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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

六 新産業都市建設計画と工業開発

 拠点開発方式の新産業都市

 高度成長のさなか、昭和三七年の全国総合開発計画の策定に当たって、所得倍増計画の太平洋ベルト工業地帯構想が強い批判を受けた。それは、工場が特定地域に集中して地域格差をますますひどくするという批判であり、積極的には、地方における都市機能の充実を図るべきであるという主張であった。ここで拠点開発の視点が導入され、昭和三六年に低開発地域工業開発促進法、昭和三七年に新産業都市建設促進法、昭和三八年に工業整備特別地域整備促進法が相次いで制定されたが、いずれも地方に工場を誘致し、地域開発の核とすることが目ざされていた。
 昭和三八年には、北海道から九州に及ぶ一三地域(最終的には一五地域)が新産業都市に指定され、愛媛県の東予地区がその一つに選ばれた。

 東予地区新産業都市計画

 新産業都市の指定を受けた東予地区とは、今治・新居浜・西条・伊予三島・川之江の五市と周辺一二町村を含む広大な地域で、臨海部の既存工業を中心に工業開発を展開しようとするものであった。その後の住友化学の西条市進出、住友東予アルミニウム製錬の壬生川町進出に見られるように、臨海地の土地埋立造成も、広大な土地を必要とする重化学工業に重点がおかれていたのが特徴であった。それは、東予新産業都市計画の工業出荷額の計画目標(表工4-21)を見れば明瞭であり、昭和五〇年の目標として化学・機械の成長を高く見積もり、重化学工業化率を昭和三五年の六五%から、昭和五〇年の七一%(修正前は七三%)へ引き上げることが見込まれていた。また、大規模工業開発は「立地想定業種及び輸送面を考慮して」西条・壬生川に集中し、主としてそこの海面埋め立てによって約一、〇〇〇㌶の工業用地を造成し、新居浜と並んで東予新産業都市の核とする計画であった。
 この東予新産業都市がもたらした効果・影響は、産業・雇用にとどまらず地方財政や自然環境さらには政治的関係にも及び、それらを全面的に公平に評価することは大変難しい。だが、それだからこそ一層、特定の事項だけをとりあげて一面的評価をするのは避けなければならない理屈である。
 工業出荷額の計画目標に関する限り、東予地区は、新産業都市の中でも優等生で、昭和五〇年計画に対する目標達成率は名目で二三一・五%、実質でも一三三・一%に達し、所期の目的は達したということができる。
 業種別に工業出荷額の目標達成率を見てみると、非鉄金属(アルミニウム)の異常な拡張ぶりを除けば、化学・機械の住友関連の達成率が相対的に低く、逆に、地場資本の輸送機(造船)が六〇八%(名目)と高く、高度成長期の県内の立役者であったことを示している。ただし、異常に成長が大きかった部門は、その反動として不況期には設備過剰をひき起こしてしまった。地場産業に属するものとしては、紙・紙加工品製造業が四五六・二%(名目)と目標を大きく上回ったのが目につく。繊維工業も二六九・七%(名目)と平均以上の目標達成率であった。重化学工業では、目標そのものが高く設定されていたのに対し、これら地場産業は目標が低く見積もられていて、それほど期待されていなかったのに予想外に健闘したということであろう。
 このように工業出荷額の目標達成率は全体として順調であったということができるが、工業出荷額の中味を質的に吟味すれば、かえって問題を生じたといわなければならない。
 第一は、素材型の重化学工業に傾斜しすぎたために、石油危機以後の加工型産業構造への変化に対応することができず、構造的不況業種を多く抱えることになってしまった。
 第二は、出荷額の大幅増加には住友など中央の大資本の工業誘致によるものが多く、地元の関連産業・地場産業への波及効果が弱かった。
 第三は、資本集約型の工業に重点がおかれて、製造業への雇用の吸収が期待ほどではなかった。目標年次の昭和五〇年は不況の年で人員削減が相次いだという特殊事情はあるが、計画では、製造業就業人口の昭和五〇年目標を九万八、九六〇人としていたのに対し、昭和五〇年実績は七万四、六五二人で目標達成率は四三・〇%と半分にも満たない。また、計画では、東予地区の人口を昭和五〇年に六四万人にするという遠大な計画を立てたが、現実には昭和五〇年も約四九万人と昭和三五年とほとんど変わらず、この計画目標は全くの夢に終わった。

表工4-21 東予地区新産業都市計画の工場出荷額目標達成状況(第一次基本計画)

表工4-21 東予地区新産業都市計画の工場出荷額目標達成状況(第一次基本計画)