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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

一 明治初年の交通事情――蒸気船・鉄道以前

 内藤鳴雪の旅

 江戸後期に生まれ大正末年まで俳人・教育行政者として活躍した旧松山藩士内藤鳴雪(一八四七~一九二六年)が、幕末から明治初年にかけて行った、松山~京都、東京~松山の旅をみてみよう(『鳴雪自叙伝』大正一一年、昭和五一年復刻による)。
 ここにとりあげる二回の旅行のうち第一回目は元治元年(一八六四)、一七歳の鳴雪が父の看病のため単身京都に上った際のものである。まず、「藩士に於ては私用の旅行は一切ならぬ事になって居たから、同じ伊予の国内で僅か三里隔る大洲領内へさへ、一歩も踏み込む事は出来なかった」と述べ、藩政時代における旅行・交通の不自由さを教えている。特別に許可を得た鳴雪は、しかしながら、「船の都合が好くても四、五日、もし悪ければ十日も二十日も日数が掛かる」「百里以上の海陸を経ることである故、旅慣れぬ私は、何だか心細い感じがした」と行路の不安を表明している。さて、鳴雪はどのような交通手段(方法)を選ぼうとしたのであろうか。

  「私事に属する旅行でも、藩用の船便がある時は、願った上でそれに乗せて貰ふ事も出来、それならば同行者も多く心丈夫なのであるが、折節その便船はなかった。父が重態であるから、何でもかでも、一刻も早く出発せねばならぬのに、大坂へ向けて公私の船を出す三津浜には、差当って大坂へ赴くべき船便は私用のものさへなかった。そこで、大坂と讃 岐の間を往来する金比羅参詣の船へ乗るが好いと言ふので、それへ乗ることにしたが、その船の出る讃岐の丸亀までは三十里近くの陸を行かなければならない。」
下僕を一人従えた鳴雪の丸亀までの陸路の旅はどうであったか。彼の記述によれば次のとおりである。
  第一日目 松山城下~土屋(土谷の誤りと思われる。現在は川内町) 讃岐街道を駕籠で。(泊)
       土屋の宿は「山中の部落で、夜は物淋しく、殊更慣れぬ宿りであるから久しく眠りに就けなかった」と書いている。
  第二日目 土屋~大頭宿(現在の小松町大頭)。徒歩(泊)
  第三日目 大頭~関の峠(現在の新居浜市と土居町の境界。土居町の西南端に当たる)。徒歩、途中路傍に馬方がいて「帰り馬で安いから乗て下さい」と勧められ、これに応じた。(泊)
  第四日目 関の峠~和田浜(現在の香川県豊浜町和田浜)。(泊)
       和田浜の宿では胡麻の蝿(旅宿などで盗みをはたらく賊)が捕えられる騒動があった。
  第五日目 和田浜~丸亀港。日の高い内に着き、船宿に投じ、暫く休息。
丸亀港からは海路大坂への旅である。
 「これから乗る船はその頃渡海船と言って、金比羅詣の客その他商人等も乗せるが、又吾々如き両刀を帯した者も交って乗ってゐた。もう此処へ来ると少しも侍の権威はない。」
船賃はどうであったか。
 「この渡船の例として、たとへば丸亀から大坂へいくらい広島又は下ノ関へいくらと定め、その航海が順風であって僅かの日数で達しても、又はいかほど日数が掛っても、最初定めた船賃に増減はしない。そしてその間三度の食事も一切船の賄ひであった」

 夜に入って丸亀港を出帆したこの船は翌朝未明、ある港に寄港したが、夜が明けて聞いてみると「備前の国の田ノロ」という港であった(現在の倉敷市田ノロ、下津井港に近接していて、現在も四国側と結ぶフェリー基地になっている)。ところが、夜が明けても船頭は陸に上がって酒を飲むなど一向に船を出す気配がなく、催促しても「まだこの風向きでは船は出せぬ」とうそぶいて取り合わない。客の一人が「もう船で行くのは止めて陸にせう。かう長く待ってゐては用事に差し支える」と上陸したのにつられて鳴雪も、「いっそのこと上陸して山陽を行かう」と思いついて、陸路岡山へ向かった。ところが、「是は後に聞いた話であるが、斯の如く私共その他の船客が上陸したのは、かねてより設けられた罠に掛った」のであった。ひどい船頭がいたものではある。このあと鳴雪主従は四日掛かって兵庫港まで歩き、兵庫港から大坂へは「度々船が出るから、海路をとろう」と船で大坂へ向かうのである。
 鳴雪の二度目の旅は、明治四年の洋学修業のための上京と、同五年の帰郷の旅である。明治四年の上京の折は、

  「海路は別に滞りもなく大坂へ着いて、夫れから東海道を東上した。」
  「何れも書生の身分だから日々徒歩と定め、よくよく足が疲れると荷馬の空鞍に乗った。」
  「川口は幕府の時と違って船渡しの手当も充分であるし、又冬の季節でもあったから、別に川止めにも出会はず無事に東京へ着いた。」
  「大磯からであったと思ふ其頃東京では専ら流行して居た人力車と云ふものがあったので、三人ながら夫れに乗った。実に早いものだと驚いた事であった。」

 明治五年、鳴雪は帰松の旅に出立する。
 まず、「東京を出発して、其時はもう人力車がどこにもあったから、一日の行程も以前よりは早くはかどって、大阪まで着いた。川止めなどの旧藩時代の如く殊更なことをせぬから何の滞りもなかったのである。」
 大阪に着いた鳴雪は、そこから海路松山へ向かう。その時の船便の状況は左記のとおりである。

