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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

一 綿糸の暴落と合理化-紡績業

第一次大戦後の綿業恐慌

 第一次大戦中の綿糸に対する異常な投機は、大戦終結後も衰えず熱狂的なものとなったが、たちまち、大きな反動を迎えた。大正八年(一九一九)一一月に二〇番手一梱七二八円の高値を示した綿糸は、大正九年の一〇月には二二〇円へ三分の一以下に暴落した。そして、大正一〇年三月には一六〇円という記録的安値をつけるに至る。
 大正九年の戦後恐慌の引き金となったものは三月一五日の株式の大暴落であり、四月七日の二番底では各地の取引所で一週間の立ち合い停止となった。四月一三日午後の再開後も下落が止まらず、立ち合いを停止し、東京株式取引所は五月一四日まで一か月の休業を決めた。綿糸相場は、三月時点では影響か少なかったが、四月一三日から一四日にかけて未曽有の大暴落となり、大阪三品取引所は四日間の市場閉鎖に追いこまれた。
 この事態に対処するため、在阪の綿糸商は五月末に輸出綿糸組合(シンジケート)を結成し、期近物(五月と六月)の約定綿糸の未引取分を買い取り、これを外国に輸出することにした。買い取りのための資金は、日銀の特別融資によって各銀行を通じて四、八〇〇万円が融通された。うち三、五〇〇万円は正金・三井・三菱・住友など為替銀行が調達し、うち一、三〇〇万円は三十四・鴻池など内地銀行七行が融資を行った。当時のわが国産業における綿業の地位は圧倒的に大きく、綿業の救済には日本経済そのものの浮沈が賭けられていたのである。シンジケートが引き取った綿糸は九万梱に達し、その売却損は一、六八一万円にのぼった。その半分は、輸出綿糸組合が負担し、残りの半分は紡績連合会が負担するという約束であった。
 だが、これでは焼け石に水で、急場しのぎにすぎず、一年半向こうまでの先物綿糸約定分がまだ残っていた。その量は二、〇〇〇万梱という絶望的な数量にのぼり、全量の受け渡しは到底不可能であった。
 綿糸商同盟会は紡績連合会とはかって、先物買付済の綿糸についで、総解合によって契約をご破算にして決着をつけることになった。これは、紡績会社が綿糸商に約定している綿糸または綿糸を清算標準価格(解合値段)で買い戻し、それと先物約定価格との差額(値合金)の受け渡しによって決済をするというものである。紡績会社の方も、得べかりし利益を失い、原綿の先物買い付けは国際信義上履行をまぬがれなかったので大損害を蒙ったが、戦時利益のぶ厚い内部蓄積によって対処する余裕があり、かつ現物(綿糸)を取り戻し、値合金を手にすることができた。他方、綿糸商にしてみれば、綿糸の買い入れがなかったことになるのだから、値合金は文字どおり罰金だけを支払うことになる。話し合いによって綿糸商の支払う値合金は半額ないし三割五分にまで軽減されたが、綿糸商の売渡し先である機屋からは結局二割ぐらいしか戻ってこなかったといわれている。
 大半の綿糸問屋が資金繰りにいきづまって相次いで破産した。さしもの伊藤忠兵衛でさえ、経営縮小を余儀なくされ、大正一一年(一九二二)に今治支店を閉鎖して、大阪からの出張員が今治のタオル業者などの注文をとりに出向くようになった。後の伊藤忠社長越後正一も学校出たてのころ、今治ヘセールスに来たといわれている。

 紡績連合会第九次操短

 大正九年四月の綿糸暴落直後、大阪綿糸商同盟会は、東京・名古屋・京都の綿糸商同盟会とはかって、三割操短の要請を紡績連合に対して申し入れている。
 これに対し、紡績連合会は、大幅の操短には難色を示しつつも、同年五月一〇日から、一か月のうち六昼夜の操業を停止するという、生産制限(第九次操短)を実施した。愛媛県下の紡績工場も一か月六日間の休業にはいった。六月一五日からは、一か月四昼夜操業停止とし、加えて、操業日の運転時間を昼夜各一〇時間(計四時間短縮)に制限し、紡機の一割休錘を実施するというように強化した。八月一五日から九月一五日までは二割休錘が実施されたが、その後一割休錘に復した。この第九次操短は、綿糸価格の回復がはかばかしくないまま、翌年一二月一五日に全面解除となった。

