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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

二 今治綿ネル・タオル

 白木綿から綿ネルへ

 明治四年(一八七一)の廃藩置県によって白木綿の特権的織元の制度が廃止された。綿替制による白木綿の生産は伸び、明治一〇年には四〇万反の産額に達した。ところがこのころから、外国綿糸布の輸入に押されて衰え始め、明治一八年には、年産一万八、〇〇〇反に減っている。これを打開するには、洋式紡績の綿糸を原料として工場制生産に切り替え、綿布も白木綿に限らず、需要度の高い綿織物にすることが必要であったのである。明治二〇年(一八八七)に至っても五万九、七五四反余に過ぎなかった。
 明治一九年一月、今治の綿替商矢野七三郎ら綿替商の有志は紀州ネルの流行を見て将来を察し、和歌山の綿ネル製造を伝習、合資会社興修舎を創立した。これが伊予綿ネルの始まりであり、今治地方における織物マニュファクチュアの最初であった。しかし、予期した製品ができず会社は半年で倒産、矢野七三郎は再三会社を再建して日夜織立・起毛・染色の研究に心を砕いた。販路についても開拓に東奔西走し、今治綿ネルが軌道に乗りかかった矢先、刺客の凶刃に倒れた。明治二一年、村上熊太郎は原糸の精進と晒白に苦労を重ねて白ネルの生産に成功し、市場で好評を得て販路を拡大した。明治二四年にはバッタン機の使用を開始し、広島・松山などの兵営からも注文を受けるようになり、同二七年産額五〇〇万反を超えた。

 綿ネルの発展

 明治二八年ごろには同業者も増加し、互いに競争となり、粗製濫造の弊が生じた。信用を失い廃業者さえでるに至った。有志ら大いに憂え、組合を設けて共同一致して、品質を向上しようとした。同年、綿ネル経営者一二人が伊予綿ネル組合を設立して、これらの統制にあたった。
 明治三三年(一九〇〇)阿部合名会社は、バッタン機五〇〇台を設備していた本工場を蒸気力による鉄製力織機に切り替えるため、イギリスからブラット・ブラザース力織機五〇台を輸入し操業を始めた。村上某もこのころ動力起毛機を使用している。この年、興業舎より新たに製出した縞ネル夏綾を台湾・上海地方に輸出した。翌三四年、岡田恒太も藍棒ネルを広東地方に試売している。生産額も順調に増加し、日露戦役では軍用品として需要を伸ばした。明治三八年には産額二〇万反に達した。当時動力起毛織機を有する工場は阿部合名会社の外二か所に過ぎなかった。同年有志らが協力して委託起毛を目的とする今治起毛合資会社を設立した。翌三九年、阿部合名会社も国産織機二一台を増設している。
 明治四〇年代にはいると、綿ネルエ場の機械化は大きく進展する。明治四〇年(一九〇七)、長野綿練工場は国産力織機一〇台とイギリス製ロバートホール式力織機一台を設備して、手織機を全廃した。伊予織布合資会社もイギリス製ジッキンス式力織機七八台を設備している。この年、『越智郡々勢誌』(大正五年)には、産額二六万二、〇〇〇余反、一二六万七、〇〇〇余円、同業者二九名、手機四、〇二〇台、力織機八〇台に達したとある。
 明治四三年に、伊予織布会社がイギリス製ロバートホール式力織機三〇台を増設し、今治織物合名会社もイギリス製ジッキンス式織機五八台とロバートホール式力織機三〇台を導入した。翌四四年矢野綿ネル工場がイギリス製ロバートホール式力織機二一○台を、興業舎もイギリス製ブラット・ブラザース式力織機五〇台を新設したのである。
 こうして、今治綿業の産業革命は、明治三三年に始まり、同四〇年代に高潮期を迎え、同四五年までに一応終えたと考えられている。
 綿ネル手織機が明治四〇年ごろを頂点として以後減少し、白木綿手織機も同四三年をピークとして、同四五年には三分の一に激減している。
 白木綿の機械化は、綿ネルに比べて立ち遅れていたが、明治四〇年に丸今綿布株式会社が、国産力織機一〇台を入れて第一歩をふみ出し、同四五年には国産力織機三二〇台を増設して、出機制を全廃したのである。

