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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

八 トラック運送業①

 トラック事業の現況

 昭和五九年三月末現在、愛媛県にはトラック業者が五三九社あり、その保有するトラック台数は九、○四六台、昭和五九年度の輸送トン数は約四、○五一万トン、総営業収入は約一、二〇四億円に達している。
 トラック事業は、①路線を定めて定期運行を行い不特定多数の荷主の貨物を積み合わせる一般路線事業と、②路線や時刻表にしばられないが、一車一荷主貸切運送を一定地域に拠点をもって行う一般区域業者が中心で、ほかに特定の貨物や特定の荷主の貨物のみを取り扱う特定貨物自動車運送事業と霊柩車事業かあるが、これらの比重は車両数・輸送量共に極めて小さい。愛媛県におけるこれら業者の概要は表交2―32のとおりであるが、近年の動向をみると路線・特定・霊柩の業者数は安定しているが、区域業者数は漸増している。また、一社当たり車両数にみられるとおり、路線業者を除き経営規模は零細なものが多い。路線業者の概要は表交2―33のとおりで、上位三社と下位四社との間にはっきりした格差がある(運輸省では路線業者を①全国業者、②広域業者、③地域業者に分けているが、県内業者は②と③に分かれている。なお、このほかに全国ネットワークをもつ大手企業が県内にも進出して営業拠点をもっている)。
 これら営業トラックと自家用トラックを合わせた貨物自動車が愛媛県の輸送に占める比重(県内、県外の合計)は表交2―34のとおりで、島外輸送で海運依存度が高いので全国の数値より低くなっているが、島内輸送だけをみるとトラック依存度は九〇%を超えている。

 トラック以前
 
 自動車が登場する以前の内陸物資輸送・運搬は、まず人担・駄送(人力そのものによる運搬や動物の背を利用した輸送)から牛車→馬車へという系列で改善が進められたことは、よく知られているとおりである。表交2―35は愛媛県における明治初年から昭和一〇年代までの荷牛馬車、運搬用荷車の台数を示している。まず牛車が使われ、次いで馬車が登場したことはこれによっても明らかである。明治末年には馬車が牛車を凌駕し、それ以降、馬車優勢が続くが牛車も依然一定の地位を占め続ける。そして、両者ともピークは昭和初年で、それ以降は漸減傾向をみせている。自動車の普及によるものであろう。しかし、(統計数値が得られないので正確にはいえないが)その後は戦時下及び終戦後の混乱期におけるガソリン・物資の不足によって、自動車への転移は直線的には進まず(注)、息長く残存する。現に、表交2―36に見られるとおり、日本通運株式会社保有の荷牛馬車台数は、昭和二三年から二四年にかけて一時増加を記録している。荷牛馬車とトラックは依然相互補完関係にあったといえる。こうしたことから、全国的には荷牛馬車が陸運貨物輸送から実質的に姿を消し、トラックがこれを駆逐した時期を昭和三〇年(一九五五)ごろとするのが定説である(村尾 質『貨物輸送の自動車化』)。愛媛県については、昭和一四年以降及び戦後について統計が得られないので、同様の過程が進行したものと推定するほかない。

  (注)戦中においてガソリン・車両の供給が意にまかせないため、政府は遂に乗合馬車・荷馬車の利用を考えるに至り、昭和一六年(一九四一)八月鉄道省は地方庁あて「……交通情勢逼迫……之が緩和の一手段として馬車其他による旅客または物資の運送を計画云々」の依命通牒を発し、貨物関係では、荷馬車(牛車を含む)運送業に関し、別段の規定なき向きは企業組織の向上を図り経営の適正を期する為、右に関する規則を制定し営業許可其他適宜の措置を講ずること、などを勧奨した(志鎌一之『自動車交通政策の変遷』)。なお、宇和島自動車は、これを受けて昭和一六年から一八年にかけて乗合馬車を営業した(『宇和島自動車社史』(未刊)による)。

