味していた。
 松山では大正六~七年ごろに西堀端の勧商場に近い本町に大丸百貨店が開業している。松山では、既に商業の中心地が古町から湊町・大街道へと移りつつあった。そのため古町の地盤沈下を防ぐ起死回生策として、当地の呉服商渡辺卯平が百貨店経営に乗り出した。大丸百貨店の建設に当たっては、東京から設計士を呼んで設計させている。建物は洋風であったが木造建築であった。それでも一階は洋品、二階は呉服、三階は文具と化粧品、四階は食堂といった配置で、近代百貨店としての配置であり、専門化がなされている。店内にはエレベーターが設けられていた。百貨店でエレベーターがつけられたのは、明治四四年の白木屋の大増築にある。当時白木屋の宣伝文句に、「一度、其中に御入りになりますと、気軽に三階まで御昇りになります訳で御座居ます。御慰み旁々一度は御昇降遊はさる様願ひ上げます」とエレベーターについて記されていた。当時、まだいかにエレベーターが一般に馴染みのないものであったかがうかがえる。官庁や大会社でも、まだ珍しいエレベーターが客寄せとして一役かっていた。松山の大丸百貨店のエレベーター設置は、全国でも比較的早いほうであったであろう。おそらく推測ではあるが、愛媛県では最初のものであろう。
 大丸の斬新さは設備面だけでなく、営業方法にもみられる。営業時間は午前八時半から午後五時及至六時で当時の商習慣からみて大変早い閉店時間である。
 さて大丸百貨店は登場時期を別にするものの勧商場とともに古町のシンボルとなっていた。そして大丸は古町発展の起爆剤として渡辺卯平の創設したものであるが、結局は、一〇年後の昭和四年(一九二九)ごろ
に閉店の運命をたどった。松山の新しい商業集積地区湊町、大街道の発展に歯止めをかけることは出来なかった。

 公的商業機関松山米商会所

 明治政府は国内商工業の円滑な発展のために多くの解決すべき課題を負っていた。その中で政府がその初期から力を注いできたものに近代商業制度の確立がある。すなわち貨幣金融制度の確立、取引所の改革、株
式会社制度の導入、商法会議所制度の導入、度量衡制度の確立などである。ここでは米商会所の問題についてみてみよう。
 明治六年(一八七三)旧公債・新公債・金札公債の増発、さらに株式会社の設立をみたため有価証券の増加は著しく、大阪の堂島米会所の米の限月売買も東京とともに盛況を呈していた。しかし、やがてこれは米
相場の弊害をもたらしたので、政府は弊風を正す目的から、ヨーロッパの例にならって明治七年一〇月に太政官布告第百七号をもって「株式取引所条例」を発布し、明治八年五月に「同準則」を定めて、米会所にも
適用しようとした。しかし旧来からの商習慣のもとにある米取引にヨーロッパ的株式取引所条例を適用することは、もともと無理があった。事実米取引を行っていた東京商社と堂島米会所は、ともにこの条例の施行
延期を求めていた。政府もその後、堂島米会所の実状を調べ、これに基づいて明治九年八月に太政官布告第百五号をもって「米商会所条例」を発布した。これは、わが国の実情に適したもので、取引所を利益団体と
し、取引所から仲買人を分離させ、取引所をして仲買人を監督させるといった内容のものであった。同条例によると創立は内務卿の免許を受ける事、営業期限については五年とし、満期に再び内務卿の免許を得るこ
とと規定されている。米商会所設立には一〇人以上の発起人と資本金三万円以上とされ、資本金三分の二に当たる公債又は現金を地方官庁、又は国立銀行に預けることと規定した。取引所の役員は売買本人・仲買人
になれないこと、仲買人については自己の売買・他人の依頼により仲買をすることが出来るが、後者による売買については、依頼人の姓名住所を取引所に申し出ることが義務づけられた。売買取引は現場と定期の二
つとし、定期取引の期限を最長三か月とした。売買成立の場合、双方から約定金高の十分の一以上の証拠金を取引所に差し出すこと、などが規定されていた。また米商会所の決算は年二回以上、利益金は株主に配当すること、しかし配当金年一割以上に及ぶ場合、そのいくらかを非常準備金とし積み立てることとしていた。
 明治九年のこの条例によって、これまでの商習慣などによって運営されていた米相場会所は解散させられ、新組織へと編成替えされる。このように明治九年の米商会所条例により、米穀取引所の前身となる米商会
所が全国的に統一されていくのである。同条例が発布されると、株式組織で収益の見込みが確実であるとのことから、たちまち全国一四か所、東京・大阪・大津・桑名・新潟・高岡・金沢・松山・徳島・赤間関・岡
山・兵庫・京都・名古屋に設立された。