 恐慌下の設備増設

 大正九年の戦後恐慌の後も、大正一二年の関東大震災、昭和二年(一九二七)の金融恐慌、昭和四年の世界大恐慌と長い不況の時代が続いた。この間、綿糸の価格は低落の一途をたどった(表工3-3)。大正八年のピーク時に七二八円(二〇番手一梱)の最高値をつけ、年平均でも五〇〇円の大台を保った綿糸価格は、大正一〇年には二三〇円に暴落し、昭和五年から六年にかけては世界大恐慌のあおりを受けて一二九円というドン底にまで下げた。一方、中国やインドでも紡績業が始まり、保護関税の引き上げや日貨の排斥運動が起こって、輸出を確保するのも難しい状況であった。
 それにもかかわらず、長期の大不況のさなかに、わが国の紡績工場は増錘につぐ増錘を敢えて行い、設備の増強をし続けた。大正九年(一九二〇)に三八〇万錘であった全国の綿紡績工場設備は、大正一三年に五一〇万錘、昭和三年に六五〇万錘、昭和七年に八〇〇万錘、昭和一〇年には一、〇〇〇万錘と着実に増加し続けた。
 愛媛県下でも、昭和二年の合同紡今治第二工場の新設、昭和四年から六年にかけての東洋紡川之石工場の改修増設、昭和七年の倉紡松山工場の増設など、不況下で設備の拡充がはかられた。残念ながら、県下紡績工場の紡機設備錘数の公的統計がない。それに代わるものとして、県統計書から紡機などに使用する動力機馬力数の上昇ぶりを追ってみても(表工3-4)、県下の紡績工場の設備能力の大幅な上昇は歴然としている。紡績工場馬力数総計は、大正八~一〇年の三、〇〇〇馬力から昭和一〇年の一万四、〇〇〇馬力へ、四・五倍増となっている。この間、紡機の電動化、高能率化が進み、また、織布兼営など多角化が進んでいるから、馬力数の増加は紡機の増錘のテンポをはるかに上回っている。
 また、大正一〇年末から昭和二年五月第一〇次操短が実施されるまで約五年半近く、操短の協定がなく、操業が野放しにされたのも、わが国の紡績史上めずらしい事態であった。

 合同紡の今治進出

 綿業恐慌の中で、群小紡績は経営危機に陥り、大正一一年(一九二二)から一二年にかけて、中小紡績三〇社近くが大阪に集まって操業短縮を紡績連合会に働きかけること数度におよんだが、紡績連合会の主流をなす大紡績は操短に対して否定的態度をとり続けた。
 愛媛県下でも、今治紡績が不振に陥り、大阪合同紡績に工場施設一切を七六万円で身売りし、大正一二年一〇月から合同紡今治工場となった。大阪合同紡社長の谷口房蔵は、操業短縮に最も強く反対し、設備拡張に最も積極的であった一人である。大正一四年には、今治市天保山海岸に四万五、〇〇〇坪の土地を買い入れて、三万六、〇〇〇錘の新鋭工場の建設に着手、昭和二年(一九二七)には完成して合同紡今治第二工場として稼動を始めた。これによって、合同紡は、東洋紡・日本紡・鐘紡・冨士瓦斯紡に次ぐ全国第五位の紡績会社となった。