 トラック輸送の揺藍期

 わが国で初めてのトラックは、明治三六年東京日本橋の三越呉服店が購入したフランス製クレメント車であったといわれるが、当時のこととて商品運搬用よりもむしろ「動く広告」の意味が強かったことは想像に難くない。
 明治四〇年(一九〇七)には最初のトラック企業が設立された。東京の帝国運輸自動車株式会社(資本金五〇万円)がこれである。同社は一トン車のトラック一三台、五人乗用一台、二人乗用二台をフランスから購入して翌四一年に営業を開始している。大正に入ると第二次大戦下の好況などもあって徐々に活発になり、関東大震災によってその機動力を認められ急速な進展を示すことになる。従ってこの関東大震災までの時期がわが国におけるトラック輸送の創生期ということができよう(『日本トラック協会二十年史』参照)。
 ひるがえって愛媛県に何時ごろトラックが初めて導入されたかは明確でない。県統計書に貨物車と乗用車の区別が初めて登場するのは表交2―38のとおり、昭和七年である。トラック専業企業の登場の時期も同様に明らかにすることができない。通運業者や、乗合バスを中心に自動車営業をしていた業者が、トラック輸送を兼営し始めたと思われる時期は大正後期であろう。昭和三年版『愛媛県商工案内』(愛媛県商工団体連合会)の会社名鑑によると、中予地区では三津浜町(現松山市)旧船場に営業所を持つ三津浜運送株式会社(貨物運送取扱、創立大正六年一一月、払込資本金二万五、〇〇〇円、社長橋本武夫)の名があげられている。南予では八幡浜に合資会社共盛社の名が見られる(運送業、創立大正五年、出資額三万円、社長浦中友治郎)。東予では西条町の西条合同運送株式会社(昭和二年創立、払込資本金五万円、代表者久門賢二・平野重吉)の名があげられているが、同社はその社名から判断して、それ以前に設立された複数社が合併したものと思われる。おそらくこれらの企業が愛媛県におけるトラック運送業創生に深くかかわったものであろう。昭和に入ると順調に発展し、戦前のピークとみられる昭和一一~一三年ごろの車両・業者数の状況は表交2―38・39のとおりである。
 しかし、昭和一〇年(一九三五)代に入ると、タクシーの項で述べたように、戦時下によるガソリン・諸物資の不足などのため輸送力が低下する一方、限られた輸送力を戦争という国家目的に効率的に使うための重点輸送への規制が強まった。陸運統制令がそれである(昭和一五年二月公布、一六年一月改正公布)。昭和一六年のものは(1)トラック業者は①五〇㎞を超える長距離貨物、②百貨店などの配達貨物、③庭石・植木など、④写真機類・娯楽用品などを運んではならないこと (2)トラック業者が貨物を引き受ける順位は①軍需品・軍関係資材、②天災事変により緊急を要するもの、③米穀類などの順にすべきこと、等々を決めていた。要するに、戦時体制に照らして「不要不急」と考えられる物資の輸送を禁止し、それによって生じた輸送力を「重要物資」の輸送へ振り向けようとしたのである。

 企業合同

 他方、こうした政策を推進するもう一つの方策として、企業の集約化・統合政策が実施された。昭和一五年九月鉄道省(当時の陸運監督官庁)は「貨物自動車運送事業合同要綱」を発令し、地方長官に事業の合同推進を指示した。その大綱は左記のとおりである。
  一 合同の目的
     燃料消費規制の強化、重要物資輸送需要に対応する輸送の確保、輸送の計画化、適正運賃の確立。
  二 合同の方針
     ①貨物運送事業者相互間における合同を原則とする。
     ②合同規準車両数は、六大都市は二〇両以上、六大都市以外は一〇両以上、町村は実情に応じて。
     ③自家用貨物自動車もなるべく運送業者に統合させること。(以下略)
  三 合同の方針
     ①事業の公共性にかんがみ努めて株式会社または有限会社とすること。
     ②合同の方法は既存会社による合併、買収または新会社を設立すること。
  四 昭和一五年中に合同を完成させることを目標とする。
 次いで昭和一七年(一九四二)一〇月、政府は「戦時陸運非常体制確立要綱」を決定、一二月には「貨物自動車運送能力強化に関する件」を発表した。いわゆる第二次統合である(今度は六大都市では五〇〇両以上が基準となるなど、一層きびしいものであった)。この結果、業者数は表交2―40のとおり、激減した。しかし、車両総数にみられるとおり、不要不急と目され、ガソリンの配給を極度に切り詰められた旅客自動車運送に比べると、業界全体の規模縮小度は小さかった。
 この統合の嵐の中で愛媛県においても、トラック企業の合同が県下全域にわたって実施された。まず中予地区では第一次統合の時期に当たる昭和一五年一二月、松山市の中央運送株式会社が、同市の三共自動車株式会社、伊予商運株式会社、松山合同運送株式会社、松山貨物自動車株式会社を含む三六社を吸収合併する申請を県知事に提出し、旬日のうちに許可された。次いで一六年七月、松山市及び温泉郡内の七業者の事業譲り受けを許可された。さらに第二次統合指令に先立つ一七年三月、この中央運送株式会社と三津浜運輸株式会社、伊予運輸株式会社、久万運輸株式会社及び上浮穴運輸株式会社が合同して、新たに中予運送株式会社が設立され、ここに中予地区の合同が完丁した(以上、四国名鉄運輸株式会社の資料による)。
 南予地方では、宇和島自動車が昭和一三年一〇月、三共自動車から大洲以南のバスと共にトラック事業も買収して貨物輸送を兼営していたが、昭和一四年一二月野村町の井伊権幸のトラック事業を買収、同一五年六月宇和島貨物自動車株式会社をも統合した。さらに昭和一七年一二月、宇和島自動車の貨物部門を中核として南予地方の七つの運送業者と二つの農協が統合して、南予運送株式会社が設立された(注)(資本金二七万円、社長長山芳介)。
  (注) 宇和島自動車は、貨物部門を南予運送に統合後も次の区間の路線権と数台のトラックを保持し、戦後まで運行を続けた。
    宇和島市~高知県幡多郡大正村間
    宇和島市~高知県高岡郡梼原村間
    これらの路線は南予運送の経営圏外であったからである(当時の宇和島市の商圏がうかがわれる)。また、終戦直前には、右のほか宇和島~宿毛間の貨物定期運送も行った。なお、南予運送株式会社は、昭和二五年解散、営業権は宇和島自動車と伊予貨物自動車株式会社(宇和島市)が折半して買収した(以上『宇和島自動車社史』(末刊)による)。
 東予地区については資料が全く入手できず、若干の聴き取り調査に依る以外なかったので詳しい記述はできない。中・南予とほぼ同じころ、宇摩郡に宇摩陸運株式会社、新居郡地区に新居陸運株式会社、周桑郡に周桑陸運株式会社、今治・越智郡地方に今治陸運株式会社が、それぞれの地区業者の統合によって設立されたことだけは間違いない(通運の項で述べるように、通運兼営業者は日通に統合されたものが多い)。

