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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

七 ハイヤー・タクシー事業

 ハイ・タク事業の現況

 昭和五八年三月末現在、愛媛県のハイヤー・タクシー事業者数は二二八社、使用車両数は二、三一七台である。昭和五七年度の旅客輸送人員は約三、八六〇万人であった(同年度のバス輸送人員は、乗合・貸切合計で約五、四六〇万人)。同年度における県民一人当たりタクシー利用回数は二五・八回となり、四国では高知県の二九・七回に次いで高く、香川県二三・一回、徳島県一六・一回を上回っている。なお、この数字は一人一車制の個人タクシーを除いた数字であり、県内の個人タクシー事業者は二二四人となっている。
 法人タクシーの一社平均車両台数は約一〇台であるが、車両数三〇台以上の業者をあげると、伊予鉄タクシー・松山タクシー・銀座タクシー・松一観光・富士タクシー・愛媛近鉄タクシー(以上松山市)、宇田タクシー(伊予三島市)、瀬戸内タクシー(今治市)、宇和島ハイヤー(宇和島市)の九社のみである。タクシー事業者は、その事業の性質上、個人タクシーの存在にみられるように中小零細性が強く、長期的には参入脱退が激しいが、免許制度もあって業者数は近年安定している。

 ハイ・タクの前身―人力車

 ハイヤー・タクシー事業の戦前における歩みをみる前に、その前身といえる人力車について簡単にふれておこう。辻駕寵が江戸時代のタクシーだとすると、文明開化の明治のそれは人力車ということになろう。第一章第一節「近代交通一〇〇年の概観」でふれたように、わが国における人力車は明治三年、東京日本橋で和泉要助らによって営業されたのに始まる。本県には早くも明治四年(一八七一)に導入された形跡かあるが(松山市)、『今治市誌』は同市における人力車輸送の登場・発展を次のように記している。
   「明治五年に、三両が人を運ぶために営業をはじめたのが最初で、七年には十四―十五両に増加した。車輪は鉄輪であったが、明治四十四年に一両ゴム輪人力車が入ってから、漸次ゴム輪のものが増加した。台数は、明治四十四年六十三両、大正九年九十七両、同十年百四両となった。このころから自動車が出現したので昭和二年には八十一両に減少し、市営バスが運行されたので昭和六年には六十両に、同八年には三十両に減少し、以後同十五年頃まで三十両であった」

 明治年間におけるこうした人力車の普及に対応するため同一七年(一八八四)、愛媛県は「人力車営業取締規則並びに営業人心得」を布告した。これは、明治一四年警視庁の「人力車取締規則」の制定に遅れること三年、しかし内務省の「営業人力車取締規則標準」制定(同一九年六月)には二年先行するものであった。明治年間における本県の人力車数の推移を県統計書などから拾い上げると左記のとおりである。
     明治一七年  一、六一七台(伊予国の数値のみ抽出)
     明治二一年  一、三三二台( 同 右      )
     明治三七年  一、五四三台
     明治四四年  一、三九二台
  『松山市誌』(大正三年刊)は、明治末年の同市の人力車について次のように述べている。

   「人力車は市内に於ける交通機関として最も大切なものなり。されど明治四十四年電車開通〔伊予鉄道および松山電気軌道両社の電車営業開始・筆者注〕以後は多大の打撃を受けて廃業せしもの甚だ多く現在に於ては帳場十六ヶ所にして車数総計二百五十五両(明治四十三年末調)あり。」(全国統計では人力車台数のピークは明治二九年であった。)

 なお、電車に加えて自動車が発達し始めた大正末年から昭和初年にかけての同市における人力車数は左記のとおりである(『松山商工会議所統計年報』)。
  大正一三年 一八三台   同一四年 一七六台
   昭和元年  一八八台   同二年  一八三台   同三年 一七五台   同四年 一六五台
(燃料事情からタクシーが減少した戦中から戦後にかけては、自転車による人力車である「輪タク」または「厚生車」が登場し、松山・今治などの駅前や盛り場に多数見られた。なお、昭和五九年現在、松山市道後で観光客相手の人力車が数台営業している。)

