データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

七 愛媛船主――現代の伊予水軍

 現代の伊予水軍

 「春潮や和寇の子孫汝と我」今治市の波止浜湾頭の碑にある高浜虚子の句である。ある時は激しく、ある時は悠々と流れる来島瀬戸の潮流を眺めて、伊予水軍と呼ばれた祖先の活躍をしのび、今を想ったのであろう。
 この句碑のある所からつい目と鼻の先の来島、大島と伯方島(共に越智郡)間の船折の瀬戸の真っ只中の能島、因島(広島県)。この三つの島を根拠地とし、それゆえに〝村上三島水軍″と呼ばれた中世の伊予水軍は「船に乗りより潮に乗れ」といわれたくらいの急潮渦巻く航行困難な瀬戸に臨んで城砦を築き、潮流を知悉して内海水面をわが庭のごとく往来した。また、南北朝時代にはいわゆる倭寇として大陸や朝鮮半島の沿岸で猛威を振るったともいわれている。
 こうした海の民としての自由な精神とたくましいエネルギーは、現在に至るも愛媛県人の血に脈々と受け継がれているのだが、それを象徴するものの一つに、いわゆる「愛媛船主」の存在がある。ここで愛媛船主というのは、愛媛県を本拠として船舶を保有し(多くの場合乗組員付きで)運航業者に貸し渡すことを専業とする海運業者の総称で、愛媛オーナーとも呼ばれるものである。来島海峡に面する今治市、越智郡波方町などに特に集中しているこの伊予水軍の末裔たちは、戦前も山下亀三郎(山下汽船の創設者)、勝田銀次郎・新田仲太郎ら、数多くの著名な海運人を輩出させたが、戦後特に急成長を遂げ、近年では表交3―4に見られるとおり総計で一〇〇万総トンを上まわる内航船、近海・遠洋船を保有してわが国海運業界に重大な影響力を持つに至った。彼らの保有・支配する船舶はわが国沿岸だけでなく、世界の七つの海を駆けめぐっており、現代の伊予水軍を自称するのもむべなるかなである。

 発展の要因

 愛媛船主の歴史的発展過程は、おおまかにいって、帆船時代、大正期から昭和二〇年代までの機帆船時代、昭和三〇年代以降の小型鋼船時代及び昭和四〇年代以降の近海・遠洋進出時代に四区分できる。愛媛船主が今日の大をなした要因は右のそれぞれの時期にあるだろうが、なかでも重要と思われるものは機帆船時代と小型鋼船時代にあると思われる。
 機帆船時代の意味はこれまであまり大きく評価されなかったが、帆船による買積み形態から機帆船による賃積み形態への転換がスムーズに行われたのは、六で述べたように機帆船に適する石炭輸送需要が瀬戸内海域に折よく存在したからであり、他の地域(例えば北前船主の地域)では得られなかった条件であった。
 愛媛船主の機帆船から小型鋼船への切り換えはす早いものだった。す早い切り換えを可能にしたのは、船主自身の条件と地元に発達していた造船所の存在である。船主側の条件については、和船から機帆船への切り換えを経験した船主にとって小型鋼船への転換にさしたる抵抗はなかったものと思われる。造船所の存在、特に愛媛方式とも呼ばれる特異な船舶金融方式の果たした役割は大きかった。愛媛では、船は船主が造るのではなく「造船所と銀行が造る」のだともいかれた。要するに、造船所が船主に「機帆船を売れ、その代金で鋼船を造ってやる。あとは延べ払いでよい」という方式である。同じく海に生きる漁師達の釣り払い(漁師達が漁具や船具を買った場合、魚を釣って金を得てから後払いするやり方)に毛の生えた程度の借金の仕方しか知らなかった船主達が、今や「船を貸し屋、金を借り屋」に変身したのである。この方式は後の近海・遠洋進出時代においてもほとんど変わらず機能した。

 愛媛一の船どころ

 県下で船主(オーナー業者)が多く集まっている地域は、今治・波方地区、越智郡伯方島、松山市、北条市、南予では三瓶町などである。これらのうち波方町・伯方町・三瓶町における船主業発展の過程を各町誌で見てみよう。
 『なみかた誌』(昭和四三年)は、さすがに海運業と造船業にかなりの紙数を割いている。それによると、明治二年(一八六九)波方の真鍋福太郎の父(屋号マトバ)なる人がいわゆる千石船大栄丸を運航して鹿児島江戸廻りの航海をした。土佐沖を直行して、東京へ航行したわけで「難事であったと思うが、来島海賊を祖とする波方海運業者にして敢えてなしえたものであろう」と書いている。しかし、これは特別で、普段はもっと近まわりの船稼ぎをしていた。明治前半においては、それはまず菊間行き土船であった。波方の粘土を混ぜることで菊間瓦は良質なものになるのでその土を菊間まで運ぶ。その復荷にスバイ(素灰)を積んでこれを売り捌いた。次いで塩田の入替砂を波方の海岸から波止浜の塩田に運ぶ船もいた。
 『なみかた誌』は波方船主業発展の要因、特に明治・大正期のそれを次の四点にまとめている。
  ① 牧野、真鍋など優れた先覚者がいたこと。
  ② 泥船、スバイ船、浜の入替土船の船主達が蓄財して、大型帆船に移っていったこと。
  ③ 来島、波止浜の船の乗組員となって(来島海峡の引き船など)、操船の技術を修得し、船員免状あるいは船長の資格を得て、その技術と財とでたたきあげ、積み上げから船主となって自ら航海するに至ったこと。
  ④ 石炭船として宇部から阪神地方に航行する。これは外海を一部通りぬける若松行きよりも容易であり、且つ宇部炭が盛んに売り出した時期で、タイミングがよかったこと。
 昭和九年(一九三四)、山内才松が大浦の山中造船で機帆船を初めて新造した。これを契機に改造・新造が盛んになった。
 昭和二六年、斎宮源四郎は八〇〇トンの鋼船を新造して、機帆船から鋼船へのトップを切った。これにつられ鋼船がぼつぼつ増え、三〇年には七隻になった。以後次々と鋼船への転換が行われるわけだが、その資金については以下のように書いている。
  「大体において、自己資金が三分の一あれば、他の三分の一はドック会社で年賦償還を認め、その償還はチャーター料から差し引くから難なく支払われる。残り三分の一は銀行其の他から融資を受ける。これは一種の冒険であったかもしれぬ。それで世間では愛媛には月賦の船がある、などとうわさされたほどであった。」
 昭和四三年という高度成長期に刊行されたこの町誌は、「波方に大きくウェイトを持つ愛媛船舶業は今や全盛時代とも言うべきである」と述べ、その発展のよって来る要因を次の三つに集約している。
  ① 船主が家族ぐるみで乗り込み懸命に努力精励していること。
  ② 造船所が積極的に協力してくれること。
  ③ 国家が助長育成の政策をとっていること。
なかんずく、波止浜を主軸にした造船業と波方の海運業が深い関係に結ばれて相互発展して来たこと、つまり「造船海運コンビナート」が形成されていたことが重要であると指摘している。