 戦後の復興と躍進

 戦後におけるトラック輸送業の急速な復興、成長は目ざましいものがあった。戦後展開の時期区分をするとすれば、次のようなものが考えられる(村尾 質『貨物輸送の自動車化』参照)。
   第一期(昭和二〇~三〇年)「補助的貨物輸送手段」としての地位確立期(荷牛馬輸送の駆逐過程)(『トラック協会二十年史』は昭和二六~三〇年に限って「発展への準備の過程」としている。)
   第二期(昭和三一~四一年) 「基幹的貨物輸送手段」としての地位確立過程
   第三期(昭和四ニ~四七年) 「全国的貨物輸送手段」としての地位確立過程
   第四期(昭和四八年以降)  屈折・停滞期
 この過程は愛媛県においてもそのままあてはまるといえよう。表交2―41に示すとおり自動車台数の半分近くが木炭車など代用燃料車によって占められている状態(昭和二三年)から出発した愛媛県のトラック輸送業は、表交2―42に見られるように昭和三〇年代以降急速に業容を拡大し、昭和四八年には輸送トン数で二、六四二万トンを記録してピークに達する。そしてこの時期までにみかんを中心とする農産物・水産品、臨海型を除く工業製品や原材料の輸送の主役の地位を確立した(愛媛みかんのトラック輸送の本格化は昭和三九年であるが、鉄道事情の悪さもあってまたたく間にトラック化が進行した)。しかし、オイルショックのあおりを受けて昭和四九~五〇年にかけて輸送量は大幅に落ち込み、同五二年から回復に転じたが、四八年の水準に回復したのはやっと五五年であった。この間、車両数は漸増、企業数も四六年対比一三三社も増加しており(路線は運輸省の規制政策もあって不変、区域で一一七社、特定で五社、霊柩で一一社)、業者間の市場競争の激化がうかがわれる。また、昭和四〇年代以降島外大手業者の県内への進出が目立ち、地元の市場を浸食している。(日本通運のほか、日本運送・福山通運など)。
 この間、トラック業界は昭和四〇年四月中小企業近代化促進法の指定を受け、中小零細性の強い同業界の体質改善が図られることになった。おりからブームともいえる状況を呈した流通近代化の物流面における主役としての体力強化を要請されるものであった。愛媛県においても県トラック協会を中心に構造改善事業が進められた。また昭和三〇年代後半から県外大手運送企業による県内業者の系列化がみられるようになった(昭和三八年の四国西濃運輸、同四〇年の四国名鉄運輸。私鉄や大手トラック企業による地方企業の系列化は、全国的には昭和三三年ごろから
始まり、四〇年代初めには、ほぼ完了したといわれている)。
 近年は産業構造の高度化(軽薄短小化)などによってトラック輸送の分野が拡大する傾向があり、また高速道路の整備などによってトラック輸送の長距離化が一層進んでいるが、宅配便にみられるように競争は依然として激しいものがある。