 タオルの創始

 明治二七年(一八九四)一二月今治の阿部平助は新規織物を出して地方の特産物にしたいと考え風早町に工場を建設した。タオル織機四基をもって製造を開始した。これが当地方における濫觴といわれる。翌二八年には不幸にして火災で焼失してしまったが、将来の発展を期して明治町に工場を再建した。三〇台の織機を据え付け、その年七、八千ダースを製造している。これを大阪・岡山・尾道・松山方面に販売した。
 明治二九年四月には会社組織に改め、産額も増加したが、経験浅く工費が高く付くので利益は少なかったという。綿ネル製造の余り糸、汚損糸を利用することができるので、同三四年まで盛んに製造した。しかし、同社が力織機を設置して綿ネル製造に主力を注ぐようになり副業化した。大正五年(一九一六)に廃止のやむなきに至っている。
 阿部合名会社に刺激されて二、三の同業者も現れたが、産額少なく、製法も幼稚であった。明治四三年(一九一〇)麓常三郎は宮本合名会社を設立し、タオルの製造を始めた。従来の製法に飽き足らず、大いに改良の余地あるを感じ、作業工程・製織法の改良に苦心考案を重ねた結果、製品の品質を一新させ、二列式製織機の考案に成功した。
 続いて丸今布合名会社においても製造を開始し、明治四五年よりは新規営業者が増し、その製品も多くなり、遠く中国・インド・南洋にまで輸出されることになった。今治タオルの名声は国の内外市場に宣伝せられるようになったという。当時白木綿業者は加工料の多いタオル製造の有利さを見て、転業者が続出した。ここに、製品の統一と取り締まりの必要性から大正四年綿布組合に加入させた。同年度の産額は二一万八、〇〇〇余ダースで、その内二割八分強は中国向け輸出品であった。
 大正五年に出版された『越智郡々勢誌』には、この時点の今治タオルについて、「今治町には綿ネル、白木綿の外に、近来勃興の新事業としてタオル業あり、従来副業的に阿部株式会社及び一二工場に於て製織せられ居たるも、専心同業の経営に着手したるは、現富本合名会社代表社員たる麓常三郎氏なり」と記されている。今治にタオルの種子を蒔いたのは阿部平助であり、今治の大地にしっかりと根を下ろさせ今日の繁栄の基礎をつくったのは麓常三郎であったといわれている。
 麓常三郎が「二挺筬バッタン(二列式タオル製織機)」の特許をとった明治四三年にはわずか三台であったものが、翌四四年には一五〇台に増加し、タオル生産も九、二六〇ダースから三万六、一五六ダースへと飛躍している。その後の生産状況をみると、大正元年(一九一二)一四万一、六七八ダース、同二年二五万六、四七二ダース、同三年一二万三、五一五ダース、同四年二一万八、六六一ダース、同五年四四万五、四九五ダースとなっている。大正三、四年の減産は第一次大戦勃発による中国への輸出不振によるものである。
 今治タオルの産額累年統計は、『今治市誌』(昭和一八年)には大正二年から、『今治タオル工業発達史』(昭和二八年)には明治四三年(一九一〇)からの生産統計があり、揺藍期の推転を知ることができる。明治四三年調査の『愛媛県勧業年報』(愛媛県内務部)によると明治四二年末現在の「工場一覧」では阿部合名会社のみが、製造品種として綿フランネル・タオルとある。『愛媛県統計書』には大正二年から綿織物の中にタオルの項が初見され、明治四三年からの累年統計がある。
 大正四年タオル業者を伊予綿布同業組合に加入させた際は、同業者二五名で、その製品は遠くインド・中国・東南アジアに輸出せられて、今治タオルの名声は国の内外に知られるところとなったのである。

表工2-8 愛媛県の織物製造業

表工2-8 愛媛県の織物製造業


表工2-9 今治綿織物数

表工2-9 今治綿織物数


表工2-10 今治織物産額累年統計

表工2-10 今治織物産額累年統計