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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

四 来島海峡通航史

 美しい魔の海峡

 来島海峡という場合、どのぐらいの広さの海域を指すか必ずしも明らかではない。ごくおおざっぱにいえば、今治市北方と越智郡大島との間の海域ということになる。幅約三㎞と狭く、しかもその中に津島・馬島・小島・来島などの有人島、中渡島・武志島・大突間島などの無人島を含むため、複雑な潮流となる。安芸灘・斎灘と燧灘を分ける位置にあり、それらからの圧流を受けて急潮流となり、南流(満ち潮)の最盛時には一〇ノット以上になる。また鳴門海峡と並んで激しい渦潮も有名である。瀬戸内海交通の要衝に当たり、大型貨物船・タンカー・フェリーのほか水中翼船や島々を結ぶ渡海船・漁船などが航海するが、複雑な地形のため通航中航路を二度変えなければならず、古来海難が多く、美しい景観にもかかわらず魔の海域と恐れられてきた。
 来島海峡が歴史上に大きな意味をもつようになるのは、来島が来島氏の居城となった室町期である。来島氏は因島村上・能島村上と共に村上三島水軍の一翼をにない、河野氏旗下の主力であった。しかし、戦国時代末期秀吉の海賊禁止令などによって伊予水軍は没落し、来島城は廃城となった(来島氏は戦国を生き抜き、豊後森に領地を与えられて大名となった)。明治初年には内海防衛上注目され、三原水道の大久野島と共に、小島に砲台が建設された。

 航路施設等の整備

 『なみかた誌』(昭和四三年)によると、帆船時代に小島に引船業というものがあった。帆船が来島海峡を通り抜けるのを助けることを商売とするもので、最初は腕力の強い者か何人かで小船を漕いで帆船を曳航した。その後発動機船が使われるようにかったが、これを「つけ船」と呼び、小島の係船場に控えて通航船を待ったが、けっこう仕事があったという。内海を通航する帆船のいわゆる伊予地乗りコースだったからである。
 明治二五年(一八九二)、海峡の北、関前村の大下島に灯台が設置された(明治一二年に浮標設置)。これがこの海域における灯台の最初である(本県では明治六年(一八七三)松山市沖の釣島に灯台が設置されたのを嚆矢とする)。続いて明治三五年には来島中磯灯台とコノセ灯台が設置され、大正に入ると四年桴磯灯台、六年竜神島灯台、九年来島白石灯台などが設置された。現在この海域に設置されているのは、灯台(陸上に立つもの)が八、暗礁に立つ灯標が四、ブイで浮かぶ灯浮標四、導標が一である。
 来島海峡の特徴は潮流信号所が整備されていることである。明治四二年日本初の潮流信号所が中渡島に設置された。昭和に入って二九年(一九五四)には大浜(今治市)潮流信号所、四三年に津島(吉海町)信号所、五〇年に来島大角鼻(波方町)潮流信号所、五二年に来島長瀬ノ鼻(吉海町)潮流信号所がそれぞれ設置された。当初は腕木式などの簡単なものだったが、最新の来島長瀬ノ鼻と来島大角鼻のものは、電光表示板(灯光信号)により来島海峡中水道における流向(NまたはSによって北流・南流を)、潮流の流速が早くなっている時は上向きの矢印(↑)、遅くなっている時は下向きの矢印(↓)で示し、さらに現在の潮流の流速(Oから9の数字でノットを指す)を表示している。
 航行方法の規制に関しては、昭和二七年特定水域航行令の指定海域になった。これは、例えば燧灘から北上していく大型船は、南流(逆潮)の場合は西水道、北流(順潮)の場合には中水道を通るべし(順中逆西)、というように四つの水道(ほかに東水道、間瀬戸)の交通規制方法を決めたものであった。しかし、経済の高度成長に伴う通航船舶の増大(一日一、〇〇〇隻以上)が続き、船舶の大型化などによって海難事故の重劇度が高まってきたため、昭和四七年、政府は「海上交通安全法」を制定、これによって備讃瀬戸航路・東京湾航路などと共に来島中・西水道が「来島海峡航路」として設定され、この海峡内の通航方法が規定された(長さ五〇m以上の船舶)。
 昭和四九年には瀬戸内海主要幹線航路整備事業の一環として、西水道北口に点在するコノ瀬岩礁が灯台と共に撤去され、マイナス一九mまで掘り下げられた。また同年、この航路は開発保全航路に指定され、港湾法に基づいて国が航路の整備・維持・管理に責任を持つものとされた。

 痛ましい海難事故

 こうした整備が行われる以前の海難事故を二つ紹介しよう(『愛媛県警察史』ほかによる)。
 昭和六年一二月二四日午前五時三〇分ごろ、越智郡亀山村大字名駒(現吉海町)竜神灯台東南約四〇〇mの海上で、大阪商船株式会社所有の大阪・鹿児島航路定期船八重山丸(九六四トン、船長宮地修一)が、大阪商船のチャーター貨物船関西丸(八、六一八トン船長大山正信)と衝突して沈没した。現場が「魔の竜神崎」と呼ばれる来島海峡の難所であり、しかも真冬の事故であったため、八重山丸乗船者八九名のうち四九名(乗組員四、乗客四〇、便乗乗組員家族五)が死亡または行方不明となる惨事となった。『今治警察署沿革史』には、「(翌)昭和七年一月迄二於テ死体発見セシモノ二十三、其ノ他ハ判明セス」と記されている。
 昭和二〇年一一月六日午前九時三〇分ごろ、越智郡伯方町木ノ浦六ツ瀬磯沖合い約二㎞の海上で、瀬戸内海汽船株式会社所有の尾道・今治連絡船第十東予丸(一六二トン、船長阿部義久)が突風を受けて沈没した。乗船者約六〇〇人のうち四五〇余人が死亡または行方不明となり、愛媛県における海難史上最大の惨事となった。同日朝同船は乗客定員が二一〇人にもかかわらず、広島県尾道港で済州島方面からの復員軍人約四〇〇人と一般乗客約一八〇人を乗船させ、定刻より少し遅れて午前七時一六分に出帆した。晴天であったが風が強く海上は荒れていた。
今治に向かっていた同船は、午前九時三〇分ごろ現場にさしかかり、折からの突風を受けて大きく二、三回揺れると、定員の約三倍の乗客と荷物を満載していたため復元力を失い、一瞬の間に転覆して沈没したのであった。
 海難事故は依然後をたたない。図交3―11・表交3―16は来島海峡における事故多発場所と、近年における旅客船・フェリーの事故を示したものである。

図交3-11 来島海峡での衝突乗揚げ事故 昭和37~45年

図交3-11 来島海峡での衝突乗揚げ事故 昭和37~45年


表交3-16 近年の海難事故(来島海峡近辺のみ、旅客船・フェリーのみ)

表交3-16 近年の海難事故(来島海峡近辺のみ、旅客船・フェリーのみ)