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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

二 蒸気船の登場と汽船航運の発展

 西洋型船の奨励

 蒸気船は西洋文明の産物であり、まさに黒船である。幕府は、ペリーの来航した嘉永六年(一八五三)の九月、久しかった大船建造の禁を解くに至った。令には、

  荷船の外大船停止の御法令に候処、方今の時勢大船必要の儀に付、自今御大名大船致製造の儀御免被成候間、作用方竝船数共委細相伺可請指図旨、被仰出候

続いて文久元年(一八六二)、幕府は庶民の大船建造、外国船購入を解禁、国内運輸への使用を許可する趣旨の左記の令を発した(なお、翌文久二年には海外渡航の禁が解かれ、鎖国令は遂に全く廃止されるに至った)。

  百姓町人共は、大船致所持候様御差許相成候間、勝手次第製造不苦候、且又外国商船等買受度望之者は、最寄開港場奉行へ可申出候、右船所持致候上は、御国内手広運送御差許可相成、尤航海事不馴差支候者は、願次第按針の者竝水夫等、御貸渡可相成、云々

維新後、明治新政府は、明治二年(一八六九)一〇月太政官布告を発して、西洋型船舶の充実奨励を告諭するに至った。布告は、

  西洋型風帆船蒸気船自今百姓町人二至ル迄所持被差許候聞、製造又ハ買入等致度者ハ、管轄府藩添書ヲ以テ東京外務省へ可願出事

これは、新政府海運政策の第一歩を示すものであった。さらに翌三年一月、西洋型船所有に対する特別保護をうたった「商船規則」を公布した。こうした政策を幕府及び明治政府が矢つぎ早に打ち出したのは、開国体制に対応するためでもあったが、特に明治二年のものは、米国パシフィック・メール会社を中心とする外国海運企業の日本近海への進出がはげしく、国内海上貨物の自国船による輸送権(カボテージ)すら危ぶまれるようになったからである。

 蒸気船の愛媛県寄港

 瀬戸内海の海運は、こうした荒波に直接さらされることはなかったが、それでも蒸気船の浸透はかなり急速なものがあったと考えられる。
 慶応四年(一八六八)、大阪~神戸間に小型蒸気船が就航して、貨客の輸送を開始したが(通称ストンボ=Steamboat)、このストンボは、明治七年(一八七四)大阪・神戸間の鉄道が開通するまで、この両地間の輸送の主役を果たした。
 また、さきの政府の布告や保護規則に刺激され外国船を購入するものが続出し、明治元年七月から同四年三月までの間に大阪に於て外国人から購入された船舶は一六隻に達し、その買い主には徳島・広島・熊本・鳥羽・高知・金沢・福山の諸藩をはじめ、民間側では、大阪商人の菱屋宇兵衛・播摩屋久之助・鴻池屋儀七・阿波商人の綿屋彦兵衛・長尾最兵衛・土佐の岩崎弥太郎が含まれていたという(佐伯義良『四国旅客船の変遷』)。おそらくこれらの船舶のうち、岩崎弥太郎の東京~大阪~高知航路(明治三年、土佐開成社を九十九商会と改称設立して航路事業を開始した)などを除き、その多くが瀬戸内海域に就航したものと思われ、その一つにさきに引用した内藤鳴雪も乗船したことであろう。しかし確認し得る史実が極めて断片的で、愛媛県にかかわる汽船航運の事実を明治五年以前については確かめることができない。
 明治六年になると、大阪~博多航路に就航する金刀比羅丸について、同年三月に発行されたことが明記されている広告が前掲『四国旅客船の変遷』に収載されている。これによると、金刀比羅丸のスケジュール及び寄港地は左記のとおりであり、蒸気船による瀬戸内の定期航路が三津浜を寄港地の一つとしていたことが確認できる。

  大阪出港 毎月十三日、廿八日、
  神戸、高松、多度津、三津ケ浜、下ノ関ヲ経テ博多ニ至ル
   博多出港 毎月五日、廿日
   下ノ関、三ツケ浜、多度津、高松、神戸ヲ経テ大阪二至ル
  (金刀比羅丸は暗車蒸気船であることは明らかであるが、運航主体、トン数などは不明である。なお、三ツケ浜の取扱所は、窪田高平と記されている)。

 明治六年(一八七三)には、もう一つの史実が確認されている。それは、文久年間に創業された三津浜の石崎商店が、明治六年六月、大阪において汽船(外輪船)天貴丸を新造し、汽船業を創始したことである(石崎商店の後身である石崎汽船㈱の資料による)。天貴丸を愛媛県における民間人による汽船所有の嚆矢としてよいであろう。しかし、天貴丸についても、その明細は不明である。また同船は、定期航路ではなく、同商店の扱貨物を中心に不定期貨物輸送に従事したものであることは、容易に想定できるところである。