 主要企業のあゆみ

 以下では県内主要会社(四国名鉄運輸、四国西濃運輸、宇和島自動車運送)の戦後における発展過程をみることによって、県内トラック業界の戦後過程の理解を深めることにしよう。
 四国名鉄運輸株式会社は前述のように昭和一七年設立の戦前派である。昭和四○年代半ばまでの略年譜を示せば次のとおりである。
     昭和二五年 四月  伊予鉄道の資本参加を得る。
     昭和二五年 六月  一般路線貨物自動車事業を開始(四国内主要都市間)
     昭和二五年一〇月  通運事業を開始
     昭和二六年一二月  松山~大阪線路線免許を得る。
     昭和四〇年一〇月  名古屋鉄道株式会社の資本参加を得て、同社系列の名鉄運輸と業務提携(四二年一〇月、四国名鉄運輸株式会社と商号変更)
     昭和四四年 四月  名古屋線路線免許を得る。
     昭和四四年一二月  東京線路線免許を得る。
     昭和四五年 三月  熊本線路線免許を得る。
 四国西濃運輸株式会社は、昭和二七年(一九五二)六月松山自動車株式会社として車両四両、従業員五人で創業、同年一二月一般区域貨物自動車運送業の免許を得た戦後派企業である。昭和三六年に松山~大阪の路線免許を取得、翌三七年三月から同路線の定期急行使の運行を開始した。昭和三八年五月、岐阜県大垣市に本社を置く大手路線業者西濃運輸株式会社と資本・業務提携して同社のグループに入り、三九年一一月四国西濃運輸株式会社と社名を変更した。現在では東京・大阪・名古屋を中心に一日約一〇〇便の路線便を運行している。
 宇和島自動車株式会社は、さきに述べたように昭和一四年ごろからトラック輸送を始めていたが、戦中は国策に沿って南予運送に貨物部門の大半を譲渡、昭和二五年、南予運送の解散に伴い営業権と車両の半分を引き受けてトラック事業を拡大した。昭和二五年一〇月、松山~高松間の路線免許を得て翌二六年一月運行開始、同月高知県中村までの免許を得て高松~松山~宇和島~土佐中村間四四〇㎞に及ぶ四国半周路線が完成した。当時としては画期的なことであった。また、同年一月通運事業を開始した(免許取得は前年一二月)。その後順調に発展して、昭和五三年宇和島自動車運送株式会社を設立して、トラック部門を分離独立させて現在に至っている。

 愛媛の通運業略史

 トラック事業と深いかかわりのある分野として通運がある。これについて簡単にふれておこう。大正から昭和の初めにかけて国鉄が延伸してくるにつれて、県内各駅で通運事業の創設が相次いだ。一方、既存の運輸業者(海運業者・自動車運送業者)も競って通運事業の免許を取得した。しかし、この分野では遠く明治八年(一八七五)にまでさかのぼる内国通運株式会社(前身は明治五年設立の陸運元会社)という存在があった。国鉄という全国ネットワークの輸送機関に対応するためには、鉄道貨物を取り扱う通運業者もやはり全国的な営業網を持つことが必要で、内国通運会社は全国に契約店・加盟店を増やしていっていた。同社は昭和三年競争相手の数社を合併して国際通運となり、同一二年には国の通運業合同の方針に基づく特殊法人、日本通運株式会社設立の母体となる。これを中心に「一駅一店」体制が推進される。

   通運という言葉自体が鉄道貨物輸送の衰退に伴って「死語」となりつつあるので、ここで簡単にふれておこう。この言葉には広狭の二義がある。狭義には通運事業法(昭和二四年)に規定された「鉄道による物品運送の取り次ぎまたは受け取り、鉄道により運送される物品の集貨または配達、貨物の鉄道への積み込みまたは受け卸し」など鉄道発着両端の運送をいい、広義には交通運輸及びこれに付帯する業務の総称である。ここでいう通運はもちろん前者、つまり狭義の場合である。また、戦前は小運送という言葉が用いられていたが(戦後の通運事業法に当たる戦前の法律は昭和一二年制定の小運送法であった)、これも種々の使い方があった。①一地方の運送、②鉄道・軌道による運送以外の自動車・荷馬車・リヤカーなどによる陸上輸送を通俗的にいう、③前述の通運の意義(以下では③の意味で用いる)。