 松山米商会所設立

 松山でも米商会所の設立の動きが明治九年(一八七六)の米商会所条例公布後、直ちに始まる。そして同年の一〇月には松山米商会所設立の出願をなし、明治一〇年二月に創立される。松山米商会所の設立に当た
っては、小林信近が大きく関与していたと言われている。事実、彼の手記には、「明治十年二月(三六歳)有志と同盟して松山米商会所を創立す」と記されている。しかし明治一〇年二月二四日付の『愛媛新聞』に
掲載された松山米商会所禀告(『愛媛県史資料編社会経済下』商業参照)には小林信近の名前は見あたらない。この禀告は、府中町に米商会所を設立、その名称を松山米商会所と称するとの内容である。商会所発起者達は、栗田與三・藤岡勘三郎・仲田伝之訟・木村庸・仲田槌三郎・井門久平・栗田信次郎・藤岡米太郎・仲田嘉一郎・木村忠二郎の陣容であった。そして株主集会での役員選定の結果、頭取に栗田與三、副頭取に藤岡勘三郎、商議係に仲田槌三郎・井門久平、出納係に仲田伝之訟・木村忠二郎、検査係に木村庸の就任が決定した。設立時の資本金は明治一三年の資本金から推測して三万円であったと思われる。なお栗田頭取は、米商会所開業に当たって、「……今日此開業之式ヲ行フコトヲ得タリ願クハ社員タル者情実ノ為ニ権利ヲ柱ケス条理ニ負カス責任ノ軽カラサルヲ知リびん勉注意シテ商売等カ空相場ノ浮利ヲ射ントシテ賭博ノ所為ヲ為シ反テ破家失産ノ敗ヲ招ク等ノ流寵ヲ禦キ稍々米商人ノ間ニ廉恥ノ気象ヲ生セシメ市場ノ公益ヲ保賛シテ従テ此商社ヲシテ日ヲ遂フテ隆盛に至ラシメン……」(『愛媛県史資料編社会経済下』商業参照)と述べる。
 地元有志によって設立された松山米商会所の明治一〇年(一八七七)の売買高は一七二万二、二六〇石、翌一一年のそれは三七一万四、四六〇石、明治一二年は三四三万四、六〇〇石と着実な伸びを示した。しか
しこの時期、米価・銀価の騰貴が著しく、他方公債の価格は急落していた。当然、政府は投機売買の隆盛を予測して明治一三年二~三月ごろから市場の圧迫を試み、四月には全国の取引所の米の定期売買禁止の挙に
出た。そして一三年の一一月に解禁を打ち出したが、政府の投機抑圧方針の態度は変わらなかった。すなわち明治一五年末には仲買人の身元保証金を増額し、顧客の委託以外、自己の取引を禁じ、また仲買人の密売
買、顧客との信用取引の禁止など厳しい態度を政府がとったために、松山米商会所に限らず全国の米商会所の売買取引高は、大幅に減少するという危機状態に直面していた。
 米商会所存亡の事態の中で、米商会所を株式会社組織から会員組織への編成替えが大きな関心を呼んでいた。それはブールス条例と呼ばれるもので、明治二〇年(一八八七)五月勅令第一号をもって発布され、翌六月農商務省令第三号をもって施行細則が発布される。その主要点は
、①米穀の取引は銘柄によることを得ず、見本によりてのみ取引を為すことを得、②会員は他人の委託を受けて取引を為すことを得ず、③売買契約の都度、売渡証書を授与すべし、之に背く取引は認めずである。政
府の投機抑制の態度が窺える。しかしこの条例は実施されなかった。結局、明治二六年三月に取引所法の発布がなされ、同年七月農商務省令第一三号をもって施行規則が公布される。この取引所法は、米商会所にそ
の組織を株式会社組織か会員組織かの選択を認め、名称は「米穀取引所」と改めさせた。さらに仲買人を特殊商人と規定し、株式会社の取引所は特殊会社として位置づけた。かくて近代的取引所制度による米穀取引所が成立することになる。
 当時、日清戦争後で国内の企業熱は高まりをみせていた。言うまでもなく取引所設立の機運も高まり、設立免許願いが全国各地から政府に提出されていた。政府もこれに対して安易に免許を与えている。このため
全国で取引所の乱立をみるに至った。松山・今治の両米穀取引所は明治二七年に発足する。同年末の全国取引所総数は一○二か所、このうち米穀取引所は九〇か所である。このうち愛媛県では松山米穀取引所(資本
金六万円)、今治米穀取引所(資本金三万五、〇〇〇円)の二つがあった。明治三二年の取引所総数一〇七か所、このうち米穀取引所総数は九六か所であった。取引所の中で米穀取引所が数の上で最も多く、米穀以
外では油・綿糸・綿花・生糸・砂糖・塩・炭・銅・鉄・雑穀・肥料を取扱う取引所があった。
 明治二六年の取引所法によって取引所は株式会社組織乃至会員組織のいずれかを採用していたが、現状は会員組織が望まれたにもかかわらず、松山米穀取引所をはじめ株式会社組織の取引所が圧倒的な数を占めていた。明治三一年の取引所総数一二八か所のうち、わずか六か所が会員組織を採用し残り一二二か所は株式会社組織であった。また会員組織を採用していた取引所の中には、株式会社へと組織変更するものもあった。このように全国取引所総数のうち九〇%以上が株式会社組織で占められていた。
 さて米穀取引所は明治三二年の九六か所をピークに、その後急激に減少し、明治三五年に五五か所となった。減少理由のひとつには、政府が本来意図したのと異なり取引所が、公認の賭博場のような状況に陥って
いることから厳しい取り締まりの態度に出たことである。つまり好ましくない取引所に対して解散を命じた。また明治三五年六月、突然に勅令第一五八号を発布して、株式会社組織の取引所の資本金を従来の三万円
から一〇万円に増資させ、地方の弱小取引所の整理をはかったことも、取引所数減少の理由である。これに加えて増資した地方の取引所に対しても地域社会の中で、存在価値の認められないものに対しては、営業継
続を認可しないという厳しい措置に出た。営業を認可されなかった静岡や直江津の取引所は、そのため農商務大臣に対して行政裁判を起こし、政府側は敗訴している。しかし政府の意図した目的はほぼ達成された。

