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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

三 生糸暴落と弱小経営の淘汰と粘着―製糸業

 輸出の花形製糸業

 明治以降、生糸は日本の代表的輸出商品であったが、大正・昭和初期にかけても、輸出商品の首位を占める生糸の地位はゆるがない。大正九年(一九二〇)から昭和一〇年(一九三五)に至る長い不況の間にも、輸出数量、輸出金額ともに堅調を示し、わが国の総輸出額に占める割合も、昭和六年までは三割台の高率を維持して、外貨獲得額において綿糸・綿布を大きく引き離している。生糸の輸出金額は、大正一四年の八億八、〇〇〇万円がピークで、昭和四年の大恐慌までは七億円台を保った。数量ベースでは、昭和四年の三万五、〇〇〇トンがピークで、昭和一〇年までは三万トンの輸出総量を維持した(表工3-7)。
 生糸の生産高も年々ハイペースで増え、その四分の三は輸出されていた。特に器械製糸は、その大部分が輸出に向けられ、製糸技術の改良と品質の向上とが貿易量と生産量の拡大を支えてきたのであった。二〇世紀にはいるや、アメリカは東海岸のパターソン市を中心として世界最大の絹織物の産地へと発展を遂げていたが、大正八年には、その原料生糸の七割を日本から輸入し、日本は輸出生糸の九割以上をアメリカにふり向けるようになっていた。

 伊予糸の名声

 もともと日本の生糸は、原料まゆや紡ぎ方にムラがあって上等ではなく、フランスやイタリアの糸よりも評価が低かった。アメリカ絹織物業の原糸として、丈夫さを要求されるタテ糸としてはイタリア生糸におよばず、日本生糸の良質のものがヨコ糸として使用に耐えるという程度であった。このような中にあって、愛媛産の生糸のみが優良なタテ糸として使用することができ、アメリカ市場でフランスやイタリアの生糸に代わりうるものとして高い評価を得た。
 これには、早くから技術の改良と品質の向上につとめた数人の先駆的製糸家に負うところが大きく、なかでも、大洲町(現大洲市)の程野家の茂三郎・宗兵衛、河野家の喜太郎・忠太郎・駒治郎などの人達は、特筆に値する。彼等は、明治の比較的早い時期から、最新の器械設備を導入して改良を加え、常に県下最高の近代施設をもつ工場としてトップを走ってきたのである。河野駒治郎は経営の才にも長け、織物・呉服・林業を兼営するほか、アメリカへの生糸の直輸出を試みて成功した。霧が多く南国としては低温の大洲盆地のまゆと肱川の水量と水質とは、技術の優秀さと相まって、大洲の糸は日本一といわれ、「伊予糸」の名声をほしいままにしたのであった。
 一方、愛媛県には、昔ながらの零細な座繰製糸も多く、これらは、出荷量もまとまらず、品質も劣り、輸出には不向きであった。輸出向けの単位は一担と称し、一担は一〇〇斤(一六貫)という大量だったから、零細業者は、ロットの小さい地遣(内地)向けの生産に特化し、主として京都・金沢・福井の機業地へ移出された。

