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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

三 道路トンネルの威力

 海上における掘切り運河(人工航路)の短絡効果に陸側で対応するのは、道路トンネルであろう。しかし、後者が地域社会に及ぼしたインパクトは海上運河のそれをはるかにしのぐものがあった(特に戦後の南予地方においては)。その理由としては次の三つがあげられよう。(1)輸送・交通の自動車化も手伝って、道路に依存する生活・経済活動の密度の濃さは海上のそれの比ではない、(2)海上運河の短絡効果がいわば平面的であるに対し、道路トンネルのそれは立体的・平面的効果の両面にわたっている、(3)トンネル技術の進歩が著しく長大トンネルが可能になった。げんに、四国地建管内におけるトンネル工事の推移をみても、昭和四二年度に至り急速な増加を示し、しかも長大トンネルの施工が目立っている(『四国地方建設局二〇年史』)。これはこの時期に一次改築の主力が注がれた五五・五六号の地形的特性と道路整備のスピードアップという要請によるものであろう。施工技術における大きな進歩は、鋼製支保工の使用である。従来の木製支保工から鋼製支保工への転換は、作業の安全・迅速はもちろん、トンネル強度の増大に大きく寄与している。また、鋼製支保工施工に伴う切羽の拡大は掘削における大型機器の使用を可能にし、施工速度の向上に役立った。
 以下では南予地域における国道の一次改築事業における道路トンネルの建設及びその効果をみてみよう。

 酷道の解消と南予の夜明け

 国道五六号の一次改築は昭和三八年に始まり、内海トンネル・法華津峠・鳥坂峠・犬寄峠などの難所を解消して昭和四六年完了した。一九七号では四国最長の夜昼トンネルが同じく四六年に開通した。以下では法華津・鳥坂・夜昼の三トンネルの時間短縮効果などをみてみよう。
 〈法華津トンネル〉 北宇和郡吉田町と東宇和郡宇和町の境にあるトンネルで、長さ一、三二〇m、幅八m。法華津峠(標高四三六m)付近はカーブの連続で、見通しが悪く勾配も急であって、五六号のなかでも最大の難所とされていた。この区間において法華津トンネルをはじめ玉津五か所、白浦四か所、合計一〇本のトンネル(総延長二、四五三m)の掘削が始まったのは昭和四二年(一九六七)一二月で、四五年三月すべての工事が完成した(総工費約一五億五、〇〇〇万円)。旧来の峠越えに比べて距離にして約四・七㎞、時間にして三〇分の短縮効果がもたらされた。
 〈鳥坂トンネル〉 大洲市と宇和町の境にあるこのトンネルは、長さ一、一一七m、幅八m、高さ四・五mである。昭和四四年二月に着工され、四五年一〇月完成した。この結果、これまで鳥坂峠一四・八㎞は六・八㎞に短縮され、車の走行時間も四〇分から一〇分へと四分の一となった。右の法華津トンネルに続くこのトンネルの開通によって、前年完成していた犬寄トンネルと併せて五六号の三大難所にいずれもトンネルが開通したことになり、南予から松山方面への距離がうんと短縮されることになった。人々は改めてトンネルの威力を認識し、南予の夜明けが来たと歓迎した。
 〈夜昼トンネル〉 夜明けがまだ来ない道路があった。その名も夜昼峠という険難な峠によって、隔てられていた八幡浜地方であった。これを貫く夜昼トンネルは昭和四三年八月着工、約一五億円の工費をもって同四六年四月開通した。長さは四国で一番長い二、一四二m、幅八・二五m、高さは四・五mである。このトンネルの開通によって、旧道経由の約二一㎞、車で約五〇分の区間が約一四㎞、二〇分に短縮された。その結果、隣接する八幡浜市と大洲市の間の、あるいは八幡浜市と松山市との間の経済交流(例えば商業面)にも大きな変化が生じた。また土地の狭い八幡浜市から住宅や工場が大洲市(例えば平野地区)に流出する現象もみられるようになった。

 戦前のトンネル

 ところで、トンネルは当然のことながら戦後だけのものではない。戦前のトンネルの話題を町村誌から拾ってみよう。
 大正六年三瓶村(現三瓶町)で三瓶トンネルが開通した様子が次のように記されている(『三瓶町誌』)。
 三瓶トンネルは、同村日吉崎から久勝寺・松ノ木の上を通り、桜谷に出てトンネル経由卯之町に達するものであり(現在の主要地方道宇和三瓶線)、峻険な山道を越さずに往来できるようになった。この開通に村民は歓喜した。盛大な開通祝賀式を行ったが、三瓶小学校(当時は尋常高等小学校)の訓導が次のような歌を作って児童に歌わせたという。

   三瓶トンネル開通の歌(大正六年)
        作詞 拝志 匡   曲 鉄道唄歌
 一、御代の恵を仰ぎつつ 西宇和郡の南なる
     三瓶の村に住む者は げに幸福の人々ぞ
 四、今や東はトリツキに 伊予第一のトンネルを
     穿ちて宇和の天産を 入るる港も賑はばや
 『城辺町誌』によると城辺町では、町の中心地城辺と深浦(当時は東外海村)を結ぶ深浦トンネルが昭和一六年一〇月完成した。両地区間は人的・物的交流が繁かったにもかかわらず山越えの道で住民の不便が大きかったものである。待望久しかった深浦トンネルは長さ二九〇m、幅員三・七m、総工費九万一、〇〇〇円ということであるが、これにより徒歩時間で二十数分短縮されただけでなく、車馬の往来が飛躍的に増大した。
 最後に、先に述べた法華津トンネルについては前史がある。『吉田町誌』によると、明治の初め白浦の旧庄屋赤松則忠は、法華津トンネルの掘削による吉田・卯之町間新道の開設を計画した。自宅から天保小判を持ち出し、人夫を雇って実地測定にあたった旧庄屋を、世人は狂気の沙汰として嘲笑した。しかし、当時赤松則忠が測量した掘削地点は、現在の国道五六号のそれにほぼ一致するといわれている。下って大正中期、法華津峠にトンネルを開掘し、陸上交通路の改善によって東宇和郡への経済圏拡張を唱える議論がおこる。しかし、当時同町では交通の陸主海従論と海主陸従論がたたかわされており、その段階では後者が優位だったこともあって、法華津トンネル掘削論は机上の空論として黙殺されたのである。