 愛媛県でも昭和に入ると複数の業者が存在する駅で、それらを統合した合同運送会社が設立され始める。一〇年代後半に入ると戦時下の要請が加わって日通による統合がほぼ完了する。これを東予・中予地区についてみてみよう。
  〈中予地区〉大正一三年 橋本運送店組織変更し松山通運株式会社(資本金二万円)設立
        昭和 二年 松山合同運送株式会社(資本金一〇万円)設立
        昭和一七年 松山合同運送株式会社、松山通運株式会社ほか予讃線浅海・内子間、予土線供養堂・西之谷間ほかの小運送業者合併し、伊予通運株式会社(資本金六〇万円)を設立
        昭和一九年 伊予通運は統合により日本通運株式会社松山支店となる(所在地・松山市大手町二丁目二六番地)。
  〈東予地区〉昭和一七年 予讃線川之江・菊間間各駅小運送業者二〇社が合併し、愛媛通運株式会社(資本金四五万円)を設立。また、同年、それまで今治地区の業者を合同して設立されていた今治合同運送株式会社は、愛媛通運株式会社今治支店となる。
        昭和一九年 統合により愛媛通運今治支店は、日本通運株式会社伊予西条支店今治営業所となる。
        昭和二〇年 一一月、今治営業所は今治支店となる(所在地・今治市大字今治村三七六)。
 なお、南予地区では、南予地区統合業者として南予通運株式会社が設立された(一七年六月)。
 かくして昭和二〇年(一九四五)八月一五日の終戦時、なお未統合店として残っていたのは全国で二二七社、うち愛媛県内では次の六社であった(これらは戦後も旧免業者として日通とは加盟店契約を結び存続する。なお、中四国では愛媛県の未統合六社というのは一番多かった)。
  〈未統合会社〉 瀬戸内運輸(今治港) 石崎汽船(高浜) 伊予運送(松山) 伊予商運(松山) 森松運送(森松) 八木運送店(横河原) (以上『日本通運社史』昭和三七年による)
 昭和二四年、前述の通運事業法が制定され、日本通運株式会社は純民間会社として再発足、一駅一店体制がくずれて複数制が実施されるに及んで、一定の資格を備えた者は通運業の営業を許可されることになった。これにより免許を得たものを新免業者という。以後、日通・旧免・新免入り乱れての競争がみられたわけだが、通運業者のほとんどは自動車貨物輸送を兼営しており、トラック輸送の進展・鉄道貨物の減退に伴って営業の主力を通運業務からトラック輸送に移していった。この過程で通運業者(通運業の免許をもつトラック運送業者といったほうがよいかもしれない)の営業に占める通運部門の比率は、昭和四〇年代以降急速に低下し、昭和五八年度におけるその収益面での比率は四・五%に低減している(全国業者の平均値)。県内でも鉄道貨物取扱駅の減少などに伴い同様の状況がみられ、今後もこの傾向が続くものと考えられる。
 昭和五八年三月末現在、愛媛県内の通運事業者は日本通運・南予通運(旧免)・四国名鉄運輸・日進運輸(以上新免)・福寿運輸(限定)・大王運輸(法一五条指定業者)の六業者である。

  限定業者とは、免許に荷主、取扱物品の種類または作業場所を指定し、その業務の範囲を限定して行う者、また、法一五条指定業者とは、通運事業法一五条の規定に基づき、貨自動車運送事業者で鉄道集配の指定を監督官庁より受けた者をいう。

表交2-32 トラック事業の概要(愛媛県)

表交2-32 トラック事業の概要(愛媛県)


表交2-33 県内路線業者の概要

表交2-33 県内路線業者の概要


表交2-34 貨物輸送機関別分担(愛媛県)

表交2-34 貨物輸送機関別分担(愛媛県)


表交2-35 貨物輸送用諸車台数

表交2-35 貨物輸送用諸車台数


表交2-36 日本通運(株)の貨物用自動車・軽車両保有台数の推移

表交2-36 日本通運(株)の貨物用自動車・軽車両保有台数の推移


表交2-37 日本通運(株)における通運集配貨物量(トン数)の輸送手段別構成比

表交2-37 日本通運(株)における通運集配貨物量(トン数)の輸送手段別構成比


表交2-38 自動車数の推移

表交2-38 自動車数の推移


表交2-39 運送営業者数

表交2-39 運送営業者数


表交2-40 統合による貨物自動車運送業者数の減少

表交2-40 統合による貨物自動車運送業者数の減少


表交2-41 終戦直後の自動車保有台数

表交2-41 終戦直後の自動車保有台数