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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

九 乗合馬車の盛衰

 わが国の乗合馬車略史

 乗合馬車は、初め外人経営で行われた。横浜居留地のシールス商会が横浜~箱根間の乗合馬車を始めた。日本人経営で乗合馬車が始まったのは、明治二年(一八六九)七月のことで、同じく横浜~箱根間であった。同じころ下岡蓮杖が横浜~日本橋の往復乗合馬車を開業している。東京~横浜間の往来では乗合馬車が人力車にかわって栄えたが、明治五年(一八七二)汽車が開通すると、この区間ではぱったりとさびれてしまい、乗合馬車は新橋や品川で客を送り迎えするようになった。
 明治三年には東京~高崎間に馬車営業が始まり、乗客はもちろん貨物も運んだ。同一二年には、乗合馬車は東京~宇都宮まで延びるが明治一四年には、六年計画で青森まで延長する計画がたてられたという。
 東京では、この乗合馬車を円太郎馬車と呼んだ。橘家円太郎という落語家が、乗合馬車の助手が万世橋・浅草などでラッパを吹いてお客さんを待っている風景を演じたところから、円太郎の名がついた。馬二頭引きの馬車は一〇人乗り、一頭引きは六人乗りだった。
 関西では、明治六年、大阪~京都間に定期乗合馬車が登場したが、所要時間は五時間だったという(瀬沼茂樹ほか『旅行百年』参照)。
 このように乗合馬車は、鉄道発達以前において陸上公衆輸送機関としての役割りを担い、また自動車の登場まで鉄道を補完する役目を果たしたのである。しかし、既述のとおり、わが国維新前には馬車交通の歴史がなかったため、道路条件の整備が必ずしも対応せず、自動車時代にはスムーズにつながらなかった。

 愛媛の乗合馬車

 表交3―11に見られるとおり、愛媛県に乗合馬車が登場したのは明治三〇年代初め、最盛期は明治末年から大正前半期である。鉄道が県内に延びてきた昭和期に入ると急減している。以下、県下各地の状況を市町村市誌などによってみてみよう。
 『新居浜市史』によると、明治三〇年代、金子村(現新居浜市)の巡査鈴木某が警官を辞任して客馬車を開始したのが始まりという。鈴木は、六人乗りの客馬車を作り、警官時代の古服を着用し、ラッパを吹き鳴らしつつ馬車をあやつった。鈴木が老境に入って休止した明治来年から中須賀の加藤里次が客馬車を開業、人々はこれを里馬車と呼んだという。登道から喜光地に出て国領に、ここから船木・関ノ峠を越えて土居の誓松まで運行した。一方、明治三三年枯松の高橋弥五郎が、土居・枯松間の定期馬車を開始、続いて中萩土橋の竹内県が枯松・西条間を運行するなど数業者が開業した。馬車は初め六人乗り、後に一二人乗りとなった。
 しかし、大正一〇年(一九二一)国鉄新居浜駅・中萩駅が開業し、客馬車は姿を消すようになった。
 『今治市誌』は次のように誌している。
「明治三六年に柳社が、周桑郡三芳方面に運転をはじめ、今治の駐車場は、柳町(現在の旭町一丁目)においた。その後周桑郡三津屋行き、越智郡竜岡方面行きができ駐車場はドンドビにあった。また、別宮に駐車場をおいて、菊間、時には松山方面へ運転するものが出来、桜井や菊間にも営業所ができた。馬車は六人乗りで、鉄輪であって(後大正年間に入るとゴム輪も出現した)、哀調のラッパで乗客を呼んだ。明治四四年には今治町に五台、日吉村に三台、盛況時には柳社五台、ドンドビに三津屋行四台、竜岡行二台、別宮に菊間行が四台あった。大正一〇年末には、一〇台を数えた。国鉄予讃線の西進開通にともない、漸次運転範囲をせばめ、大正一四年菊間駅の開通により、竜岡行のみ一台となったが、翌一五年鈍川行自動車の開通で、完全に姿を消した。」
 中予ではどうだったか。『北条市誌』によると「明治三三年六月には松山木屋町~堀江~北条間に客馬車がラッパを鳴らして走るようになった。」ということで、料金は明治末年一八銭、大正中期三六銭であった。
 こうした状況を受けて、愛媛県は明治三三年一一月一日付で乗合馬車営業取締規則を制定した。
 南予地方では、鉄道が遅れたぶん乗合馬車の寿命が延びた。『八幡浜市誌』によると、同市で乗合馬車が始められたのは明治三四年(一九〇一)で同四三年にはそれが八台にまで増加している(六人乗り)。当時、乗合馬車の料金は、八幡浜~大洲間で四五銭であったが、米価が一升一五銭の時代であったから、現在のバス賃と比較してかなり高く、利用も限られた人達であったと思われると書いている。
 交通の不便な三瓶町でも客馬車があったようである。『三瓶町誌』によると大正の初めに朝立の朝田俊之三は客馬車事業を始めた。「定期便ではなくて、客の求めに応じて村内とか八幡浜とか、宇和へ出掛けたようであるが、長続きはしなかったようである。」
 県内で乗合馬車が一番遅くまで残っていたのは御荘町である。『御荘町誌』による乗合馬車は明治末年ごろ、人力車に遅れること数年で導入されたという。同町誌の誌すところをしばらくみてみよう。

  「昭和十九年最後まで客馬車をやっていた馬場の谷口増太郎の話によると、大正時代平城に節崎の藤井クマ(熊之助)、ツネ(常治)、大西トク(徳市)、久(久市)とで五台、長崎に一合で六台あったという。米五〇銭、酒六〇銭の頃、平城・長崎一〇銭、船越五〇銭の運賃だというから人力車よりは安かった。一度に六人乗せる客馬車を庶民の乗物とすれば、人力車は高級車だった。その客馬車とて高く、一般庶民は自分の健脚に頼るほかなかったのである。」当時の乗合馬車は人力車よりは遅かったが、自転車と競争しても「いっかな負けんかったそうである」とも書いている。

表交3-11 乗合馬車台数の推移(各年3月末現在)

表交3-11 乗合馬車台数の推移(各年3月末現在)