 糸価の崩落と相次ぐ操短

 第一次大戦後の恐慌で、生糸の価格も暴落をした。横浜生糸取引所で大正九年(一九二〇)の一月に一〇〇斤当たり四、三五〇円の開所以来の最高値をつけた生糸相場は、同じ年の四月の商品恐慌で暴落し、八月末には一、一九五円と四分の一近くに下がってしまった。この間、四月一六日から一九日まで横浜生糸取引所は立ち合いを停止している。
 この時を第一段として、長い不況の間に生糸は何回も段下げをくりかえし、世界大恐慌のあおりを蒙った昭和五年(一九三〇)以降には、明治以来の安値である五〇〇円台にまで下がってしまった(表工3-8)。
 大正九年の戦後恐慌では、第二次全国蚕糸業大会が全国一斉の休業を決議し、松山でも愛媛県蚕糸業大会が開かれて、全国大会の決議どおり、大正九年一一月三〇日から大正一〇年二月一五日まで一斉休業にはいった。しかし、宇和島町・大洲町(現宇和島市・大洲市)などの製糸工場では協定を無視して大正一〇年一月から操業を開始し、帝国蚕糸会の調査委員から操業中止の勧告を受けている。
 その後、生糸の輸出が伸び、生糸の市況は二、〇〇〇円台を回復したが、大正一二年の五月以降再び市況が悪化し、関東大震災の影響もあって、大正一三年(一九二四)三月の全国製糸業者大会は、一〇日間の全国一斉休業と八王寺格生糸の最低価格を二、〇二〇円とすることを決議した。愛媛県の製糸同業組合も、これを受けて三月二五日から四月三日までの県下一斉休業にはいった。
 次いで大正一五年、為替高のため生糸相場が暴落し、一一月には生糸救済資金として日銀が横浜正金銀行を通じて二、二五〇万円を融資するという事態になった。全国の製糸工場は一斉休業にはいり、愛媛県製糸同業組合も、昭和二年(一九二七)一月三〇日から二月一五日まで操業を一斉に停止した。
 昭和二年の金融恐慌で糸価はさらに下がり、この年の一〇月には、帝国蚕糸株式会社(第三次)が設立され、余剰生糸の買い入れと生糸担保の貸し付けとを行って、窮状の製糸業を救済することになった。愛媛県製糸同業組合は、総会の決議に基づいて昭和三年一月二〇日から二月一九日までの間、県下工場の一斉休業を行った。
 昭和四年一〇月、世界大恐慌のショックで生糸相場は暴落し、同年一一月、蚕糸業同業組合中央会は、生糸の共同保管、操業短縮、糸価安定融資補償法の発動要請などを決議した。愛媛県製糸同業組合は、総会の決議に基づいて昭和五年一月二五日から二月一五日までの間、県下の工場を一斉休業とし、二月一日から五月五日までの間、全釜数の二割を封印して、生産制限を行った。それにもかかわらず、生糸市況の低落はとどまるところを知らず、昭和五年一〇月には一〇〇斤五〇〇円台と明治二九年来の安値となった。県内の工場法適用製糸工場一九四工場は、昭和六年(一九三一)三月一日から一か月間一斉に休業にはいった。
 昭和六年の蚕糸業組合法により製糸業者の共同規制を強め、また、昭和七年の製糸業法により小規模工場の新設を禁止して競争を制限する一方、昭和七年には、糸価安定融資担保生糸買収法、糸価安定融資損失善後処理法を制定して、滞貨の生糸約一〇万俵を買い上げるなどの手が打たれた。これにより生糸の価格はややもちなおしたかに思われたが、昭和八年秋、生糸の輸出価格が急落し、愛媛県製糸同業組合は、総会の決議に基づいて、昭和八年一二月一〇日から二月末日まで一斉休業を実施した。昭和九年二月には、日本中央蚕糸会が輸出生糸の三〇%出荷制限を実施し、七月には輸出生糸取引法が施行されて、生糸問屋の免許制、取引登録制が実施に移された。
 このように、第一次大戦の戦後恐慌から昭和恐慌に至る長い不況の時期は、生糸価格の大幅な崩落をもたらし、製糸業にとっても試練の時期であった。製糸業は、紡績業とちがって業者の数も多く、また零細業者も含まれていたので、業界の足並みを揃えることすら容易ではなかった。

 愛媛製糸業の推移

 この苦難の時期に愛媛の製糸業はどのように推移したのだろうか。
 まず、大正から昭和にかけて、あれほど操短をくりかえしながらも生産量は増加し続けてきたという事実に驚かざるをえない。愛媛県の生糸の年生産量は、大正九年(一九二〇)の二二万貫から昭和六年(一九三一)。の四四万貫へ倍増している。そして、昭和一〇年でも三八万貫の生産量を維持しているのである。
 金額からみれば、糸価の崩落を反映して大正九年と昭和六年の年生産額はほぼ同額であり、それ以降は低下の傾向を示している。とはいえ、製糸業は、長い恐慌の期間を乗り越えて、なお愛媛の代表的大産業であり続けた。製糸業の命脈を絶つためには、第二次大戦における総力戦体制と徹底した戦時統制とを要したのである。
 愛媛県の製糸工場(一〇人規模以上)で働く労働者の数は、大正一〇年の九、五〇〇人から昭和五年の一万四、〇〇〇人へ、ほぼ五割の増加を示し、設備釜数も、大正一〇年の一万釜弱から昭和五年の一万二、〇〇〇釜弱へ、二割の増設となっている。

