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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

二 国鉄仁堀航路

 開設の経緯

 昭和二一年(一九四六)五月一日、呉線仁方駅と予讃本線堀江駅間を連絡する約七㎞の国鉄連絡航路「仁堀航路」を開設し、長水丸で一日二往復就航の国鉄仁堀航路はここに開航した。
 堀江は中世には福角港といわれ、古くは河野氏の拠点港、江戸時代には松山藩の貢米積み出し港であった。旅客は三津、貨物は堀江という時代が長く続いた。昭和二年(一九二七)讃予線(予讃線と改称されたのは昭和五年)が松山まで開通して堀江駅が開設され、また戦後まもない同二一年五月に本土連絡「宇高航路」(宇野~高松)の補完航路として堀江港は開航した。
 地元住民の開設運動は、日中戦争の始まった昭和一二年半ばからもちあがっていたが、戦時中の宇高航路の輸送量は、極度に低下し窮迫の度を加え、国鉄でも戦争の進展につれて輸送事情がますます悪化した。その緩和策として仁堀航路は旅客のほか、貨車航送の計画も練っていたが、それも終戦で一時中断された。戦後の本土対四国の客貨輸送は宇高航路に集中、以前にも増して混乱した。そのような事情も重なって四国鉄道管理局では、宇高の補助航路として西瀬戸の仁堀航路を開設したのである。

 最初の就航から航路廃止まで

 最初は関門(下関~門司)の中古船「長水丸」(三九三トン)が就航し一日二往復運航した。当初の運賃は、三等で大人片道六円とかなり高価だが、物資・食糧の不足したころで引き揚げ者も多く、一時的に定員五三〇人を上回る六〇〇人以上を一度に運んだこともある。開設当時の五月には一万八、〇〇○人、さらに同年一〇月には三万人を超え、当初のもの珍しさも加味されて、年間通しての一日平均利用人員は、六八五人にも達し活況を呈した。その後、水島丸(三三三トン)・五十鈴丸(一五三トン)・安芸丸(二五〇トン)・瀬戸丸(三九九トン)の四隻が就航し活躍したが、昭和二四年度以降、戦後の混乱状態も生活物資の充実や政治の安定と共に平静さをとりもどしたので、仁堀航路の輸送は逐次下降した。それにつれて経費は増大し経営難に陥り、経営合理化のため同二四年一一月より、一日一往復にするなどの経費節減対策がとられた。便数の削減も影響して、一日平均利用人員は一〇〇人前後に激減した。二六年一二月から小型ディーゼル船で、定員二四二人の五十鈴丸が一日二往復で就航したため、一時的に利用客は増加したものの、三四年度の二三三人をピークとして再び減少傾向をたどった(表交3―20)。それに先だち、存続か廃止かで岐路にたっていた仁堀航路は、三一年四月一日より広島鉄道管理局へ移管された。
 昭和四〇年代のモータリゼーションの到来で、同四〇年七月一日からフェリーとなり自動車航送を開始したが、民間フェリーとの競合や水中翼船・高速艇の出現で利用客は減少し、一日平均一五〇人、自動車も二〇台を割り五六年度は一二一人、一七台となって営業係数も四〇〇台に落ち込み、年間三〇〇万円を超す赤字を出すに至った。
 これらの状況から国鉄当局は、仁堀航路の廃止を決定し、五七年六月三〇日をもって、その歴史に終止符をうった。思えば戦後混乱期の昭和二一年五月の営業開始後、三六年間に乗客二三七万人、自動車一一万台を航送したのである。現在は三九年から民間の呉~松山フェリーが一日一六往復運航し、主に輸送用機械などの貨物を搬出している。

表交3-20 仁堀航路年度別旅客・荷物・自動車輸送実績

表交3-20 仁堀航路年度別旅客・荷物・自動車輸送実績