 伯方島と三瓶

 瀬戸内では幕末から明治にかけて盛んに塩田の造成が行われたが、明治九年(一八七六))から塩田の民有化が始まり、また塩の売買も自由化されたのを機に製造業者から塩を買付け、持船で各地へ運ぶ海運業が盛んになった。この中で伯方島では「北前通い」と称して、伯方塩田で購入した塩を積み、下関海峡から日本海へ出て、新潟へ運び、そこで塩を売り、米を安く購入し、それを北海道へ回送して一部の米を売却、さらに太平洋を航海して瀬戸内海に帰り、残りの米を売却することによって多額の利潤を得る海運業が現れた。木浦の田窪七次郎が最初の航海を行ったといわれる。当初伯方島からの積荷は塩だけがあったが、後には島で生産される農水産物・雑貨も運んだ。いわゆる北前船とは違って、一年一航海、夏の間だけの仕事であった。その隆盛期の明治三〇年(一八九七)には本浦船舶合資会社が設立され、今日の伯方海運業の基礎が築かれたが、「北前通い」そのものは、明治三八年に塩の専売制が実施されると共に姿を消した。
 明治末期から大正にかけては、伯方船主は機帆船導入の先駆者であった。戦後は、鋼船化の波にうまく乗り、タンカーの建造にも比較的早く取り組み、愛媛県内航船主の中で確固たる地位を占めてきた。同町に造船業が発達していたことも見逃せない要因であろう。
 三瓶町では二及浦における海運活動が古くから活発で、現在に継承されている。『三瓶町誌』(昭和五八年)によると、明治以降の発展過程はおおよそ以下のとおりである。

  〈帆船時代〉 明治一四年植田市九郎は日本型帆船大黒丸をもって、日向の宮崎を根拠として海運業に乗り出した。二一年には西洋型帆船第一幸徳丸(千石積)を、二九年には第二幸徳丸(千石積)、三五年には第三幸徳丸を建造し、土佐・九州・阪神にかけて航海を広げた。
   昭和二~五年は二及浦帆船の全盛期で八百石積船が七~八隻活躍した。
  〈機帆船時代〉 昭和七年三好秋太郎は今治市森造船所で、二及では初めての機帆船開進丸(三二トン)を建造した。従来の帆船に比べて、操縦性、経済性の面で画期的なものであった。三好は続いて第二船も建造、これに刺激されて、機帆船が増加し、みる間に八隻を数えた。一三年には地元造船所で初めて機帆船が建造された。
   戦時徴用を解かれ無事帰還した機帆船は七隻に過ぎなかったが、戦後復興の波に乗って活気をとりもどし、昭和二八年二木生(二及・周木・垣生)機帆船組合を設立したときの船腹は、一八隻、一、八五〇トンであった。
  〈鋼船への転換〉 昭和三二年一月、山下浩一は山下運輸㈱を設立、同年五月、町内で初めて鋼船タンカー第一鶴山丸(二五〇トン)を建造し、タンカー業界に進出した。これを契機に鋼船に切り替えるものが続出した(三瓶町の海運業に幸いしたのはタンカーが主力だったことで、貨物船は不況期が長かった)。機帆船から鋼船への転換状況は左のとおり。
     昭和三四年  鋼船 四隻          木船(機帆船) 一四隻
     昭和三五年  鋼船 九隻          木船(機帆船) 一二隻
     昭和三六年  鋼船一八隻(一一、〇九七トン)木船(機帆船) 一二隻(一、三四八トン)
  昭和四〇年(一九六五)六月山下浩一はLPGタンカー第三いずみ丸を建造して先鞭をつけ、他業者も特殊タンカーに切り換えるものが多くなった。このころから、金融業界も三瓶町の船主業に目をつけ始めた。
  〈外航船の建造〉 昭和三九年山下運輸㈱は貨物船協山丸(一、九九八トン)を建造し、東南アジア航路に就航させた。
 三瓶町船主業が戦後順調に成長したのは、地元によい意味の連帯意識があったこと、優れた指導者がいたことなどによるとされているが、戦前よりの船舶仲介業者、植田兄弟の存在も見逃せない。

表交3-4 愛媛船主の比重(昭和55年3月末現在)

表交3-4 愛媛船主の比重(昭和55年3月末現在)