 不況下の増設の理由

 不況にもかかわらず、なぜ、大紡績は操短をせず、設備の拡張をはかったのか。
 その理由のうち、最も大きいものは、国際競争力の強化という視点である。第一次大戦後、中国やインドの綿業進出により、太糸や粗布は後進国の自給率が高まり、国際市場でも不利になった。反面、細糸の高級糸は、イギリスなどの先進国に対して技術的にも経済的にも到底太刀討おできなかった。海外市場をめざしていたわが国紡績資本が、規模の拡大による生産費の切り下げと、機械設備の更新による品質の向上に踏み切ったのは、むしろ当然というほかない。競争から脱落した中小紡に多少の犠牲が生じても、それは大紡績による吸収集中への絶好のチャンスとみなされたのである。
 いまひとつの大きい理由は、工場法の実施と改正強化である。大正五年(一九一六)九月の施行では、女子・年少工の就業時間か制限され、昭和四年(一九二九)七月には、女子の深夜業が禁止された。これらは、操業時間を短縮し、減産効果をもたらすから、事実上、法律によって操短が強制されたのも同然であった。わが国の紡績資本にとって、工場法は、国際市場に参加するための切符であり、早くからその準備の手が打たれてきたのである。女子の深夜業禁止は、関東大震災による延期がなければ、大正一五年から実施を見るはずであったから、紡績業の各社は工場増設による産業合理化の形で一斉にその対策を練ってきたのであった。

 倉紡松山工場増設計画の遅延

 倉敷紡績も深夜業撤廃対策として、大正一三年末(一九二四)に本店高橋技術課長・林人事課長が中心になって、各工場改修基本計画を作りあげた。それによれば、松山工場も既設の一万六、五一二錘から経済単位の四万錘に増設し、設備の根本的改修をすることが企画された。
 これより先、大正八年にも松山工場の大拡張が計画され、工場隣接地の買収にとりかかったことがある。その時も、工場の所在が古町に近いため、地価が田地で坪一〇円、宅地で一五円と高く、家屋の立ちのき費用にも坪三〇円を要することがわかったので、拡張は中止された。
 大正一五年八月、工場改修基本計画に基づいて、松山工場の二万五、〇〇〇錘拡張計画を発表し、再び、土地買収にとりかかった。倉敷紡績側は、工場の裏手を走る伊予鉄・道後線の路線変更と、購入地価引き下げについて、松山市の斡旋を要請した。松山市は伊予鉄と交渉して、路線変更の承諾をとりつけたが、その費用一一万円を倉紡と松山市とが折半するという条件について松山市議会は難色を示した。また、買収価格も、坪二〇円以上と倉紡の見込みよりもずっと高かった。結局、大正一五年の年末で交渉を打ち切り、松山工場の増設計画は、またも中止された。
 それからわずか数か月後の、昭和二年(一九二七)三月、待遇改善など二五か条の嘆願をめぐって倉紡松山工場の争議が起こり、同年一〇月に職工社宅が建築され、更衣室が整備された。嘆願の中には、便所の修理・更衣室の完備などが含まれ、工場建物は、かなり老朽化していたものと思われる。
 昭和四年四月から、倉敷紡績は深夜業を廃止した。その結果、松山工場のような旧式機械の小規模工場では能率が悪くて競争にならないことがはっきりした。昭和四年一〇月の重役会では、三たび、松山工場の改修と増錘計画が審議されたが、工場敷地買収の見通しが立たず、昭和五年五月、遂に中止を決定した。