  「海路はもう内海通ひの汽船があったけれども、凡てが中国沿岸から、九州方面へ通航するばかりで、四国路は多度津の金比羅詣りに便する外何所へも寄らない。従って吾が郷里の三津浜へは無論寄らないのだが、特に頼むと一寸着けて呉れると云ふ事を聞いたので、遂に何とか丸と云ふ船に便乗した。乗客も随分多くて、中には東京帰りの九州書生なども居て、詩吟や相撲甚句などを唄って随分騒しかった。三津の浜へ着いたのは、夜半であったが、私と今一人の客を艀へ乗せて、それが港内へまで廻るのが面倒だからと云って、波止の石垣を外から登らせて追い上げられた。 少し不平であったけれども、もともと特別の便乗なのだから仕方がない。其夜は三津の浜に一泊して翌日帰宅した。」

 内藤鳴雪の旅からの引用がつい長くなってしまったが、われわれは多くのことをそこから読みとることができると思う。まず、ここにあげた第一回目の旅と第二回目のそれとの間には七、八年の隔たりしかないのだが、明治維新という一大革新をはさんで、交通事情にも大きな違いがあることがわかる(川止めの廃止などで鳴雪もそれを痛感したようである)。新しい交通手段(機関)の登場も紹介されている。一つは陸上の人力車であり、いま一つは瀬戸内海を航海する汽船である。しかし、人力車もまだ文字通りそのはしりの時期である(入力車がその発達史上、一つのピークを迎えるのは明治一六年で、この年当初多かった二人乗り人力車数がピークに達した)。また汽船も、鳴雪の回想にあるとおり、定期的運航の形をとるには至っていないのである。

 諸国御客船帳

 視点を変えて、海上貨物輸送の状況をみてみよう。以下に紹介する資料は、石州浜田外ノ浦港(現島根県浜田市)の回船問屋に残されている『諸国御客船帳』で、同港に出入りした船舶の船名・積荷・行き先などを克明に記録したものである(柚木学編『諸国御客船帳』上、昭和五二年)。明治初年に愛媛県の船も多数この港に入津している様子がうかがわれよう(明治一〇年代までのもので、記載事項の詳しいものを選んだ。)
 ① 住吉丸 桜井・松吉屋  林 治様
       明治五申三月廿日越ケ浜ニ而御約束、同六酉四月二日下入津、ぬりもの売、五月五日出船被成候。(現今治市桜井の松吉屋に所属する、林治が船頭の住吉丸が前年の約束に従って、明治六年四月二日、下 り便で〔同港から北陸、北海道へ向かうのが下り、その逆が上り〕入港し、積荷のぬりものを売って、五月五日に出港した、というわけである)
 ② 蛭子丸 椋名村(現越智郡吉海町) 黒川兼造様、同久造様
       明治八亥四月二三日下入津、焚込砂糖御売、廿五出船被成候、同十二卯六月十一日下入津、黒砂 糖弐百丁御売払、半紙・杉板・焼もの御買、七月二日登出船被成候。
 ③ 新栄丸 桜井大工屋事 石丸徳三郎様
       明治十八酉七月廿六日下り入津、四ツ切塩・ぬりもの御売、煎鰯・塩さば・てん草・焼もの御買、八月九日登り出船被成候。
 ④ 長久丸 大井新町村(現大西町大井) 天野本次様明治十二卯三月廿日下入津、廿五日出船、又五月三十日登入津、又三月廿三日登入津、同十五午四月廿九日下入津、目差鰯売、扱苧御買、五月三日出船、又八月廿三日下入津、塩・石油御売、又九月四日登入津、ぬり物御売、扱苧・焼もの御買。
⑤ 虎吉丸 野間郡はし浜(現今治市波止浜) 宮谷豊吉様、兼蔵様
      明治十丑四月廿日下入津、ぬり物売、塩さば御買、六月十五日登り出帆被成候。
⑥ 栄福丸 野間郡波方村(現越智郡波方町) 牧野五郎兵衛様(持船)村上吉太郎様
      明治十九戌八月七日登入津、醤油御売、中保御買、西京東
      福寺行松材木積、廿八日出船被成候。

 ここに登場する船は、まず蒸気船ではなく、いわゆる和船つまり日本型帆船であり、大きさは石数で五〇〇石前後、現在の重量トン数でせいぜい一〇〇トンまでである。こんな小さな、しかも純帆船が瀬戸内海を脱け出し、玄海灘をかわして裏日本の港に出入りしていたのである。また、「登り」「下り」という記載からうかがわれるように、さらに北上して北陸、奥羽、北海道に至る、いわゆる北前航路に就航していたものもあった(ここには登場していない)が、越智郡伯方島では、この航路に就航する船舶を「北前通い」(もしくはきたまいがよい)と呼んでいたという。次に、どれらは帆船であり、その航海は風や潮流によって影響を受けるため、当然のことながら不定期航海であり、また積荷の季節性によって規定される季節航海でもあった。最後に、これらの船は港での記録から明らかなように、いわゆる賃積船(他人から委任された貨物を運送し、その対価としての運賃の稼得を目的とする形態)ではなく、買積船(船主あるいは船頭が自らのリスクで商品を買い入れ、それを自己の船に積み込み、他地域でそれを売り捌くことによって差益を得る形態)で、海上運送と積荷の売買が一体となっていた(最後の⑥栄福丸の復荷だけは、賃積み形態とみなされる)。これはいいかえれば、前述の自己運送の形態であり、汽船航運の発展によって徐々に、輸送を専業とする業者による「他人運送」に浸触されていくのであるが、この時期においてはいまだこうした形態が支配的だったわけである。