 愛媛製糸業の零細性

 第一次大戦中四〇〇近くあった座繰製糸の数は、戦後恐慌の一両年のうちに半分以下の一六〇に急減した。けれども、その後は、昭和七年(一九三一)まで愛媛県の座繰製糸場の数は一〇〇台を維持している。全国的には明治末期にほとんど姿を消した座繰製糸が、愛媛県では昭和初期まで存続したこと、これは一つの大きな特徴である。また、器械製糸工場も概して小工場が多く、一〇〇釜未満の規模の工場が大半を占めていた。そして、主として南予の、喜多・西宇和・東宇和・北宇和の四郡一帯に散在していた。この状態は、大正五年から昭和一〇年まで基本的には変わっていない(表工3-10)。まさしく「山間僻陬の地によく小規模工場分布して、到る所の農村に製糸工場の枠音を聞くのは本県独得の景物」(愛媛県経済部)という言葉のとおりである。

 愛媛製糸業の地場的性格

 それではなぜ、愛媛県では零細な製糸工場が存続しえたのだろうか。
 ひとつの説明は、愛媛の製糸業には県外からの大資本の進出がなく、地場資本または地場の経営によって担当されてきたということである。ただ、例外といえそうなのは、県下随一の近代的工場として出発した南予製糸の末路である。南予製糸株式会社(資本金三〇万円)は、大正六年(一九一七)、今西林三郎(大阪商工会議所会頭)・山下亀三郎(山下汽船社長)など郷土出身の実業家の出資によって設立された。その後、大正一二年に徳島の四国製糸と合併し、その分工場となり、昭和七年(一九三二)、経営がいきづまって解散した。昭和八年になって、その閉鎖された工場を鐘紡が買い取って鐘淵紡績宇和島工場としたというのが、この時期までの中央大資本の県下製糸業進出の唯一の例である。これとても、増沢式八条操糸機二〇〇釜という小規模のものであった。
 長野県の製糸業では、明治四四年(一九一一)には、片倉組四、六六四釜、山十組三、二三二釜、小口組三、〇七〇釜、岡谷製糸二、六四一釜、山一林組二、一九四釜、尾沢組一、八七四釜の六大製糸が林立しており、京都の郡是製糸も、明治四四年に一、〇〇〇釜、大正八年に四、〇〇〇釜と巨大経営に発展している。これに比べて、愛媛県の製糸工場は、大正五年(一九一六)で、県下最大の工場は大洲町(現大洲市)河野製糸三ノ丸工場の二四五釜であり、大製糸に対する規模の差は歴然としている(表工3-11)。
 大正五年の愛媛県器械製糸工場九六のうち、一〇〇釜を超える設備を有する工場は一三であり、昭和一〇年(一九三五)にやっと二六に増加している。しかし、その大部分は、一〇〇釜をわずかに超える程度の工場であり、このうち、製糸業法の二〇〇釜の基準を満たすものは五工場、うち、三〇〇釜以上の工場は二工場にすぎなかった(表工3-11)。
 明治以来、愛媛県の生糸の取り引きには、中央の大貿易商の力が強かった。三井物産などは、製糸業者が大きくなって交渉力を強めることを好まず、大正九年には、宇和島町(現宇和島市)の南予製糸など数社大合同の企画実現を妨げてしまったことがある。
 器械製糸の大きいものでさえ、二〇〇釜程度であったということ、そして糸質の向上に力が注がれて、量産のための多条式糸繰機の導入が遅れたということは、愛媛県で座繰製糸や零細器械製糸の存続を許すものであった。大正五年の『器械製糸と座繰製糸の製造能率表(村上是哉、伊予蚕業沿革史付表)』によれば、操糸機一釜対座繰工女(足踏器械つき)一人の生産量の比較は、県平均で、器械一釜の一六貫三九七匁に対し、座繰女工一人四貫三一五匁で三・八倍の開きがあった。しかし、器械設備の新設には多額の投資を必要とし、機械化の後も女子労働への依存度が大きかったから、愛媛の場合、製糸器械が小工場を駆逐してしまうほどの経済的効果に乏しかったといわなければならない。大正五年から昭和一〇年の間に愛媛県の器械製糸工場のうち、一〇〇釜未満の工場は八三から一〇三へ増加し、九釜以下の零細経営も二から五へ反転しているのである(表工3-10)。県下の座繰製糸の数も昭和七年までは一〇〇軒以上が残存していた(表工3-9)。