 倉紡松山工場の合理化

 当時の紡績業は、産業合理化運動が盛んな時期で、倉紡松山工場の場合も、その一例にすぎない。松山工場の拡張は実現しなかったが、昭和四年以降、機械設備の改良を行って、深夜業廃止による製品のコストアップを防止することにつとめた。
 綿紡績の工程は(図工3-4)のとおりである。混打綿工程は連続化され、ごみが詰まってもいちいち運転を止めずに自動的に除去されるようになった。梳綿工程は最も綿ぼこりの多い工程であったが、集じん装置の採用によってひんぱんな掃除の手間をはぶいた。粗紡工程は、始紡・間紡・練紡の三工程を経るのが普通であったが、篠替に要する時間を節約するために、太系の篠巻を大きくするロングリフト改造が昭和五年になされた。これによって、それまで始紡や間紡のリフトが一〇インチだったものが一一インチになり、練紡は七インチが八インチになった。
 続く精紡工程は最終工程であり、紡績工場全体の消費電力の五〇%、作業人員の四〇%を占める要の工程であった。この工程にハイドラフト精紡機を導入し、引き伸ばし(ドラフト)の能力を従来より倍増して、品質の向上と粗紡工程の短縮とをはかるというのが、紡績工程合理化の最大の眼目であった。
 松山工場では、精紡機のロングリフト改造のため粗糸が不足し、窮余の策として、昭和七年(一九三二)秋に間紡工程を省いた粗糸で太糸の精紡を従来の機械で試みた。当時良質の米綿の混入率が八割と高かったことも幸いして、2錘量も糸質も低下させずに生産することに成功した。これにより、松山工場は、大幅のコストダウンを実現し、旧式機械であるにもかかわらず、倉紡一二工場中第一位の成績を収めた。この実績に基づいて、昭和七年一二月に松山工場にハイドラフト精紡機四、四〇〇錘(豊田三線式ハイドラフト機四〇〇錘建一一台)を増設し、既設の精紡機三〇台もハイドラフトに改造した。
 皮肉にも、これが倉敷紡績におけるハイドラフト化の発端となり、倉紡の主力工場は、翌八年八月にハイドラフト精紡機を発注した。
 電力コストの節減も生産合理化において大きな役割を果たした。動力機部門は生産費の二〇%を占めたのであるから、紡績工場の生産合理化は作業機部門だけではなく、動力機部門でも行われた。この時期に、国産小型モーターの導入によって各工程の機械は総合運転から単独運転へ転換した。単独運転の最大の利点は、紡錘の回転を制御できる点にあらわれた。糸が管子に巻きつくにつれて管子がふくれ、巻きとる速度が早くなって糸が切れやすくなる。糸の巻きとりの速度が一定になるように、電動機の回転速度を調節することが、三相交流整流子電動機の個別運転によって容易にできるようになった。小型モーターだから重い伝導軸や場所ふさぎのベルトもいらないぽかりでなく、糸が切れても機械全体を止める不便もない。操短の場合には紡機の遊休台数に応じて動力を節減することができた。小型モーターによる単独運転方式は、精紡・粗紡の工程だけではなく、混打綿・練篠・梳綿の諸工程にも採用された。さらに、電動機の性能の向上・非能率機の入替・機械回転部へのボールベアリングの使用・潤滑油の改善など、さまざまの角度から省エネがはかられた。松山工場の綿糸一梱当たり使用電力量は、五年ほどの間に一二%も低下している(表工3-5)。

 倉紡北条工場の新設

 時期はやや下がるが、昭和一三年(一九三八)一〇月に落成した倉敷紡績北条工場についても述べておきたい。倉紡は昭和不況期に再三、松山工場の拡張を企画して果たさなかった。昭和七年五月、町長松田喜三郎の工場誘致の熱心な働きかけもあって、工場建設地として、温泉郡北条町(現北条市)が最有力候補にあがった。ところが前に述べたように、松山工場で精紡機のハイドラフト化の実験に成功したので、倉紡としては全社工場のハイドラフト精紡機の増設が急務となり、新工場の建設は中止となった。
 昭和一二年一月、倉敷紡績は、創立五〇周年記念事業として、理想工場の建設を計画し、その工場敷地を前に話のあった北条町に求めた。立岩川河口の二万八、五〇八坪の用地を坪六円の売価で即座に話がまとまり、一潟千里の勢いで工場建設が進められた。同年七月、日中戦争が始まり、多少の遅延はあったものの、昭和一三年九月に北条工場は五万二、〇〇〇錘の紡機と二、〇一七台の織機とを有する最新鋭の工場として竣工した。これ以後は、戦時体制にはいって、わが国の繊維製造機械の新増設が全面的に禁止されたので、戦前の紡績業における最後の新設工場となった。

表工3-3 綿糸価格の推移 20番手1梱(40玉)暦年平均

表工3-3 綿糸価格の推移 20番手1梱(40玉)暦年平均


表工3-4 動力からみた愛媛県綿紡績の設備能力の拡大

表工3-4 動力からみた愛媛県綿紡績の設備能力の拡大


図工3-4 綿紡績工程順序

図工3-4 綿紡績工程順序


表工3-5 倉紡松山工場綿糸1梱当たり使用電力量(20番手換算)

表工3-5 倉紡松山工場綿糸1梱当たり使用電力量(20番手換算)