 伊予米穀取引所と香川熊太郎

 さて明治二六年(一八九三)の条例によって、実は松山米穀取引所は株式組織となって正式名も伊予米穀取引所と変わっている。つまり「株式会社伊予米穀取引所」として明治二七年七月に創立され、米穀売買の営業に当たっていた。伊予米穀取引所と名称が変わっていたが、一般には松山米穀取引所として昔通りに呼ばれていたようである。大正二年現在の資本金は一〇万円、払込額一〇万円、積立金一万六、六七九円であった。
 伊予米穀取引所の取引高は明治三九年(一九〇六)二六万四、三八〇石、明治四〇年二九万一、七六〇石、明治四一年一〇万六、〇三〇石、明治四二年二六万八、八八〇石、明治四四年四三万三、七七〇石の推移
をたどっていた。米穀取引所としては全国でも古い歴史を持つものであったが、実際の経営では取引高も少なく赤字経営におちいっていた。この危機的状況を救ったのが香川熊太郎であった。
 香川は慶応二年(一八六六)七月三〇日に伊予国久米郡平井谷村にて香川林左衛門の長男として生まれた。明治四三年の五〇歳の時に松山市末広町二丁目に居を移した。ちょうどここには伊予米穀取引所があり、
彼はここの取引所の取引員になり、ここに彼の米穀取引所との関係が始まる。十数名の取引員の中で彼は手腕を発揮し、当時の理事長である高須峯蔵の着目するところとなった。既にこのころ取引所は経営状態悪く
、赤字経営の克服に懸命のときであった。このままいけば取引所の解散も止むなしの中で、高須理事長は香川に取引所理事長就任を依頼した。香川は取引所の地域社会に及ぼす影響も考慮して、高須理事長の要請を
引き受けた。しかし取引所における地位では、香川はあくまで専務理事としての地位にとどまり、高須を理事長として残ることを条件とするものであった。ここに高須・香川体制のもと取引所の運営が行われること
になった。大正二年(一九一三)のことである。専務理事としての香川は、取引所の経営改善のため帳簿の整理、人員構成の見直しなどに精力的に取り組んだ。その結果、取引所の経営は改善され、取引高も着実な
増加をたどっていった。すなわち大正元年の売買高一六九万二、五七〇石、翌二年一二七万二、五三〇石、大正三年一六五万一、三九〇石、大正四年二二一万二、四○○石、大正五年二〇一万三、七〇〇石、大正六年二七八万七、六〇〇石、大正七年三三四万七、一〇〇石というように大正末年ごろまで取引高は増加傾向にあった。
 伊予米穀取引所の業績改善に成功した香川は、この時、理事長の就任を周囲の要請もあって受け入れた。この時の陣容は、理事長香川熊太郎、理事近藤貞次郎・宮内安定・御手洗忠孝(第七代松山市長)、監査役には堀内胖次郎・黒川直一郎、支配人には高本秀雄、副支配人に玉井喜久馬(のちの愛媛新報社支配人)、市場係長に本田道太郎、計算係長に佐伯雄延、庶務兼現場受渡係長に井手広一が選ばれた。
 さてこのころの米相場は、それまで大阪の堂島米穀取引所から堂島米相場が、瀬戸の島伝いに旗信号で送られて来たのにかわって、広島の通信者から電話によって知らされるようになった。この堂島米相場を建値
にして米穀取引が行われた。この取引所の立会いは前場と後場に分かれ、前場は午前九時から一一時まで、後場は午後一時から四時までの三時間であった。また夕場といわれる桑名相場が午後六時ごろに気配が入電し、この相場が翌日の建値の資料にもなっていた。