 住友「汽船」の成立

 明治七年(一八七四)になると新しい動きがみられた。別子銅山の経営に本格的に力を入れ始めた住友家が明治五年に木造汽船白水丸(約五四トン)を購入し、まず神戸~大阪航路に、次いで大阪・新居浜・三津浜航路にこれを投入してきたことである。新居浜航路への本格的な就航は、おそらく明治七年に入ってからだと思われる。なんとなれば、明治七年五月、大阪・神戸間の鉄道が開通し、ここに就航していたストンボの多くが他航路に転出したからである。
 白水丸の任務は、別子の産銅(粗銅)を大阪の吹所まで海送することであったが(注1)、これによってそれまでこの機能を果たしていた地元の帆船隊(銅廻船と呼ばれていた)は徐々に撤退していった。その意味で白水丸(住友汽船部)はいわゆる自家運送船(インダストリアル・キャリア)であったが、当時の海運事情から、数少ない蒸気船の寄港を求める声が強く、三津浜、あるいは今治への寄港(注2)が行われたものと考えられる。

  注(1) 白水丸の運航に関する兵庫県知事への申請書には「別子産銅等を海送するため、阪神から新居浜・三津浜まで」の航路を開設すると述べられている(白石義弘著「住友汽船物語」未刊)。
  注(2) 『今治市誌』ほかによれば、今治の飯忠七は明治四年ごろから七隻の二十石船を持ち、今治・大阪間を手漕ぎで往来していた(これを押切船と称した)。忠七の積み荷は、往路は綿替木綿の反物であり、復路は綿を持ち帰ったが、往復五日を要したという。時には二人位のお客も乗せた。明治五、六年になって汽船という強敵が現れると忠七は、手を尽くして汽船の寄港を誘致し、明治九年には自ら吉忠回漕店を創業して汽船営業とその取扱業を開始して、今治港繁栄の基礎を築いたといわれている。忠七は押切船の時期から住友の現金・文書などの送達業務にたずさわっており、白水丸の今治寄港はこの忠七の誘致が大きく働いたものと思われる。

 住友「汽船」は、白水丸に加えて明治七年廻天丸(外輪蒸気船 約七六トン)及び富丸(詳細不明)を購入して船隊を強化し、住友本店内に蒸気方を設置して汽船の運航を管掌せしめるなど、海運業務に積極的に進出してきた。明治一三年(一八八〇)には新造船安寧丸の竣工をまって、大阪~神戸~新居浜~下関~博多~長崎~厳原~釜山の航路を開設し、同一四年には康安丸を新造して大阪~新居浜~下関航路に就航せしめた。しかし、同一七年五月、瀬戸内の船主を糾合して大阪商船会社が設立されるに及んで、これに深くかかわっていた住友は持ち船を同社に譲渡して、独自の海運業務を事実上休止した。なお、これに伴って別子産銅などの大阪への海送は一部大阪商船会社の船便に移ったが、大部分は元禄以来の銅廻船が復活してこれを担当した(銅廻船は川之江浦に所属するものが多かった)。

 大阪商船会社の設立

 明治一〇年の西南の役は一時的な海運好況を生ぜしめ、蒸気船の導入に一層の拍車をかけるに至った。瀬戸内海においては船主があたかも雨後の筍のごとく簇出し、同役後増加した船舶は百十余隻、船主も七〇余名の多きに達した。これらの船主はいきおい過激な運賃競争を繰り広げ、業界の秩序は乱れに乱れた。これを憂慮した住友の伊庭貞剛らは、各船主の連合を呼びかけ、明治一四年、大阪に元扱所たる大阪汽船取扱会社(のちの同盟汽船取扱会社)を設立して、加盟船主の収益の一部を同会社にプールすることによって過当競争を排除しようとした。しかし、これも功を奏せず、曲折を経て明治一七年五月、五五名の船主と九三隻の船舶を合同した有限責任大阪商船会社が設立され(資本金一二〇万円)、頭取に住友の広瀬宰平が就任した(注1)。

  注(1) 頭取、取締役に続く役員である株主委員一〇名のうち、愛媛県在住者として田中平十郎という名が見られるが、いかかる人物か明らかにすることができない(現在の香川県在住者であったかもしれない)。また、大阪商船会社の設立に積極的に協力し、右の同盟汽船取扱会社の社長も務めた今西林三郎は北宇和郡広見町の出身で、この時期、大阪で回漕店を経営していたが、大阪商船設立後は同社の回漕部長となった。なお、大阪商船会社発足時の一〇〇株以上の株主の中に菊池清治(八幡浜)、長山昌三郎(宇和島)菊池五平の県人三名が含まれていた。

 こうして設立された大阪商船会社は大阪を基点とする西日本各地に至る一八の航路(本線)と、大阪に起終点を持たない四航路(支線)を設立して、営業を開始した。うち本県に関係のある航路は次の五本線、一支線であった。

