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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

五 国 鉄 バ ス

 省営バスから国鉄バスヘ

 国鉄自動車が「省営バス」の名称で四国に登場したのは、昭和九年(一九三四)三月二四日、予土線松山~久万間三三㎞を一時間半の所要時間で走ったのが最初である。地元ではこの線を予土線連絡バスと呼び利用客も多かった。
 昭和四年から八年にかけての鉄道会議において、省営バス路線決定について四原則が決定した。①鉄道予定線に該当する路線 ②鉄道・軌道の既成線に連絡する路線 ③鉄道・軌道に対する補助的路線 ④鉄道・軌道に対する培養的路線として、省営バスの路線(全国で一、三三〇)を設定したのである。県内では郡中(現伊予市)~大洲~宇和島間、川之江~阿波池田間(昭和九年三月三一日運行開始)、松山~落出(柳谷村)間(一〇・七・二一)、魚成橋(城川町)~近永(広見町)間(一一・三・一)、落出~佐川(高知県)間(一〇・七・二一)、伊予小松~横河原(重信町)間、坂石(野村町)~卯之町(宇和町)間(一六・五・二一)の七路線が指定され、鉄道建設の関係から郡中~大洲間、伊予小松~横河原間を除いて、逐次開業した。松山~落出の路線は、三共自動車が路線権を所有していたので、これを七万一、〇一〇円で買収し、川之江~池田間の川池線は、徳島側は中山・渡部自動車を二方九、七二〇円で、愛媛側は宇摩自動車から二、二七〇円で買収、さらに南予では近永~魚成間、大洲~魚成橋間などを四国自動車より買収し、大洲・宇和島を拠点として路線網を拡大していった(図交2―28)。
 戦後、国鉄自動車は二四年の機構改革により公共企業体となった日本国有鉄道公社に移行し、「省営バス」はツバメのマークの「国鉄バス」と改称し、方針的には創立以来の四原則を堅持しつつ、運用の適切を期して、既設の旅客路線の中・長距離化、都市乗り入れ、特に急行バスを実現する一方、貨物営業は可及的に縮小または廃止の処理がとられた。県内で主なものは、昭和二六年四月に高知乗り入れ実現、松山~高知間の急行便運行開始、三一年七月に松山~高知間に夜間急行一往復運行開始、三六年一月に同線全国初のマイクバス座席指定制ワンマン化による特急二往復新設、四〇年四月に北四国急行線の松山~高松間急行バス運行開始などである。
 昭和二五年四月、鉄道部門から分離し、四国地方自動車事務所が設けられ、自動車営業所に改称、同三四年四月より県下の国鉄バスは、川池線の川之江・松山高知急行線の松山・南予線の伊予大洲の三つの自動車営業所に改組された。

 県下の運行状況

 現在四国の国鉄バスは八つの営業所を有し、五九年八月末現在、総営業キロは八二〇㎞(五八年三月現在では八九九・九㎞、前年の九一%と縮小)である。五八年度の経営成績をみると、収入二九億六、〇〇〇万円余、経費六二億三、〇〇〇万円余で約三二億七、〇〇〇万円の欠損となり、営業係数は二一〇(五七度一九九、五六年度一八六)と徐々に悪化している。同年の鉄道部門の営業係数が二九五円であるから、やや自動車部門の赤字幅が小さい。同年の輸送人員は約七四〇万人、五一年度の八三%、さらに走行キロ数は約七〇〇万㎞に対し、減少率は五%と少ないものの営業成績は年々かなり悪化し、幹線路線以外の辺地過疎路線は廃止・休止が続いている(表交2―27)。
 県下の国鉄バスは、主に鉄道の先行路線的機能と末端路線として、新宮・柳谷・河辺・日吉村のような典型的過疎地への運行も行っている反面、松山~高知急行線のように愛媛・高知両県の幹線交通路としてVルートの一翼を担っている。県内には三つの自動車営業所があり、川池線を中心とする川之江、松山~高知急行線のドル箱を中心とする松山(落出以南、高知までは佐川営業所)、大洲・宇和島両地区を中心とする伊予大洲の営業所である。四国の総営業キロの約半分に当たる四四〇㎞を県内で占め、年間走行キロは三八六万㎞(四国全体の五五%)、輸送人員は三八三万人(同五二%)で、さらに収支係数は川之江三一八・一、松山一一六・五、伊予大洲二八一・一、四国全体では二一一・五で、松山以外相変わらず不振が続いており、昭和五〇年度を一〇〇とした走行及び人キロにおいても、下降もしくは停滞気味でその不振を証明している(図交2―29)。

 ドル箱路線―松山・高知急行線

 営業成績不振の路線の多い国鉄バスの中で、黒字ではないが、なかでも〝ドル箱〟の幹線として好成績を続けているのが松山~高知急行線である。国鉄松山駅より三坂峠を越え久万町、さらに柳谷村の落出より高知県に入り、越知・佐川経由で国鉄高知駅を結ぶ全長一二三㎞の路線である。国鉄予土線(宇和島~窪川)開通前までは、予土連絡の唯一の交通手段であり、高松~高知~松山のVルートの一翼を担っている。開業の歴史は国鉄バス自体の歴史であり、昭和九年(一九三四)三月に松山~久万間、さらに同一〇年七月に落出~高知県佐川間、高知市まで開通したのは二六年四月、長年の住民の悲願が結実したものである(図交2―30)。
 県内の三営業所収入の推移を五〇年度を一〇〇とした指数でみると、五五年度は一五五、五八年度は一七○となり伊予大洲の一三一、川之江の一二〇を大きく引き離している。また五三年度からの営業収支係数は一一〇台でほぼ安定しており、民間バスの主要路線と遜色はないものの、モータリゼーションの昨今、今後の輸送人員の確保やマイカーに奪われたシェアの復元などが当面の課題である。

図交2-28 愛媛県内の国鉄バス路線図

図交2-28 愛媛県内の国鉄バス路線図


表交2-27 昭和58年愛媛県関係の国鉄バス輸送実績

表交2-27 昭和58年愛媛県関係の国鉄バス輸送実績


図交2-29 営業所別走行キロ及び輸送人キロの推移

図交2-29 営業所別走行キロ及び輸送人キロの推移


表交2-28 松山営業所=松山・高知急行線=輸送実績

表交2-28 松山営業所=松山・高知急行線=輸送実績


図交2-30 松山・高知急行線路線図

図交2-30 松山・高知急行線路線図