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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

一 愛媛県の産業構造の変化

 高度成長と石油革命

 戦前水準を回復したわが国の工業生産は、昭和三〇年代にはいって飛躍の時期にはいり、いわゆる高度成長期を迎える。高度成長の原動力は技術革新であり、生産設備の近代化と新製品の量産化とが車の両輪となったというのが通説である。だが、現実の舞台を動かし、かつ主役を演じたのは、石油であった。生産設備の点で戦前のものを一新し、原料の点でも革命的変化を強制したものは、石炭から石油への転換、すなわち、石油革命であったといわなければならない。
 戦後、アメリカのメジャー(国際石油資本)が自国原油の保護のために採った価格政策は、メキシコ湾岸価格をベーシング・ポイント(基準価格)として世界中の原油価格を統制するという強力なカルテル価格であった。これによって、メキシコ湾岸までの距離が遠く運賃がかさむ中東の原油価格は、著しく低位におかれることになった。中東との地理的関係において、欧米のようにスエズ運河の通行料を要せず、印度洋を大型タンカーで運べるわが国は、バーレル当たりで最も安い時は一㌦六〇㌣、概して二㌦という中東原油の恩恵を長期にわたって満喫できたのであった。
 昭和三〇年代の一〇年間に大量安価に供給された中東原油は、わが国のエネルギー源としての石炭を駆逐したばかりか、第二次エネルギーの電力も、水主火従から火主水従へと石油依存へ大きく傾斜させることになった。昭和三〇年代の前半において、わが国の石炭産業は急激に斜陽化し、三池の労使激突など大きな社会問題をひきおこした。また、化学工業の原料面でも、水力発電の余剰電力に頼ってきたカーバイド工業の存立が困難になり、全面的に石油化学への移行を早めていった。

 愛媛県工業の重化学化

 愛媛県の工業も、この時期に、この流れに沿って、激しい構造的変化を経過した。昭和三六年時点での、愛媛県工業の重化学比率は、既に六四・四%に達して、全国平均の五七・九%を上回っており、愛媛県工業の重化学化が先行したことを示している。この年に、岡山県の重化学工業比率は四四・九%、香川県、徳島県はそれぞれ、三九・八%、三三・四%にすぎなかった。
 昭和二五年から三五年の一〇年間に、愛媛県工業の重化学比率は、四四・四%から六二・五%へ急上昇し、それにつれて、軽工業比率は、五五・六%から三七・五%へ低下し、出荷額において完全にその地位が逆転した(表工4-9)。
 重化学工業の中で最もめざましい伸びを示しているのは、石油精製工業であり、昭和二五年には県工業構成比で〇・一%にすぎなかったものが、一〇年後には九・〇%と、率にして九〇倍の伸びである。なかんずく、C重油は、石炭に代わる主要燃料として驚異的増加を示している。その時期が昭和三〇年代の前半であることが図工4-2によって明らかである。県下のC重油の出荷額は、昭和三二年の一〇億円強から昭和三六年の一〇〇億円弱へ、わずか四年で一〇倍にふくれ上がったのである。
 金属・金属製品の急増は、金額的にはそのほとんどが、別子・新居浜の銅・アルミニウム・アルミナ・ニッケル・金・銀の地金の伸長によって占められている。これは、朝鮮戦争後の不況で大きく落ち込んだ反動と、高度成長に転じた本格的需要増とによってもたらされたものである。また、愛媛県にも、ようやくビル建築が盛んになり始め、鉄骨などの金属製品が伸びている。
 機械の伸びもめざましいが、これには、動力耕うん機の急増、クレーン・変速機の好調、貨物鋼船の新造ブームなどが寄与している(図工4-3)。
 他方、軽工業の方は、タオルが好調であったほかは、繊維・食品の伸びが鈍く、また、紙・パルプも景気による好不調が激しかった。この間、綿紡の出荷額は減少し続けて、昭和三三年に県下繊維工業出荷額の首位の座をタオルに譲り、昭和三六年には、タオル出荷額の八二億円に対し、純綿糸は四三億円と約二分の一になってしまっている。
 このように、愛媛の産業構造は昭和三〇年代の前半に、かつてみないほどの変動を示すのであるが、総じて、それは中央資本たる大企業の側の構造変化を反映するものであったといっていい。ただ、造船・農機具・タオル・紙パルプなどでは、県内生産に占める比重はまだそれほど大きくはないものの、地場資本による飛躍的成長の胎動が感じられる。

表工4-9 愛媛県工業の重化学化ー出荷額構成比

表工4-9 愛媛県工業の重化学化ー出荷額構成比


図工4-2 愛媛県石油製品出荷額推移

図工4-2 愛媛県石油製品出荷額推移


図工4-3 愛媛県機械器具出荷額構成

図工4-3 愛媛県機械器具出荷額構成