 戦前のハイ・タク事業

 さて、愛媛県のタクシー事業は大正一一年(一九二二)ごろに興ったとみられる。『愛媛県のバスとタクシーの歩み』(県旅客自動車協会)によると、「大正十一年松山市唐人町三丁目に温泉郡五明村出身の名本其氏が南海自動車と称して、オーバランド号を使用し経営していた」「同年頃松山氏の阿部力氏が松山市二番町……で営業していた」(阿部自動車)という記述がみられる。東予地方では、大正一二年渡部菊助が今治自動車商会を設立してバス事業と共にタクシー事業を経営したのがはじめである。南予地方では大正七年創業のバス会社である宇和島自動車が、大正一四年秋からバス用の車両を流用して貸切(ハイヤー)営業をしていたが、タクシー専業者が登場したのは昭和九年であった。
 ハイヤー・タクシー事業は大正期までは法規上の位置づけも明確でないため独立の事業としての性格が弱く、バス事業の付随として営まれるものが多かったが、大正八年の自動車取締令(内務省令、自動車交通に関する初めての全国統一法規)の制定によってその位置づけがある程度はっきりした。同取締令は、自動車による運輸営業に関し、「一定の路線または区間によるものは地方長官の免許を受くべきこと」と定めていたが、タクシーは右以外のものとみなされ、いわゆる貸切と称せられた。次いで昭和六年公布の自動車交通事業法は、自動車交通事業を自動車運輸事業(路線を定め定期に自動車を運行して旅客または物品を運送する事業)とこれ以外の自動車による運送事業(タクシーはこれに入る)に区分した。
 このことから明らかなように、①自動車取締令下ではバス事業よりは簡単に免許が得られたこと、②大正一二年関東大震災後、米国のフォード、GMが日本に進出し(それぞれ大正一四年、昭和元年)、日本における自動車販売政策の重点をタクシー業界におき、購入しやすい月賦販売制などをとったこと、③昭和四年以降ガソリンの価格が下落したこと、などの理由で昭和一〇年代半ばまではタクシー事業が急成長を遂げた時代であった。愛媛県においても前述の各社に続き、各地で多数の法人・個人企業が誕生した。大都市ではいわゆる「円タク」(料金一円で一定距離を走った)の全盛時代で、地方においてもタクシーがいくぶん大衆化された時期であった(『愛媛県商工案内』昭和六年版には「松山市内及道後松山間は六十銭均一タクシーあり」との記述が見える)。
 しかしながら、昭和一二年(一九三七)日中戦争の勃発を契機にガソリンなど物資の需給ひっ迫の時代に入り、また昭和一五年四月自動車交通事業法の一部改正により、自動車運送事業組合の設立を命ずる制度が設けられるに及んで、タクシー業界は一転して整理統合、業界縮小の段階に入る。前述の石油事情に加えて、①戦時下という時局柄、タクシーは不要不急の輸送であるという認識、②使用車が前述のように米国車であったが、その供給が途絶えた(昭和一一年自動車国産推進のための自動車製造事業法が制定され、フォード、GMは撤収した)ということもあり、ハイヤー・タクシー業界は受難時代を迎えたのである。
 前述の創業時の各社のうち阿部タクシーは昭和一四年、三共自動車(一九年伊予鉄道に併合)に事業を譲渡した(戦後事業を再開)。宇和島自動車は一四年、三共自動車から大洲・卯之町・吉田・城辺・岩松のタクシー事業を譲り受けたのをはじめ、一八年までに南予地区全般のタクシー事業を統合した。今治自動車商会は昭和一五年他の八業者と合同して、今治合同タクシーを設立した。なお、この今治合同タクシーが中心となり宇摩地方の有限会社愛媛タクシー、新居浜の新居浜合同タクシー、西条では西条自動車と渡部タクシー、渦潮タクシー(波止浜)、菊間タクシー(菊間)が合同して、今治市に東予自動車交通株式会社が設立される(昭和一七年ごろ)。かくして昭和二〇年の終戦時に営業していたタクシー企業は、松山の伊予鉄道、今治の富士タクシーと前述の東予自動車交通、南予では宇和島自動車、野村タクシー(野村)、南予自動車(御荘)の六社のみであった。

 終戦後のハイ・タク事業

 終戦後、数年間は資材不足などのため新規に免許を出願する者もなかったが、その事情も徐々に改善され、昭和二六年(一九五一)には道路運送法も整備され(昭和二三年、同二六年一部改正。ハイヤー・タクシー事業は「一般乗用旅客自動車運送事業」ということになった)、表交2―30のとおり昭和二四年ごろから次第に新規開業者が出始めた。昭和二六~二九年、三五~三六年に二つのピークがみられる(第一のものはタクシー復興のピークであり、第二のそれは高度経済成長の始まりに対応するものである)。
 車両数・輸送量は昭和四〇年代に入っても順調に増え続けたが、同四七~四八年ごろをピークに減少に転じ、以後停滞もしくは微減の状況にある。マイカー・モータリゼーションの影響によるものだが、バスとの比較でいえばピークの時期がやや遅れたこと(営業バスのピークは四三~四四年)、全国と愛媛県の比較では愛媛のピークがやや遅れたこと(全国のピークは四五~四六年)が特徴といえる。昭和四九年以降一時的に需要の急減があったが、これはオイルショックによる全般的な消費需要の冷え込みに加えて、燃料コスト急騰に伴い料金が大幅にアップされたためである(東京都区部の場合、昭和四七年キロ当たり八五円であったが、四八年同一一〇円、四九年一四〇円に値上げされた)。タクシー料金はそれ以後はほぼ二年毎に改訂される慣行ができている。
 第二次大戦後四〇年の過程で、ハイヤー・タクシー業界は激しい変化を経験した。昭和三〇年代には「神風タクシー」いう言葉があり、水揚げを伸ばすため乱暴なスピードで飛ばす運転手が横行した。四〇年代の高度成長期の大都市地域では長距離客を選ぶため乗車拒否をする運転手が問題になった。相対的なタクシー不足の時代であったわけで、この時期、松山市でも白タタ(無免許タクシー営業行為)が見られた。この対策として、タクシー業界の体質近代化、運転手の労働時間の規制などが行われ、需給関係の変化とあいまって漸次事態が改善された。個人タクシーの導入も右の対策の一つであった。個人タクシーはタクシー賃金の特徴である刺激的歩合給の影響を排除し、ベテラン運転手による安全・快適なサービスを提供するため、昭和三四年東京で初登場したもので、愛媛県では、同三六年一一月八人が最初の免許を受けた。現在までのところ県内では松山市だけで認められている。
 昭和五〇年代の需要減退期に入り、タクシー輸送は奢侈財から便利財に、上級財から(劣等財とまではいかないが)中級財に転移する一方、高齢化社会・高福祉社会に対応するサービスなど、需要の多様化への対応に迫られており、その先駆的な事例も現れ始めている。

表交2-30 ハイ・タク開業件数の推移

表交2-30 ハイ・タク開業件数の推移


表交2-31 ハイ・タク業の主要指標推移

表交2-31 ハイ・タク業の主要指標推移