 農村型の愛媛製糸業

 愛媛に零細な製糸経営が存続したいまひとつの説明は、農業との結びつきが強かったということである。
 製糸業の発展と合わせて、愛媛県の桑園及び養蚕業も発展を遂げている。愛媛県下の桑細は、大正九年(一九二〇の八、七五四町歩から昭和四年(一九二九)の一万五、一三七町歩へと倍増の勢いをみせている。昭和四年のピーク時には、愛媛県の畑地の三分の一は桑畑であった。養蚕戸数も、大正九年の三万九、〇〇〇戸から昭和四年の五万七、〇〇〇戸へ増え、最盛時には愛媛県の農家の四割以上が養蚕農家であった。まゆの産額は、大正一一年の一六一万貫から昭和五年の三〇八万貫へと倍増し、昭和一〇年でも二〇〇万貫の生産を維持していた。
 これによって、愛媛県の製糸業は、原料のまゆを県内産でほぼ自給することができ、伊予糸の品質の良さを保つことができた。後年まゆの不足が感じられるようになって、少量を高知・徳島・大分・宮崎の近県から移入している。
 長期恐慌でまゆの価格が下落する中で、県下のまゆの生産量は年々増加していったわけで、愛媛県の製糸業は低廉良質の原料を近接の地に確保しえたという点で、零細経営も外部経済の利益を受けたのである。一方、大恐慌を契機として、養蚕農家みずからも、養蚕から製糸への一貫化に乗り出し、昭和一一年(一九三六)には南予一帯に、いわゆる産業組合製糸が七工場稼動するに至った。組合員数三、六〇三人、設備釜数六八二に及ぶ。その利点の一つは、原料の運搬費を節約できたことで、昭和一〇年の生糸一〇〇斤当たりの運賃コストは、営業製糸の六円八一銭に対し、組合製糸は三円四四銭と約半分であった。
 けれども、南予の農村が愛媛県の小規模製糸業の存続基盤として最も大きく寄与したのは、南予の農村に潜在する過剰労働力であったといわなければならない。
 大正一四年(一九二五)の『職工出身地調』によれば、製糸女工の出身地は、喜多郡一、五四八人、北宇和郡及び宇和島市一、九七三人、東宇和郡一、三二一人、西宇和郡一、三〇四人と南予四郡が圧倒的に多く(『資料編、社会経済上』九〇九頁)、製糸女工が、それぞれ地元の農山村から供給されていることが歴然としている。そればかりか、愛媛県からは、同じ年に四、九九一人という大量の女工が、関西地方や中国地方の繊維工業に出稼ぎに出かけていたのである。この年の『県政事務引継書』には、「労働者潤沢ニシテ大部分ノ職工ハ工場近辺ニ於ケル農家ノ子女ヲ以テ補充シウルノ状況ニアリ・・・本県ニ於ケル工場労働者ノ大部分ハ農家ノ子女ニシテ解雇セラルルコトアルモ其ノ大部分ハ帰農シ若クハ他工業ニ転ジ失業ノ結果生活ニ窮スルガ如キモノナシ」と記されている。
 女子労働力の潤沢な供給は、昭和恐慌の時期を通じて続いた。昭和八年の宇和島市の失業者は、女性が二七九人(失業率一四・九%)と男性の二二三人(失業率六・九%)を上回り、「婦人労働者の失業者が多いのは、養蚕業の衰退と密接な関係があり、宇和島地方に特にいちじるしい現象である」と『海南新聞』は報じている。
 このような女子労働力の供給圧力は、もともと紡績業以上に低賃金依存の強かった製糸業の賃金をいっそう引き下げ、零細経営の存続を可能にしたのであった。

表工3-7 生糸の輸出数量と金額

表工3-7 生糸の輸出数量と金額


表工3-8 生糸価格の推移(百斤建 歴年平均)

表工3-8 生糸価格の推移(百斤建 歴年平均)


表工3-9 愛媛県製糸業の推移

表工3-9 愛媛県製糸業の推移


表工3-10 愛媛県器械製糸工場の規模別地域別分布(大正5年と昭和10年の比較)

表工3-10 愛媛県器械製糸工場の規模別地域別分布(大正5年と昭和10年の比較)


表工3-11 愛媛県器械製糸大工場(100釜以上)一覧(大正5年)

表工3-11 愛媛県器械製糸大工場(100釜以上)一覧(大正5年)