 米騒動と香川熊太郎

 ところで香川体制のもとで米穀取引も活気を呈し、配当も最高の時には四割配当、平均二割配当がなされていた。しかしこのような取引所の活気は、大正七年(一九一八)ごろから全国的に広がっていった米騒動
の中で、世の非難を受けることにもなったことであろう。松山では大正七年六月二六円、一〇月三三円、一二月に三八円と米相場は値上がりを見せ、愛媛県内各地は不穏な空気に覆われていた。香川熊太郎の自宅も
米騒動の被害を受けた。しかし香川は、新聞や一般世間が言うように米穀仲買人達が買煽りをして暴利を貪っているのは、当たっていないと述べ、松山の期米が他の地方より高いのは、当地の標準米が他地方よりも
優良であるからだとし、米価騰貴の原因はほかのところにあることを強調した。
 米騒動を機にして香川熊太郎は、今回の騒動は報道機関が適切、正常な報道をしておれば防げたのではないかと考えた。これは彼に商業新聞でなくて公正な報道をめざした新聞経営を思いつかせるひとつの理由と
なった。大正一一年ごろ、発行部数の多い愛媛新報の経営に手をそめたが、同社の政治色の強さから香川は経営からおりた。かわって海南新聞に着目、同社の経営にたずさわった。大正一三年から、昭和一六年戦時
統制のため一県一紙になるまで、海南新聞社社長、また統制後の愛媛合同新聞社初代社長として手腕を発揮した。彼の新聞経営に当たっての信条は、新聞とは社会的公器であり、客観的・中立的立場を貫き通さればならない、であった。

 伊予米穀取引所の終わり

 昭和五年(一九三〇)伊予米穀取引所は鉄筋の近代建築に新築される。しかし取引所の前途は暗かった。米取引は最高・最低価格が設定されたため、取引商品としての米の魅力は小さくなっていた。既に全国地方都市の米穀取引所の中には解散するものも出ていた。関西では堂島取引所があり、四国では伊予米穀取引所だけであった。伊予米穀取引所も昭和八年一〇月の営業満期日を近くにひかえ、その後の取引所をめぐって関心をよんでいた。方針としては満期日到来とともに、再認可を受けて営業を継続する方針であった。営業更新を求めて、香川和男が商工省を訪ねて商工大臣中島久万吉と交渉をするが、戦時経済の進行の中で米穀取引所の営業は難しく、交渉では営業更新は認めないとの意見であった。これにより伊予米穀取引所は営業満期をもって自然解散となる。ここに明治一〇年(一八七七)米商会所に始まる米穀取引所の五六年間の歴史を閉じることになる。なお閉所時の取引所の役員の陣容を記しておこう。理事長香川熊太郎、理事兼支配人高本秀雄、理事香川和男・近藤貞次郎・宮内安恭である。また取引員は長島新十郎・田村商店代表山本盛信・岡田義朗・近藤亀吉・開亀次郎・永田文蔵・山内浅次郎・西原八百蔵・三好茂高・桑原宅一・加藤正人・藤本朝次郎・土居数馬・遠藤喜三郎である。
 なお香川熊太郎は取引所・新聞経営のほかにも幾つかの事業にもたずさわっていた。明治四五年(一九一二)設立された松山瓦斯会社もそのひとつである。当社の機械設備はすべてドイツ製で優秀なものであった
が、そのため経営コストが高くつき営業不振を招く一因となっていた。しかも電気が普及するにつれてガス需要の伸びも頭打ちになっていた。このため創設者の一人徳本良一は、会社の経営悪化をこれ以上続けるこ
とは好ましくないとして、香川熊太郎に会社の再建を委ねた。大正三年、香川は松山瓦斯会社の専務取締役として就任することを了承し、高須峰造を社長に推挙した。翌四年に高須峰造の社長辞退により香川熊太郎が社長に就任、会社の再建に取り組んだ。また大正五、六年ごろ、今治瓦斯会社も営業不振におちいり、香川に会社再建を要請している。香川はガス事業のほか映画館経営、商工会議所副会頭、公職としては第八代松山市長として市政にもたずさわっている。
 現在、伊予米穀取引所の建物はなく、その面影もほとんど残っていない。しかし同場所には安部能成の手になる香川熊太郎を偲ぶ頌徳碑が建立されている。

