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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

二 工場法施行

 執行猶予つきの工場法

 明治四四年(一九一一)、常時一五人以上の職工を使用する工場と危険工場とを対象に、女子年少労働者の保護を目的とする工場法が制定された・その内容は、①一二歳未満の者の就業禁止、②一五歳未満の者及び女子の就業時間を一二時間に制限、③一五歳未満の者及び女子の深夜業(午後一〇時~午前四時)の禁止、④一五歳未満の者及び女子に対する月二回の休日と就業時間内での休憩時間の義務づけ、というものであった。
 しかし、これらの条項にはすべて但し書きが添えられていて、適用のブレーキダウンが広範囲に予定されていた。すなわち、一二歳未満の就業禁止の条項の但し書きには「軽易ナル業務」であれば、行政官庁は一〇歳以上の者の就業を許可すると定められており、施行時の農商務省の訓令では、「軽易ナル業務」五種の中に「生糸製造工場ニオケル屑物ノ処理」「織物工場ニオケル筬通、綜絖通、糸ノ手繰又ハ管巻」「製紙工場ニオケル紙ノ折畳又ハ帯封掛」と愛媛県の主要地場産業のうち三つまでが含まれていた。また、紡績工場でも織布部門へ配置すれば幼年工の使用が可能であった。
 女子年少労働者の労働時間の制限の条項も、施行後(この施行も五年後の大正五年に延期されるのだが)一五年間は「業務ノ種類ニヨリ」一日一二時間を一四時間以内に延長することができるという、甚だしく悠長なものであった。製糸業は、大正一〇年(一九二一)の『工場法施行規則』で労働時間が一三時間に改定されるまでは、工場法で一四時間に制限されていたのであった。
 また、深夜業の禁止についても、「職工ヲ二組以上ニ分チ交替ニ就業セシムル場合」には、施行後一五年間は適用を除外するとなっており、本来この条項が対象とすべき、紡績・製糸などの紡織工業の大企業がはずされてしまった。大正八年、国際労働機関ILOが発足し、わが国の女子深夜業が国際世論の非難を浴びるにおよんで、工場法が改正され、昭和四年(一九二九)七月一日から女子年少労働者の深夜業が全面的に禁止されることになった。

 工場法の二つの効果

 このように欠陥だらけの工場法ではあったけれども、政府及び都道府県が一定の姿勢を示すことは、それなりの効果をもったといわなければならない。ひとつは、遅々とした歩みではあっても、労働時間短縮の傾向が動かしがたい現実になったということであり、いまひとつは、繊維産業の機械化・省力化をうながして弱小経営の淘汰と企業規模の拡大とをもたらしたということである。

 紡績女工と製糸女工

 愛媛県の統計によって、工場法施行後の繊維労働者の雇用状態を見てみると、長びく恐慌下でも、労働者総数は大正一〇年から昭和一〇年にかけて二万六、○○○人前後で、それほど変動がない(表工3-6)。
 愛媛県の繊維労働者は、その大部分が地場産業の製糸・織物で働いていて、紡績職工の比率はその二割を占めるにすぎなかったというのが大きな特徴である。
 紡績業と製糸業とは、最も典型的な女子労働依存型産業である。しかし、両者を比較すると、製糸業は、在来産業から発展してきたために、規模の零細性と技術の労働集約性とが著しく、紡績業よりもいっそう苛酷な労働条件を生み出した。
 表工3-6の大正一〇年の数字によると、女子労働力依存度は、製糸業九四・〇%、紡績業七五・七%で製糸業の方がはるかに大きい。ただ、一六歳未満の年少労働者の比率は紡績業の方が高い。これは、愛媛県の製糸労働者の供給源が南予などの農業と深く結びついているためで、この点では、年少工への依存が紡績以上に強かった諏訪地方の製糸業とは異なっている。製糸業は、操業にどうしても季節的繁閑を生じるため、まゆ切れ休みに帰農できる地元の女子の方が都合がいい場合が多かったのである。
 賃金についても、紡績業と比べて、製糸業の方がかなり低いのが普通で、大正一二年(一九二三)の愛媛県の職工賃金調査でも、女工の一日平均賃金は、一六歳以上で、紡績の一円八銭に対し製糸は九六銭、一六歳未満では、紡績七八銭に対し製糸は六五銭という差がついている。いうまでもなく、愛媛の紡績女工の賃金じたい全国水準よりもかなり低く、そこに大紡績資本の愛媛進出の理由の一半があったのだが、それと比べても、製糸業はさらに低い。しかも、労働時間では、紡績工場が二
交替で一〇時間程度であったのに対し、製糸業は一日一四時間(工場法適用工場は一三時間)におよんだのであるから、時間当たりの賃金になおせば、その低さはもっと明白になる。
 しかし、労働時間短縮の風潮は次第に南予地方にも浸透し、大正の終わりには、競争力の強い大手の製糸工場の中には工場法基準を上回る一二時間半の労働時間を実施するところも現れている。その工場(四国生糸南予工場)では、女工から労働時間の希望を聞いて、目下当工場で実施中の一二時間半の希望が最も多かったと自画自賛している。ともあれ、労働時間短縮の傾向が、製糸業においても、製糸能率の向上と原料まゆの精選など生産合理化への圧力を高め、ひいては、弱小経営の淘汰をもたらしたのは事実であるといわなければならない。この長い不況の時期に、器械製糸に駆逐されて、座繰製糸の経営数は四分の一に減ってしまっている。

 紡績業における幼年女工の増加

 紡績業においても、深夜業の廃止と労働時間短縮をテコにして、機械設備の革新が著しく進んだことは、すでに述べたとおりである。
 しかし、紡績業において、機械化が旧式の熟練を不要にしたこと、労働時間を短くしたこと、深夜業がなくなったことは、かえって、年少労働者への依存を高めることになった。また、不況下の賃下げに対する女工の抵抗が大きく、紡績争議が頻発したことも、年少女工への選択に少なからず影響をおよぼしたと考えられる。
 大阪合同紡績では、昭和二年(一九二七)に今治第二工場で舎監排斥という名目で四日間のストライキがあり、一〇〇名の大量退職者を出した。当時、今治工場の男工の大部分は臨時工という名の常用工であって、工場法に基づく解雇手当の支給は受けなかったといわれている。この合同紡今治工場では、昭和四年二月、小学校新卒のみ一〇〇人を女工として募集している。そして、その年の九月、同工場の女工二〇〇人は、賃金引き上げを要求して怠業をひきおこしている。
 愛媛県全体についていえば(表工3-6)、紡績業における女子の比率は、大正一四年(一九二五)の七四・九%から昭和一〇年の八八・〇%へ、一六歳未満の比率も、二〇・八%から四四・四%へ急上昇しているのである。このように、工場法は、不況下の紡績資本にとって新たな合理化の手段を生むという逆効果をもたらすものであった。

表工3-6 繊維労働者の男女別年齢別構成(職工10人以上使用工場)

表工3-6 繊維労働者の男女別年齢別構成(職工10人以上使用工場)