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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

四 道路の整備と近代的道路交通の萌芽

 車による運送の解禁

 江戸時代は、東海道をはじめ、諸街道においては、荷物の運搬さえも車によることは許されておらず、まして人を車で運ぶことはあり得なかった。しかし、江戸も末期になると、諸般の事情から車使用の許可の方向にむかって規制が緩和ないし解禁されてきた(開国によって外国人居留者などの増えたことによるものであろうか)。『近代日本総合年表』によると左記のとおりである。

  文久二年(一八六二)二月 幕府、公私荷物を車で運ぶことを許す(輸送手段として車による運送が解禁)
  元治元年(一八六四)   幕府、大津駅丹波屋清七の建言を認め、小車二五両による京都・伏見・草津間の運送事業を許可
  慶応二年(一八六六)   幕府、江戸市中及び五街道において、荷物輸送のために馬車を使用することを許可
  慶応三年(一八六七)   アーネスト・サトー、東海道で乗合いの座型人力車を見る(同行の画家ワーグマンがこれに乗った)(坂田精一訳『一外交官の見た明治維新』)
  明治二年(一八六九)   政府、諸道の関門廃止を布令
  明治三年(一八七〇)   和泉要助の発明した人力車、営業を公許される。
  明治六年(一八七三)   陸運元会社、東海道に初めて定期馬車の便を開く(わが国最初の乗合馬車は明治元年、横浜~東京間で開業された)。

 このように、車使用と道路の両面から「解放」された道路交通は、まず人力車、次いで馬車によって一般大衆のものとなっていったのである。愛媛県でも明治四年に松山で初めて人力車が登場したという記録がある。下って明治三三年(一九〇〇)六月、松山~北条間に乗合馬車が開業されたのを皮切りに、県下各地で乗合馬車事業がおこり、いまだ鉄道のない県民の足として貴重な役割りを果たすようになったが、これに対応して愛媛県は、明治四〇年五月「馬車営業取締規則」を制定している。なお、人力車に関しては、県は明治七年「安全のため車夫の老幼強弱を見定めて乗車するよう」布告すると共に、人力車夫の田畑踏み荒らし・市中馳駆の取り締まりを指示している。翌八年には「人力車荷車等仮扱規則」を布達、さらに一七年には「人力車営業取締規則並営業人心得」を布達した。

 道路の法制

 道路の維持・管理に関する法制度はどうであったか。
 明治六年(一八七三)には「河港道路改修築規則(大蔵省番外達)」が制定され、道路の種類(一~三等の別)、費用負担(一、二等は官6、地民4の割合、三等は地民)などが明確にされ、次いで同九年六月八日の太政官布告第六〇号により、道路の種類を改め、全国の道路は、国道・県道・里道の三種に区分されることとなった。この体系は大正八年の道路法の制定に至るまで道路行政の基本として存続した。明治中期以降、大型荷牛馬車による貨物運搬が一般化するようになり、この面からも道路整備の必要性が高まってきた。

 愛媛県の道路

 大正六年八月刊『愛媛県誌稿』によると「道路は松山市を中心とし、県下各地に至るの路線之より四通八達す。其主たるものを二国道(四五里五丁)二十三県道(一〇七里十六丁)、二百五十有余の里道とす」と記し、次の路線をあげている。
  国道第三一号 現一一号に相当するもので、「道路概ね坦々として車馬を通ずるに便なり」と結んでいる。
  国道第五一号 現五六号に相当するものであるが、終点が八幡浜になっており、「概ね山地なりと雖も車馬の往復に難からず、国道三十一号と共に、本県交通体系の大幹線たり」と述べている。
  県道 高浜街道 土佐街道 今治街道 道後街道 堀江街道 郡中街道 小田町街道 波止浜街道 西条街道 壬生川街道 小松街道 大町街道 新居浜街道 阿波街道 立川街道 長浜街道 若宮街道 宇和島街道 卯之町街道 吉野街道 城辺街道 深浦街道 宿毛街道

 明治四〇年(一九〇七)現在の愛媛県の道路延長は約七、七〇〇kmで、全国の約一・八%を占めており、道路量として類似規模の他府県より大きいが、地形上の理由などからその整備は必ずしも十分ではなかった(数字は運輸経済研究センター『近代日本輸送史』による)。

 四国新道

 ところで、右の県道のうち土佐街道は、明治一九年から二五年にかけていわゆる四国新道として整備されたものである。四国新道は讃岐の大久保諶之丞の提唱や上浮穴郡長桧垣伸らの陳情で愛媛・高知・徳島の三県が協力して、現在の国道三二号と三三号に相当する新道の開削を計画したもので、費用の三分の一について国庫補助を受けて、明治一九年四月琴平宮で起工式を行い、同二七年完成した(愛媛県分は同二五年竣工)。土佐街道のうち三坂新道の開削に当たった人々のうたった「新道開さくかぞえ歌」(作者・郡長桧垣伸)が残されている。

 一ツトセ 人の知りたる伊予土佐の 通路は山また山ばかり ソレ開さくセー
 ニツトセ ふだんの運輸も戦時にも 通行便利が第一よ ソレ国のためー
 三ツトセ 道は馬車道四間幅 一間三尺勾配に ヨク測量セー(以下略)

 自動車事始め

 本県に初めて登場した自動車は、自家用乗用車でもトラックでもなくバスだった。明治四一年(一九〇八)県内各地数路線のバス事業が認可されたが、実際に運行が開始されたのはそのうちの北条~山越間で、明治四四年の一月であったとされている。当時、松山~堀江間には乗合馬車が運行されていて、馬車業者との利害の調整も必要だったのであろう。運転士の賃金、修理費など費用がかさんで経営が苦しく、数年で姿を消したといわれている(廃業年月は不明)(愛媛県旅客自動車協会『愛媛県のバスとタクシーの歩み』)。
 しかし、大正年間に入ると新たにバス会社の設立が相次ぎ、バス・ブームといってもよいような状況を迎えるのである。