 三津の魚市場

 三津の魚市の歴史は古く、応仁元年(一四六七)にまでさかのぼると言われる。つまり河野通春が港山に城を築くや漁民は、この城兵を相手に魚類の取引を始めた。ここに魚市の歴史が始まるというものであるが
、『三津浜魚市沿革録』は「三津在住の下松屋善左衛門が元和二年(一六一六)に魚類売買の紹介を始めた」と記している。これより五〇年後の寛文三年(一六六三)一一月松山藩家老奥平藤左衛門は、天野作左衛
門・天野十右衛門・唐松九郎兵衛の三名に三津魚問屋を申し付け、松山藩の保護が彼らに与えられた。魚問屋の数は元録末までに一八人にまで増えた。享保三年(一七一八)には、毎年正銀一貫目を官納することに
より藩から魚問屋の特権を獲得した。
 嘉永期から明治維新期にかけての間、魚市場は各問屋の売子四八人、売捌き売買高は一日平均銀札六〇貫目にまで及んでいた。七かし明治となるや株仲間の廃止が断行され、元和二年から二五〇年以上の長きにわ
たって、藩の特別保護を受けてきた三津の魚市も、ライバル会社の登場も加わって厳しい時代に直面した。温泉郡吉田村(現松山市)の高本光重は三津魚市の近くで魚市を開設している。このライバル会社設立に先
立って、明治一二年県の魚市税の増額(売上金の百分の一)は、魚市場にとり大きな打撃となっていた。こうした中で三津魚市場は明治一三年(一八八〇)三月、会社組織への切りかえをはかった。三津魚市商社の
免許出願は、辻八郎衛・遠藤桃三郎・柳原織太郎・泉喜七郎ら一五名の連名で愛媛県令岩村高俊に提出され、明治一三年六月に認可される。魚市商会社の頭取には遠藤桃三郎・辻八郎衛の二人が就任し、出納役に泉喜七郎、支配人に船橋助九郎が選ばれた。会社の総株数は六四株と定められ、一株二〇〇円とされた。各問屋の持株数は、明治一三年以前五か年間の各問屋が扱った売上金額に従って割り当てられた。株はすべて問屋が所有することになったが、その持株状況は次のとおりである。辻八郎五・七株、遠藤桃三郎四株、柳原織太郎六株、泉喜七郎六株、青木平八三・九株、岩本重吉四株、白方七郎二・八株、船橋助九郎六株、藪馬幸吉六株、谷庄七三・九株、谷助作四株、雲瀬次平二・六株、遠藤亀一郎三・四株、柳原イチ四株、松本綾太郎一・七株、であるが高田庄次郎は、新市に参加したため持株はない(古谷直康稿、水産物流通の発展と明治維新、『愛媛資本主義社会史』第二巻所収)。
 体制の立て直しをはかった三津魚市会社は、また複雑な魚売買の計算方法の見直しに着手した。つまり売買浜価格百匁八銭三厘三毛を一〇銭に引き上げた。これは高価な魚を買わされるとして魚商の間で悪感情を
ひき起こさせ、魚商の中にライバルの魚市へ移るものもあらわれてきた。
 明治一六年九月、松山の豪商栗田與三・仲田伝之訟らが高本光重の新興魚市場に参加して、当市場を会社組織に変更、有限会社愛魚社としてスタートする。この会社に三津魚市会社の魚商が多く参加し、愛魚社の
景気はにわかに活気を呈していった。
 危機に直面した三津魚市会社は、そこで経営体制の強化をはかった。そのひとつとして、株を従来からの問屋独占から一部公募制に切り加えた。一株二〇〇円を五〇円に改め、総株数を二六〇株とし、その中一九
五株を甲号株、六五株を乙号株として、この乙号株に優先権を与えた。年間の純益が七歩以内のときは、甲号株の配当を減らしてでも乙号株の七歩配当を維持する政策をとった。さらに、また魚の入荷確保のため漁
民・漁商を漁夫連合会と呼ばれる組合組織にまとめた。こうした改革の結果、三津魚市会社は経営の立ち直りをみせ始めた。明治二〇年(一八八七)には資本金を一万三、〇〇〇円に増資し、一株につき三円一〇銭(年一割二分四厘)の配当が実現される。他方、対抗する愛魚社は、周辺漁民が三津魚市会社と取引を始めたために魚の入荷が次第に少なくなり、経営は苦境に陥った。このような状況から三津魚市会社と愛魚社の合併の意見があらわれ、その調停役に仲田槌三郎・石崎平八郎が当たり、彼らの尽力の結果、明治二一年五月、愛魚社は三津魚市会社に合併され、合併後の資本金は一万六、〇〇〇円となった。
 ところで、明治二三年九月、三津魚市会社総会において頭取二神清八は、本社魚市場が屋根をもたないことは一大欠点であると提案し、その建築について意見をうかがった。その結果、屋根建築の賛成を得、その
年の一一月に名物の丸屋根が取り付けられることになった。
 明治三五年(一九〇二)から三九年までの五か年間売買紹介金高は表商1-11のとおりである。なお売買紹介金高が下半期に大きいのは、冬場に魚類の品が多くなるところからである。

