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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

三 地方の商業地区―在町の状況

在町の状況

 県内各地には在町がその周辺域の商業中心地として存在していた。和気郡には三津町、風早郡では辻町・柳原町、野間郡では波止町、周布郡では丹原町が、そして川之江には上分・下分・金生町があり、松野町方面には吉野・宮野下・松丸・近永の在町があった。しかし明治・大正・昭和にかけて近代交通機関の発達に伴って、在町の中には商業上の重要性を失うものももらわれた。
 松野町には、吉野川沿いに吉野町・松丸・近永の町が高知と愛媛の物資の取引場所として栄えていた。また松野地域では茶・製蝋・椎茸・製紙・酒などの当地特産物も取引され、関西方面へ問屋を介して売られていったものもある。吉野町へは宇和島方面から塩・米・酒・醤油・魚・菓子などの日用品が持ち込まれていた。明治六年(一八七三)の制限株の廃止の結果、吉野には明治八年ごろ、土佐寄りの谷間に新地が生まれている。明治一〇年(一八七七)の吉野の商業についてみると、仲介業が一九戸、問屋業一三戸が数えられ、また馬で物資を運搬する駄賃が四戸あり、この地方の商品流通の上で占める地位の高さが分かる。物資流通上、また近在の換金作物の集散地としての吉野も換金作物の生産の不振、宇和島から県道の開通、大正一二年(一九二三)の宇和島から吉野までの鉄道の延長は、在町としての吉野の衰退要因になった。職業構成でみると明治四〇年(一九〇七)に問屋業四戸・仲介業五戸、昭和七年には問屋一戸・仲介二戸へと減少し、近代交通機関の登場により駄賃も姿を消していった。
 吉野とともに松丸もこの地方の商業中心地として栄えていた。松丸には紙や蝋を大阪と直接取引していた吉田屋、酒屋に正木・吉良の商家があり、製蝋では山口・岡田の商家が軒をつらねていた。彼らはいずれも
地方の豪商であった。また雑貨商の岡忠・岡清は宇和島でも匹敵するものはいないと言われた商家である。また藩政時代から地方物資の集散地である宮野下からは、茶・蝋・酒粕・油玉・椎茸・蕨粉・金物類が各地
に送り出され、明治四二年(一九〇九)の商業戸数も六五戸をかぞえた。
 川之江地方では上分町が藩政時代から街道に沿うて商家が軒を連ねていた。当地は土佐・阿波との物資流通の要衝の地であった。天保一三年(一八四二)の『西條誌』から上分村の状況をみてみよう。「川あり、
上分川という。この川に土佐と阿波とへの道二筋あり。南へ向き、金川村の方へ入れば、土佐路なり。川を渡り東へ行けば、阿波路なり。阿波境迄二里余、土佐境迄五里余り。阿波の三好郡の内十力村余、土佐の本山郷の内十カ村程の者、楮の皮、櫨の実を始め、色々の産物を出すには、必ず当所を経、三島・川之江等の町に鬻ぐ。近来当所に商家多く出来、かの山物を買取るゆえ、土地自然と繁昌し、屋を並べて街衢の如し。富めるもの少なからず見ゆ。土佐侯、江戸往来の路逕なり。」。つまり上分村が土佐・阿波からの交通の要衝の地にあったことが、当地の商業の発展につながった。前記の『西條誌』によれば、上分村の家数一七九軒、人口約七六八人と記されている。明治に入っても上分町の商業上の位置は変わらず、呉服・みそ・酒造業・金物・雑貨商・質屋・旅館などが軒を並べる一商業集落地を形成していた。明治八年(一八七五)当地には、戸数三六八戸があり、そのうち農業一九一戸、商業五九戸、工業一二戸、雑業一〇二戸である。明治四〇年(一九〇七)には商業六〇戸、その内訳は雑貨商五戸、呉服商四戸、穀物商一〇戸、履物商三戸、荒物乾物商二戸、小売商三回戸となっていた。昭和初期においても上分町は土佐・阿波からの交通の要衝地であった。問屋・旅館・木賃宿の存在はそのことをもの語っている。しかしその後、川之江市の商業中心地として栄町商店街の登場は上分の地位の低下をもたらすことになる。上分町とならんで、もうひとつの商業集落地として下分と山田井とから成る金生村がある。下分は明治以前から手漉和紙で知られ、明治六年の下分村の戸数三二七戸のうち二六七戸が農業、一二戸が工業、一戸が商業、四四戸が雑業で、残りは僧侶・医者などであった。明治一一年の下分村の人口数は一、五九一人である。山田井村の人口数は一、三二一人である。金生地区の主要産物は米・麦・大豆・稗の穀物のほか、綿・藍・櫨実・楮の商品作物や燈油・油糟・紙・傘であった。とりわけ藍・櫨実・楮・紙は各地への移出品になっていた。金生地区の中で下分村は地質が良く、農業に適した土地であるが、山田井村は相当に苦しい土地であった。綿作地として不向きな土地のため繊維業の発達も望めなかった。明治一〇年代ごろと思われる『伊予国宇摩郡地誌』によれば、山田井村の主要移出品は米(一か年間移出高六〇石、その金額三六〇円)と柿実(一か年間移出高一〇万個、その金額一〇〇円)にしかすぎなかった。これに対して下分村では奉書紙(年間輸出高一、二〇〇束、その金額一、六七四円)、実綿(年間輸出高四万六、五〇〇斤、モの金額二、三二五円)、藍葉(年間輸出高九〇〇貫目、モの金額一六八円)など移出品に恵まれていた。村内の生産物は、自家消費よりもむしろ村外移出品であった。ちなみに明治二六年(一八九三)の金生村の物産でみると、紙九〇万束のうち消費高七〇〇束、残り八九万九、三〇〇束が移出品であった。米は三、八三九石のうち七六八石が消費高で残り三、〇七一石が移出品だった。櫨実では産出高八、〇〇〇貫すべてが移出品となっていた。甘蔗・甘藷・芋魁などは村内消費が極めて高いが、前述の紙・米・麦・砂糖・櫨実・種油糟などの物産は移出品としての性格を強く有していた。それはまた卸売商・仲買商の成立をもたらした。このほか金生村には小売商をはじめ質屋・古衣屋・宿屋・飲食などを生業とする雑商が多数あった。
 街道沿いに成立した小邑は、そのほかにも県内各地でみられた。木蝋で有名な内子は街道に沿うて成立した街村である。砥部の原町は広田・小田・久万・土佐から松山・郡中への街道の要衝の地に位置していたと
ころから商家が軒をならべる街村へと変化する。明治二四年(一八九一)、松山から三坂・久万・柳谷・高知への土佐街道の開通、大正元年(一九一二)の郡中線の県道開通により人・物の往来が促され、これにより原町では商業を生業とする者が増えていった。しかし、自動車交通の普及とともに原町は街村としての機能を次第に失っていくのである。






図商1-1 明治10年の吉野

図商1-1 明治10年の吉野


図商1-2 明治末葉の上分町の中心地

図商1-2 明治末葉の上分町の中心地