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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

3 木蝋

 木蝋の衰勢

 木蝋ははぜの実から採取される油であるが、採取したままのものを生蝋、純度を高めて漂白したものを晒蝋という。
 愛媛県下の木蝋生産の全盛期は意外に早く、明治二〇年代から三〇年代であって、明治二八年には、生蝋の製造戸数三八四、生産数量一六○万貫、価額一〇五万円、晒蝋の製造戸数八〇戸、生産数量一五七万貫、価額一三三万円に達し、この記録は二度と破られることがない。これ以後は、戸数・産量・産額ともに減少の一途をたどり、第一次大戦勃発時の大正三年(一九匹)には、生蝋の生産量二六万貫、価額二七万円、晒蝋の生産量一五万貫、価額二〇万円と、全盛時に比べて生蝋で六分の一、晒蝋で十分の一産量に縮小している。その後も衰勢をおしとどめることはできず、晒蝋の産量は、大正三年の一五万貫から第一次大戦中の二〇万貫台へ盛りかえしたものの、昭和一〇年(一九三五)には八万貫(昭和九年には四万貫)という水準にまで落ち込んだ。木蝋(生蝋と晒蝋の合計)の製造戸数も大正三年の二〇一戸から昭和一〇年の一回戸へ激減し、気息奄奄というありさまであった(表工3-20)。

 内子白蝋の消滅

 晒蝋の中心地は、喜多郡なかんずく内子町であった。最盛時には、喜多郡がわが国の晒蝋の約四割を生産したといわれる。内子町は、晒蝋の第二次加工に専業化し、県下一円、あるいは九州から原料の生蝋を仕入れて良質の白蝋を製造した。
 内子町の製蝋業が栄えた事情としては、一、農村家内工業が一般的であった晒蝋において工場経営を営み、分業の利益を享受できたこと、二、箱晒による独得の製造技術を有し、品質が優秀であったこと、三、取り引きのロットがまとまり、輸出など大口の取り引きに有利であったこと、四、この地域に熟練労働や技術が集積し、外部経済の利益を生じたことなどを指摘することができる。
 しかるに、木蝋の衰微の影響を最もきびしく蒙ったのも、内子であった。喜多郡の晒蝋は明治二八年の全盛時には一二一万貫、一〇三万円の産額であったのが、大正三年には七万貫、九万円余に激減している。大恐慌時の昭和五年には一万四、〇〇〇貫、二万円という惨檐たるありさまであった。大正三年にはまだ、喜多郡が愛媛県の晒蝋の約半分を生産していたのに、昭和五年では全県生産の二割を切るに至った。喜多郡の晒蝋の生産は、海岸部の上灘(現双海町)へ移り、内子の晒蝋は、大正一三年七月、最後の業者浅野善作の廃業により完全に途絶えてしまった。
 内子の晒蝋を没落に導いたものは、何だったのだろうか。俗にいわれるように、ランプや電灯の普及が木蝋を滅したのではない。ろうそくは高価であったから(それも大部分が生蝋で作られ、晒蝋は高級ろうそくの表面の上掛けや装飾に使われるだけであった)、庶民の日常生活に用いられることはほとんどなく、電灯の普及が晒蝋の余命を絶ったとは考えられない。また、断髪令によって梳油、びん付けの需要が減ったという説明も、内子の晒蝋が明治になって後に最盛期を迎えたことを考えれば、あまり説得力をもたない。
 もともと木蝋産業は、全国的に見てもそれほど大きい産業ではなく、最盛期の明治二八年の全国製造戸数でも二、八九二戸であった。同じ年に製糸は四〇万戸、機業は六六万戸であったのだから、これらと比べれば、その産業的スケールは問題にならないほど小さい。むしろ、内子の晒蝋は、織物・皮革・木工の仕上げ、化粧品など西洋の技術と結びついて新しい需要によって発展し、一時は、喜多組などを通じて海外へも輸出された。木蝋産業の国内消費の基盤は、最盛期においても確立されることがなく、脆弱であった。内子は地場産業化(移出産業化)することによってブームとなり、その拡張のとがめがいち早くあらわれたと見るべきではないだろうか。木蝋産業は小さい産業だから、すぐにコップの中の巨人になってしまったのである。
 木蝋(晒蝋と生蝋)の用途は、織物の染色・防水・仕上げ、皮革の染色・仕上げ、木工の仕上げ、髪油・整髪料、クリーム、複写紙・蝋紙・特殊紙、機械・金属の維持・保全等々多岐にわたり、いわば産業の発達とともに用途は広げられていった。しかし、工業的利用の多くは、精製されていない生蝋で充分に用をなし、コストの低いことが重視された。晒蝋は、繊細な美しさが要求される高級織物や化粧品などに限られることになった。内子は、世界第一級の白蝋を産出しながら、あるいは産出したがゆえに、その用途はいっそうきびしく狭められることになったのである。晒蝋の衰退は生蝋よりも急速であった(表工3-20)。
 皮肉にも木蝋の用途が広がれば広がるほど他の製品との代替関係・競合関係を生じることになった。とりわけ、外国油脂製品の輸入と、新興の化学(油脂)工業との競争の影響を強く受け、生蝋を含めた木蝋全体が次第に敗色を濃くしていった。愛媛県の木蝋生産が急増し一息ついたのは、第一次大戦中に外国製品の輸入が途絶えた束の間のことであった(表工3-20)。
 木蝋の直接の代替財はパラフィンであるが、広い意味での代替関係は、石炭・石油を原料とする化学工業・油脂工業全体に対して生じる。初期のわが国の化学工業の発火点となったものは、コールタール工業であった。コールタールは、明治年間に開始された都市ガスの副産物として大量に排出され、利用の途がなくて持て余したくらいだからコストはきわめて安かった。明治後期に製鉄用コークスの生産が増加するにつれて、国内のタール工業は本格的発展の緒についた。タールからは燃料用のピッチのほか、タール軽油が生産され、これをもとにベンゾールなどの揮発性の油やパラフィンが製造された。また、石油製品の、グリース・潤滑油なども木蝋の強敵であった。これらは、木蝋よりもはるかに大量に安価に供給され、かつ製品の種類も、化学的組成の相違によって多様であり、工業的用途に最も適した製品を開発していくことができた。
 新素材への交替の時期にあたって、内子の晒蝋が第二次加工専業であったこと、品質が高級であったこと、大量生産であったことなど、かつての長所は、すべて不利にはたらいた。時代の流れは、安価な工業原料を要求する時代に変わっており、そうなれば、内陸部にある内子の地理的条件がコストを高くするものとして、きびしくクローズアップされることになった。県下最強だった内子の晒蝋業は、他地域に先がけて、大正年代に一軒残らず全滅した。

表工3-20 愛媛県木蠟の推移

表工3-20 愛媛県木蠟の推移