 なお、明治以後、旧来の規制が取り払われたことにより、県内各地で新興の魚市場二一の成立をみた。今、明治一七年までについて列挙してみよう。

   明治期成立の魚市場(明治一七年まで)
 成立年代     所在地
明治一二年    喜多郡長浜町
   一四年    西宇和郡八幡浜浦 同郡朝立浦 同郡安土浦
    ″     新居郡新居浜浦学中須賀(二か所) 同郡同字東須賀
    ″     宇摩郡三島村
   一四年以前  北宇和郡堅新町 同郡魚棚村 同郡岩松村
    ″     東宇和郡卯之町
    ″     新居郡明屋敷村字喜多浜七三四
    ″     宇摩郡蕪崎村
   一五年以前  北宇和郡袋町一丁目
    ″     伊予郡湊町
    ″     野間郡小部村
   一六(一二)年以前 和気郡三穂町五一
   一七年以前  野間郡浜村
    ″     桑村郡壬生川村(二か所)
                                                (古谷直康、前掲論文より)

 三津浜の街

 三津魚市会社のある三津は、松前城主加藤嘉明が松山城を築き、これに伴って松山城下町の物資移出入の地として発展の機会を得た。三津には加藤嘉明が移城の際、松前の有力商人が移り住み、松前町と呼ばれる
町区をつくった。物資移出入の地として、また水軍の根拠地として三津の港は、その機能をいかんなく発揮してきた。船舶の輻輳する要港となるや、商取引も盛んとなり、当地に海産物・米穀・乾物・回漕問屋など
が賑わいをみせ、倉庫などが軒を連ねる物資集散地として活気を呈すものであった。明治二一年(一八八八)、松山~三津間の伊予鉄道の開通は、住吉商店街といった新興の商業地区の形成を促した。三津地域の商
業の発展は金融機関の必要性をもたらし、明治二九年三津浜銀行が近藤貞次郎らの人達によって創設された。近藤貞次郎は三津魚市株式会社の取締役であり、また香川熊太郎とともに伊予米穀取引所の運営にも関わった人物である。さらには愛媛農工銀行取締役の経歴を持つものである。三津浜銀行のほかに当地には、今治商業銀行・仲田銀行が支店を開設していた。三津の商業発展に伴い娯楽機関も賑わいをみせた。明治期、永楽座・柳瀬座は連日賑わいをみせ、明治四〇年ごろには、既に映画の上映も始められていたと言われ、文化面でも三津は進んだ町のひとつであった。

表商1-9 松山米商会所の株主・仲買人・資本金その他

表商1-9 松山米商会所の株主・仲買人・資本金その他


表商1-10 松山米商会所売買出来高

表商1-10 松山米商会所売買出来高


表商1-11 三津魚市会社売買紹介金高

表商1-11 三津魚市会社売買紹介金高