    第五本線  大阪 神戸 多度津 今治 三津浜 室津 三田尻 馬関 博多 唐津 伊万里
    第六本線  大阪 神戸 多度津 今治 三津浜 室津 三田尻 馬関 博多
    第七本線  大阪 神戸 高松 多度津 今治 三津浜 室津 三田尻 馬関
    第八本線  大阪 神戸 多度津 今治 三津浜 長浜 別府 大分 佐賀関 臼杵 佐伯 延岡 細島
    第九本線  大阪 神戸 多度津 今治 三津浜 長浜 別府 大分 佐賀関 八幡浜 宇和島
    第三支線  広島 宮島 新湊 大畑 阿賀 三津浜 今治 尾道

 運航スケジュールを第九本線(最終港が宇和島)についてみると、新八幡丸、新和歌浦丸、第四大分丸の三隻の船隊によって、大阪出港日が二・五・八の日、最終港出港日が六・九・二の日と決められていて、従前とは様変わりの定時サービスが提供されるようになったわけである。
 大阪商船会社は、翌一八年に共同運輸と三菱汽船の合併によって設立される日本郵船会社と並んで、その後いわゆる「社船」(政府の保護下におかれた定期船会社を業界でこう呼んだ)としてわが国明治期の海運界を二分する地位を確立するわけであるが、日清・日露の両戦役を経て外国航路に主力を移していくことになる。

 宇和島運輸会社の設立

 大阪商船会社が設立された明治一七年当時、宇和海側には蒸気船の定斯的運航は全く見られなかった。阪神、九州方面との舟運はいわゆる和船(千石船)によるもので、その船隊の中核は、雨井浦を中心とする川之石浦の船によって占められていた(雨井浦の海運は、幕末から明治中期にかけて、土佐・九州・瀬戸内海沿岸・阪神との交易で繁栄し、船問屋の隆昌ぶりは目覚ましいものがあったという(『保内町誌』『八幡浜市誌』参照)。宇和島・阪神間の往復は短くて三〇日、天候の関係などで甚だしい時には四〇、五〇日というまどろこしさは、その海運の便を他郷の者に握られているという想いも加わって、二倍にも三倍にも感じられたのかもしれない(『七〇年を顧みて――宇和島運輸会社小史』同社刊、にはそれがにじみ出ている)。
 そのころ宇和島に長山昌三郎という人物がいて、前述の今西林三郎を動かして大阪商船と交渉、前記第九本線の寄港が決まり、明治一七年九月一日には新八幡丸が初めて入港してきた。前述のような交通事情だけに、地元の歓びは大きく、「歓喜の声をあげてこれを迎えた。待望の交通運輸の便が拓けたのだ。旱天の慈雨である。」(前掲書)。ところが「大阪商船は早くも独占航路の弊を曝露、特に貨客の取扱いには横暴不親切を極めた。運賃は高く、その上船員など恰も役人の如き態度を以て乗客に臨むという始末である」(同上)。これがため、明治一七年一一月の末に、資本金二万円をもって宇和島運輸会社の創設となったのである(届け出は一二月一日)。同様の例が徳島の阿波国共同汽船会社(明治二〇年九月設立)にみられるとはいえ、この時期の宇和島経済人の度胸と活力には驚くほかない。
 宇和島運輸会社は翌一八年(一八八五)四月、新造蒸気船を買い入れ、五月から処女航海を大阪商船との併行航路で開始する。以後、二〇間年以上にわたって大阪商船との競争に耐えながら地域の基幹交通手段としての使命を果たすかたわら、堅実な経営成績を維持してきたが、明治四〇年三月、大阪商船会社との間に運航に関する協定が成立し、ようやく安定期を迎えた。明治四三年以降、小型蒸気船による宇和島~吉田航路、宇和島~赤松航路などを開設した。

 近距離航路の近代化

 明治二〇年代に入ると、汽船航運の導入が地場の近回り航路で行われ始めた。年代順に主要航路(企業)について列挙すると左記のとおりである。

  明治二四年一一月 石崎汽船部、汽船函洋丸をもって三津~宇品航路を開設。
  明治二五年 一月 住友汽船部が汽船御代島丸をもって尾道~新居浜航路を開設(住友「汽船」の復活)。
  明治二九年 六月 南予運輸株式会社設立 汽船第二・第三御庄丸をもって平城~宿毛などの航路を運営。
  明治三〇年    東予汽船株式会社設立。四〇年八月東予運輸汽船株式会社と改称。今治~西条~新居浜の沿岸航路や今治~尾道航路などを運営。

 これらに続いて、越智郡島しょ部と今治~尾道を結ぶ航路、三津・高浜~柳井航路、三机~宇品、三机~三津高浜航路、三津・高浜~中島航路などに汽船が就航し始めた。しかしながら、これらのほかにも島しょ部と本土を結ぶいわゆる渡海船が広く存在し、その多くは明治年間を通じて、手漕ぎ船にとどまった。